第9話 罪と罰
クニヌシは台所から缶ビールを取ってくると、ベッドのサイドテーブルに置いた。
「まだ起きれんだろうな」
拓海のところへ歩み寄ると、椅子をそっと引く。今年で十九歳になる拓海を軽々と抱きかかえ、ベッドへ連れていった。
物欲しそうな声でモノカミが声を上げる。
「うわー、お姫様抱っこってやつだぁ。いいなぁ、いいなぁ、僕もたまには抱っこして欲しいなぁ」
クニヌシは青ざめた拓海をゆっくりとベッドの上に寝かせてやると、肌布団を体にかけてやった。寝顔を見つめながら顔をほころばせて言った。
「兄者の若い頃に似ているとは思わんか?」
モノカミはクニヌシの反対側に回ると、クンクンと拓海の寝顔に顔を近づけると、思いっきり匂いを嗅いだ。
「ええ。僕も似てるなぁと感じていたんですよ」
「目が見えずとも、お前はまるで見えているかのようだな」
「僕は五感が働くんですよ」
「そうだったな」
クニヌシは盲目のモノカミに微笑むと、モノカミの背後に朝日が差し込み始めたことに気づいた。
「そろそろ限界だろ。もう休むといい」
「そうですね。たっくんの霊力は意外と上物だったんで、作業は捗ったんですけど。それでも足りなくって……」
モノカミは眠そうな顔でクニヌシの方へ歩み寄ると、背後でクニヌシの肩に手をかける頃には、先ほどまでの勢いはなくなっていた。
「結構きてるな……どうやら、力を使い、果たした、みたいです……ヌシ……様」
クニヌシの首筋に顔を埋めるとモノカミは目を閉じ、クニヌシの中に消えていった。
「ご苦労」
クニヌシもベッドを背もたれにして、ゆったりと座り込むと、静かな部屋に缶ビールのフタを開ける音を響かせた。
「さて、どうなることやら」
炎が渦巻く大きな玉を眺めながら、ビールを一口飲む。
モノカミと会話している間にも、玉はどんどん成長し、女児の姿は段々と視認できるようになっていた。女児は半開きの目でクニヌシを見ている。
「いのち短し恋せよ乙女、か。昔の人間は上手いことを言いよった。お前も二度目のこの世を存分に謳歌するがよいぞ」
女児は膝を抱えていた両腕を解き、だらりと腕を落とすと宙を仰いで、かすかに笑った。
「酒の肴には幼すぎるな、お前は」
クニヌシは小さく笑って、残っていたビールを一気に飲み干した。
頬に赤みが戻りつつある拓海の横顔に、クニヌシは満足げにしばらく見入っていたが、耳元に口を近づけ呟く。
「目覚めよ、拓海。夏樹が待っておるぞ」
拓海は深い眠りの底から急浮上するように、両瞼をぱちっと開いた。
ーーあれ、ベッドで寝てる?
声がした方へ拓海は顔を傾けると、そこにはクニヌシがほくそ笑んでいる。その後ろにある、成長し切った玉が視界に入ってきた。
「これ……なに?」
クニヌシは眼鏡を取り、玉から目が離せないでいる拓海の顔に黒縁眼鏡をかけてやった。
拓海は眼鏡のブリッジを中指で少し上げ、位置を調整すると、玉の中の女児と目が合った。玉の中で盛っていた煉獄の炎は消え去り、水の中に子供が閉じ込められているように見えた。
「……夏樹だ」
恐る恐るベッドから出ると、水の中で長い黒髪をくゆらせ、こちらを見ている女児に近寄った。
透明の玉が壁となり、女児に触れることができなかったせいか、助けを求めるようにクニヌシに振り返る。
「焦るな。今日はここまで」
「水の中だぞ? 大丈夫なのか? 金魚じゃあるまいし」
懐かしさと感動、そして恐怖に似た感情が入り混じった複雑なテンションで、拓海に笑いかける玉の中の女児と、涙をこらえて見つめあった。
「問題ない。羊水だと思えばよい。女児の形成が確実となるまで、まだ少し時間がかかる。待てるな?」
「分かった……夏樹、戻って来たんだな……」
水槽に入った人魚を見るように、女児に見入っていると、密かに抱いていた幼くて淡い恋心が蘇ってくるようだった。
「初恋だったんだぁ……夏樹は知ってたかな」
そこに血まみれの女児の姿はなく、生前の快活で太陽なような存在だった夏樹そのもの。最初は固かった笑顔も、自然なものに変化していく様は拓海を歓喜させた。
「あの娘の体はモノカミが作ったもの。お前の力も借りてな」
「モノカミ?」
「覚えてないか? モノカミがこの玉の中に吹き込んだ煉獄の炎で、娘の魂を浄化させ、今こうして紛い物の器に生前と同じ純な魂をなじませているところだ」
「とんでもない話だな……」
「惨殺された時の記憶も痛みも、恨みも、不浄なものは、あの娘に何一つ残ってはおらん」
「そうか……夏樹は生前の記憶はどこまであるんだろ。その、幼馴染だった時の記憶とか」
「残っているはずだが、確かなことは分からない」
拓海の脳裏に夢だと思っていた、あの藍色の少年の事を思い出した。
「あいつ、モノカミっていうのか。俺の苦手なタイプだったような気がする」
クニヌシは声に出して笑った。
「そんなことを言うものではないぞ。神の領域に手を出してまで、あの女児をこの世に連れ出したのだから。感謝しろ」
「穏やかじゃないな……俺たち、罰当たりをしでかしたわけだ」
「まあ、そういうことになるな」
こともなげにクニヌシは快活に答えたが、それを願ったのは他でもない拓海自身。
「まさか、クニヌシの実家にある牢獄に繋がれたりしないよね?」
「お前は本当に賢い子だ」
「え、当たってる? そこ、詳しく……」
大事な話の途中に、まだビールの買い置きはあるのか、冷蔵庫の最後の一本を飲んでも問題ないか、とぬけぬけと聞いてくるクニヌシにイラっとしたが、拓海は好きに飲めと言い放ち、それよりも今後どうなるのかを執拗にクニヌシに聞いた。
「待て、待て、焦りすぎだ。確かに、今回のような所爲は神をも恐れぬ愚行だ」
「うん」
最後の缶ビールをグビグビと半分くらいまで飲み干すと、一息ついてクニヌシは穏やかに答えた。
「対価を払えなければ、裁きが下る。お前はお前自身で蘇りに相当する何かで支払えば良い」
「最初に言ったと思うけど、神に払えるものなんか……俺、持ってないぞ?」
女児はきょとんとした顔でこちらを見たり、時折、水の中でくるりと回ってみたり、拓海の方をじっと見たりしていた。
拓海も女児の様子を伺うように、玉をつついてみたり、女児が笑えば拓海も一緒に笑ってみる。いつまでも玉の前から動かない拓海を、クニヌシは後ろから抱きしめて言った。
「ともかくだ、いのち短し恋せよ乙女」
「なんだよ、それ? それに鬱陶しい奴だな、離れろよ」
「人の生とは拓海が思っているほど長くはない。夏樹とお前も同じだ。その時、その時を尊ぶがよい」
「大丈夫だよ、俺は充分にまだ若いんでね」
拓海がクニヌシの言った言葉の本当の意味を理解するのは、まだ少し先のお話。
どうやら人の体温というものは、心を安堵させ不安を取り除いてくれるようだ。人に受けてもらう心地よさを、拓海は自分から突き放すことはできなかった。
ーーやっぱ、猫欲しいなぁ。
読んでいただきあありがとうございます。一部内容に修正を加えました。