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常世の国のシトラス  作者: くにたりん
第7章
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第83話 金木犀

拓海と夏樹の関係は後退していたとしても、お互いがほんの少し歩み寄れば、関係の修復は今からでも遅くはないだろう。


梓から明かされたタイムリミットが、拓海の抱えていたやり場のない憤りをどこかへ吹き飛ばした。残された僅かな時間の前では、些細な苛立ちも不安といった負の感情は無力だ。


今朝の拓海はいつもと違う。身支度を手早く整えると、躊躇なく白鳥神社へ足を向けた。先々のことを考えたり文句を言うより、今できることを選んだに過ぎないのだが。


足早に通り過ぎようとした拓海はポスターに目を奪われ足を止めた。思わず笑みが口元に浮かぶ。エレベーターを降りたところにある共同スペースに掲出されたポスター。夜空に打ち上げられた色とりどりの花火がイラストで描かれている。


その頃、モノカミの手当のおかげで体調を戻した夏樹は、ようやく目を覚ましたところだった。


「あらら・・・もう朝なんだ。無駄にゆっくり過ごしてる気がする。まあ、いっか」


あちらへ旅立つ前日は神社を出ないように、とモノカミにきつく言われているのを思い返した。つまり、夏樹が自由に神社を出入りできるのは今日を入れてあと3日。特別な出来事もないまま、ただ日常が淡々と過ぎていく。


障子から差し込んでくる朝陽がほんの少し眩しい。寝室にしている和室の隅っこには小さな座卓があり、彩乃が庭から摘んできた金木犀きんもくせいの花が活けられていた。


(確か甘くていい香りのはず)


部屋の中は金木犀きんもくせいの香りがいっぱいに広がっている。夏樹は記憶の底にまだあるかもしれない花の香りを思い出そうと、布団からゆっくりと体を起こしてみる。その小さなオレンジ色の繊細な花から放たれる芳香が夏樹に届くはずもない。


(まだ頑張って咲いてて欲しいな。すぐ散っちゃうんだよね、この花)


上半身を起こしたまま布団にじっと座っていると、そこへ朝食の支度ができたことを告げに、制服を着た文乃が現れた。閉じ込められていた香りが飛び出すように廊下へと逃げていく。


気持ちの良い朝だ。文乃は障子を開けた瞬間、一身にその香りを受け止めるように大きく息を吸い込んだ。


「いい天気ですよ。まだ少し暑いけど。さあ、支度をして居間へどうぞ。朝食にしましょう」


金木犀きんもくせいの強い芳香にうっとりとしながら、文乃は夏樹に生き生きとした微笑みを投げかけた。


「うん。すぐに着替えてそっちに行くよ」


笑顔のまま部屋を文乃が去ると、夏樹は一度だけ大きく伸びをした。その時、両脇に双子の姉妹が現れた。姉のユリアと妹のウララの顔を交互にみると、二人は艶っぽく微笑んでいる。


「おはようございます、ユリア様、ウララ様。ど、どうかされました?」


ユリアは艶やかに輝く銀髪を手櫛ですきながら、甘えるように夏樹に答えた。


「どうもこうもないわ〜」


妹のウララは懐から手鏡を取り出し、姉の言葉に頷きながら鏡の中の自分をまじまじと見つめている。時折、顔の方向角度を変えながら、少しピンク色が混じった豊かな長い髪を整えたりしている。


(なぜ、ここで身支度を・・・!?)


ウララが持っていた手鏡をユリアがサッと取り上げると、今度は自分の髪型をチェックするかのような仕草をした。夏樹の視線が泳ぐのも無理ない。


「あの・・・何があったのですか?そんなに鏡を覗かなくても、お二人は今朝もお美しいですよ?」


持っていた手鏡をユリアは胸元に押し当てると、夏樹のキョトンとした顔に視線を向ける。一瞬の沈黙の後、見つめてくるユリアの代わりにウララが小さなため息をついて、小さな桜の花びらのような桃色の口を開いた。


わたくしたちが美しいのは承知しているわ。そうじゃないの。ヌシ様が近頃、遊んで下さらないのよ」


夏樹は申し訳なさそうに、ちらりとウララの顔を見て恐る恐ると言った。


「それは、あの、私のせいかも、しれません。だって4日後には」


夏樹の言葉を遮るように、玄関から聞き覚えのある懐かしい声が廊下まで響いてきた。


「夏樹ー!迎えにきたぞ!」


一昨日までの拓海を覆っていた殻を脱ぎ捨てて来たのが声の張りで分かる。とても通る澄んだ声。雨上がりの空に光が差し込んで来たように。夏樹の頬が上気した。


「まあ、朝から騒々しいこと。夏樹、早く着替えて、行っておやりなさい」


ユリアは布団をめくりながら夏樹に起き上がるように即した。ユリアの号令と共に、ウララは部屋の隅から紙袋を持ってくると、立ち上がった夏樹に手渡した。先日、明日香と偶然出会ったモールで購入したワンピールが中に入っている。


台所にいるはずの文乃は無反応。呼びかけに誰も応じないせいか、拓海の夏樹を呼ぶ声が何度も聞こえてくる。


「童貞ってせっかちね。早く出迎えて黙らせて来てちょうだいな」


双子が見守る中、夏樹は恥ずかしさも忘れてパジャマの上下を脱ぎ捨てると、買ったばかりのワンピースを頭から急いでかぶった。着替え終わったところを見計らい、ウララがちょうど良い間で目の前に手鏡を差し出してくれ、夏樹は鏡に映る自分の髪型を整える。


「ウララ、この世は本当に素晴らしいわね」


全ての身支度が整った夏樹はきちんと正座をして、姉妹に深々と礼をすると、せっかちな童貞がいる玄関へと急いで向かった。


「ええ、お姉さま。愛おしいほどに」

読んでいただきありがとうございます。もう少しだけお付き合いください。

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