第58話 最後の一粒
「淳之介くんが泣くんだもんな」
夏樹の身体は魂を入れておくための器に過ぎない。暑さも、寒さも感じることはない、食べ物の味もしない。でも、太陽を眩しい、好きな人を思うと胸が苦しい、そして涙を流すことも出来る。
それだけでも、ここにいると実感できることに夏樹は感謝することで、自分に折り合いをつけることにした。
「ただいま!」
玄関でスニーカーを脱いでいる夏樹の元に、拓海が台所から駆け寄ってきた。夏樹は文乃や淳之介と過ごした午前中のことや、帰り道に見かけた子猫に逃げられたこと、小さな可愛いエピソードを楽しそうに話した。
「夏樹、お疲れであったな。拓海も少しは見習って勤労すべきではないか?」
「春休みのバイト代でなんとかやりくりするから、いーの」
夏樹が憧れた制服を買わなくなり、余裕が少し出来たのだから、残りの時間を出来る限り、夏樹と一緒にいたいと拓海は考えていた。
クニヌシは夏樹に目をやると、作り物ではない笑顔の夏樹を嬉しく思い、美味しそうに缶ビールを一口。その時、背後でガタっと音がした。
「クニヌシ!夏樹が・・・倒れた・・・」
頼りない拓海の腕の中でもつれるように、夏樹は意識を失いつつあった。クニヌシは琥珀色の勾玉をさすると、モノカミを呼び出すと、今日は、ぐずることもなく、いつになく神妙な顔つきであらわれた。
「なっちゃん、ついに倒れちゃったか」
以前、スクナヒコがそうしたように、モノカミは、しまってあった最後の玉を取り出すべく、一言、二言、呪文を唱えると、玉は机の引き出しから導かれるようにモノカミの手のひらまで飛んできた。
「たっくん、これが最後だよ。で、なっちゃんが目をさます前に聞いておくけど、気持ちは決まった?」
「決まった。お前に託す」
モノカミは黒縁眼鏡をクイっと上げる拓海の言葉を聞くと、大きく深呼吸をして、場の空気を読んでか、静かに頷いた。
「任せて。あとは、なっちゃん次第ってことで。じゃあ、最後の一粒、飲ませるよ」
覚悟はできているはずだったが、モノカミが最後のひと粒を夏樹の口に入れる姿を拓海は見ることができなかった。だが、現実逃避して悩んでいる時間はない。今がそうであるように、あっという間にその時は来てしまうのだから。
「拓海。夏樹が眠っている間に、お前に話しておかなければいけないことがある」
白く眩しい窓の外を目を細めて見ていた拓海がクニヌシの方へ振り返った。夏樹は玉を飲み込み、モノカミの膝の上で、まだ眠ったままである。
「夏樹の最後を何処にするか、だろ。苦しまずに逝けるのか?」
クニヌシはモノカミに夏樹を任せ、すっと立ち上がると拓海の手を取り、近くにあった椅子に座らせた。拓海の手は震えていた。
「もちろん。眠るようにな。だがな、この部屋では無理なのだ」
「どういうこと?」
余力を残した玉を夏樹の体内で消滅させる必要があるという。同時に、夏樹の魂を傷つけることなく取り出すには、白鳥神社のように霊力がある土地で行うことが適しているというのだ。
「前日には白鳥神社に入ってもらう。清らかな力が満ちている場所が良いであろう」
「分かった。で、その日はいつになる?」
「俺は、ここがいいと思う」
クニヌシは拓海の机にあった卓上カレンダーを持ち上げると、椅子に座った拓海の元へ持って行き、Xデーを指差した。拓海はがっくりと肩を落とした。
「なんだよ・・・俺の誕生日じゃないか。ホント、神様って意地悪だよな」
クニヌシは拓海の落ちた肩をポンポンと叩くと、モノカミの元に行き、穏やかな寝息を立てる夏樹に声をかけた。
「夏樹、命短し恋せよ乙女、だぞ」
聞こえた訳ではないだろうが、声に反応するように夏樹はうっすらと目を開け、自分は最後のひと粒を飲んでしまったことを理解した。まっすぐ見つめてくるモノカミの視線と目があうと、夏樹は目を閉じ、涙が目尻から頬を伝い、耳まで一雫流れた。
「モノカミ。私は、あと何日ある?」
「15日。予定より早いのは、玉が消耗しきるまで待てないんだ」
「そっか。拓海が・・・心配だな」
残していく方も無念だが、残される者は、そのあとも生きていかなければいけない。まだ、拓海には自分の気持ちを上手に整理できずにいた。夏樹は冷静に、残りの日を後悔せずに過ごすべきか、すでに思い巡らしているというのに。
読んでいただきありがとうございます。もうすぐ60話ですが、夏樹の命もあと15日となってまいりました。




