第82話 大人になるとき
「ちょっと・・・考えさせて(ってマジ、なのか・・・)」
梓の話を聴き終わった拓海は目を閉じたまま、台所の椅子に力なく腰掛けていた。父親の梓はどこかしらホッとした表情で、台所を出て隣の部屋に入っていく。
照明が灯され明るい部屋ではあるが、拓海の深い沈黙が家の中に暗い影を落としていた。いつもはクニヌシが陣取っているテレビの前には、梓が何故かお笑い番組を直視している。
時折、台所から拓海が吐き出す大きなため息と、苦痛を強いられているような漏れ聞こえる声。そして、重苦しい部屋の空気とは真逆に、テレビからは芸人たちとパネラーの笑い声と拍手の音が虚しく響く。
「拓海。今すぐ返事をくれ、という話ではない。どうも、父さんは人としての生活から離れすぎていたせいかなぁ。大変なことだとは頭では理解していても、心情的には大したことではないだろう、と考えてしまう節がある。そこは謝っておくべきだな。すまない」
拓海は目尻に浮かんだ涙をそっと指先で拭うと、椅子を引いて梓がいる部屋に入ってきた。
「父さん」
息子の声がする方へ梓は視線を移し、拓海の言葉を静かに待った。
「約束したんだろ・・・それには俺が必要だっていうなら、受け入れるよ」
「いいのか?」
「いいも悪いもないだろ・・・父さんが完結できないのなら、俺がやるしかないって事でしょ?」
思いがけない息子の即答に梓は若干戸惑いを見せた。返事は持ち帰りになると踏んでいた梓は、次のステップを踏む心の準備が整っていない。
(望んでいた返事ではあるが、まだ十代の息子にさせる決断ではないな)
「悪いようにはしないさ」
拓海は何も答えず、頷いただけだった。梓は拓海の決意に応えるために、頭の中でいくつかシミュレーションをしながら、拓海が踏むべき次の段階に考えを巡らし始めていた。
「父さん、父さん」
「あ、ああ、すまん。なんだ、拓海?」
「この話、今日はここまでにしてくれないか?知ってると思うけど、夏樹はもうすぐこの世を去るだろ。ついでに、永久に俺のことも忘れてしまうらしい。覚悟はできている・・・つもりなんだけど。その」
梓は拓海の無機質な表情の中に、年頃の息子の苦しい胸の内を見たような気がした。
「分かってるよ、夏樹ちゃんはお前の初恋の人だもんな。お別れの時には違いないが、まあ、それを始まりだと思える日がきっと来るさ」
諦めきっているのか悟ったのか、拓海は消え入るような声で答えた。
「そう、だな」
夏樹との別れが済むまで、梓はここには現れないと約束し、その間に拓海が進むべき段階を考えておく、父は言い残し、側に仕えて居たクリスタルの龍と一緒に姿を消した。
「なんだか急に大人になった気分。まだ成人式も迎えていないっていうのに。どうしてくれるんだよ・・・。とりあえず言えることは、もう迷ってる場合じゃないってことだ」
チラリと壁の時計を見ると、時刻はもう午後10時。拓海は急いでスマホをポケットに入れてみたが、思い直してまた取り出すと、ベッドサイドの小さなテーブルにスマホをそっと戻した。大きなため息と一緒にその場にどかっと座る拓海。
「明日の朝、迎えに行こう。あと何日だっけか・・・明日、明後日、明々後日、そして最終日。あっという間だな。俺も、あんま時間なさそうだし」
今後の身の上に不安はあるが、やはり目の前にある夏樹との別れを頭から外すことは不可能だ。モノカミは、施術の成功を祈ることはあっても、それは始まりの日であって忌むべきことではないと言っていた。
もたれかかったベッドに頭を傾けると、煌々と照る照明の下で拓海は物思いにふけっていた。
「夏樹は全部忘れちゃうのかな。忘れないでいて欲しいと願うのは贅沢なのか?俺はどうしたい?俺はどうしたいんだ?なあ、どうしたいんだ、俺?」
テレビの音だけが響く部屋の中で、拓海は自問自答を繰り返しているうちに、自然と心のうちに浮かび上がってきた衝動に思わず目を見開いた。
(野郎ってのは単純だな・・・これだけ考えて悩んで残った答えがこれかよ。呆れるぜ。噴飯ものだよ・・・俺は最低だ)
読んでいただきありがとうございます。男のですから、やはり、そこは、ねえ。