第8話 赤い玉(ぎょく)
俺は、今、そう夢を見ている。
どこもかしこも真っ赤な世界だ。
あの日は、すごく暑い日で夏休み前だった、と思う。
後からやってきた父さんと母さんも真っ青になって、母さんは泣き崩れて。
俺は、なんだっけ……。
声が出なくて、苦しくて、震えてた。
玄関に横たわっていた夏樹は穏やかな顔で眠っているようだった。
なのに、頭からつま先まで穴だらけになって、穴のそこかしこから血が溢れてきて土間は真っ赤だったんだから。
まだ東の空が燃えるようになるには少し早い夜明け前。
拓海は麻酔が切れたように目が覚めた。
ーー久しぶりに夢に出てきやがった。
土間に滴る夏樹の血が足元に広がり、へたり込んだ拓海も夏樹の血に染まっていったところで夢から覚めた。
神の所業か采配か。
本当に目覚めの悪い余興である。
エンドレスに回想し続ける悪夢を、頭の片隅で傍観者のように見続ける一方で、体はベッドを抜け出し、足元をよろめかせながら机に向かっている。
ーー何やってんだろう。
視界が悪い。
まっすぐに立てない自分の体を支えながら、やっとたどり着いた椅子の背もたれに片手をかけると、ストンと力なく座った。
「たっくん、もう少しだよ。今は何も考えないで。泣かなくていいんだ。大丈夫。僕が君を導くから」
背後に誰かいる。しかし、拓海は振り返ることもできないほど力を吸い取られ、徐々に体のコントロールが効かなくなっていた。
机に突っ伏して、空っぽになった頭を乗せていると、遠のいてゆく意識の中で、ほくそ笑む藍色の髪の少年が横に立っていることが分かった。
半目になって、今にも意識が飛びそうになる中、藍色の髪の少年の顔が近づき、そっと耳打ちされた。
「そう、いい子だね。僕に心も体も委ねて。上手く仕上げてあげる」
「任せる……」
拓海は脳内から微弱な電気が流れ、軽い痺れを感じていた。いつの間にか、どこまでも心地よく滑り落ちていくような感覚を覚えている。
それはもう多幸感と言ってよい類の快楽だった。
モノカミは満足げに笑ったまま、藍色の髪から見え隠れしていた耳たぶの装飾に触れた後、両手を大きく広げ、完全に落ちた拓海に覆いかぶさる。
拓海の中に溶け込んでゆくようだ。
「ふうん、憑依されるのは初めてなんだね。驚いて僕を途中で追い出したりしないでよ」
どのくらい時間が経ったのだろうか。
明けの明星が瞬き始め、うっすらと部屋を照らし始めた頃、拓海は意識を取り戻しつつあった。
体を起こして辺りを見回しても、あの藍色の少年の姿は見えなかった。
明け方になったというのに、夏樹の姿もない。
ーー夢?
体は熱に浮かされて、ふわふわした感覚。椅子の下で足をぶらぶらさせてみたり、わずかだが首を横に振ることはできるようだ。
そして、左手に握っている物に気がついた。
ーーなんだろ……。
ゆっくりと手を開くと、手のひらには小さな赤い玉が五つ。
中をよく見ると、炎が玉の中で渦を巻いて縦横無尽に動いていた。
玉の表面は冷たく、見た目の熱さと相反し冷たかった。
赤い玉を見つめていると、拓海の目には涙がいっぱいになり、ポロポロとこぼれ落ちてきた。さっきまでの夢のせいなのか、頭も心もずっしりと重い。
自分がなすべきことが、予めインプットされていたかのように、思考とは関係なく、机の上にあったノートを引き寄せた。
左手に赤い玉を握ったまま、右手は白いページに見覚えのない文字や図形を書いていく。
「もうすぐ、もうすぐ会えるよ」
自然と手から鉛筆が離れたと思うと、あの藍色の少年、モノカミが背後で囁いた。わずかでも持ち直していた意識も力も、また吸い取られていくのを感じる。
モノカミは喜びに両目を輝かせ大きく見開くと、拓海がぐったりと突っ伏した机の上に転がった赤い玉の一つを両手で包むように取り上げた。
「これ、天賦の才能ってやつじゃない?」
歓喜と一緒に恐れに戦慄く興奮が、モノカミの瞳に満ちている。
「終わったのか?」
いつの間にか姿を消していたクニヌシが現れた。赤い玉を大事そうに抱えるモノカミには目もくれずに、拓海の側に寄ると、愛おしそうに拓海の頭を撫でた。
「クニヌシ様、ちょっと見てくださいよ、この偉業を! 禁断の赤い玉を!」
「可哀想に。精根尽き果てるまで、モノカミに吸い取られたか」
我が子を抱き締める様に、クニヌシは拓海の体を優しく包み、髪に頬づりしている。モノカミは口を尖らせ、クニヌシの白い袖を引っ張った。
「分かっておる。お前も、この赤い玉も。このクニヌシの我儘をよく聞いてくれた。感謝しておるのだぞ。人事を尽くして天命を待つ、とはよく言ったものだ」
「あ、僕は天命はいらないです。どう考えても罰が下るとしか思えないんで」
「それもまた然り」
両手で抱えるのも大変になってきた、成長する赤い玉をモノカミは抱えている。
「玉を見てください! またさっきより大きくなりましたよ」
女児の体と心に纏わりついていた悪意、恐怖、未練、愛憎、苦しみ全てを赤く燃え盛る煉獄の炎で浄化せんとばかりに、炎は玉の膨張に合わせて勢いを増していった。
「目覚めた時、拓海は最初にこの玉を目にするであろう」
クニヌシはそう言うと、いつのまにか実体化している。モノカミには目もくれず、全裸のまま、机につっぷし眠る拓海の寝顔にほくそ笑んだかと思うと、タンスからTシャツと短パンを適当に取り出し、着替えを始めた。
「どっか行っちゃうんです?」
「いいや。拓海が目覚めた時、すぐそばにいてやりたいのでな」
着替え終わったクニヌシは台所へ向かうと、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、部屋に戻ってきた。
モノカミは両手で抱えられなくなった玉に「もう無理だ」と言って、貴重品を扱うようにそっと床に置いた。そして、玉の前に座り込むと、それは大事そうに、愛しそうに頬を寄せて微笑んだ。
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