第43話 若葉の君 後編
喜びの時を迎え、それから二人の生活は一変した。
それまで、蓮月のたっての希望で義之と二人きりで暮らしてきたのだが、今度は義之の両親を迎え四人家族で暮らしたいと言う。義之の両親は喜んで快く、二人の申し出を受け入れた。
身重の蓮月を一人残して、任務に行くことに不安だった義之は内心ほっとしている。
「蓮月、私はまた任務でしばらく留守にするが、次に会う時には」
大きくなった蓮月の腹を愛おしむように手が当てられ、伝わってくる義之の体温に蓮月は心の底から幸福を感じていた。ほくそ笑むと蓮月もまた義之の手に両手を重ねて、泣き笑いを浮かべる。
「泣くのはまだ早かろう。どうか無事に出産が終わることを遠い空から祈っておるぞ」
「はい。でも、私は出産を間近にして、あなたを守る力がありません。だから、どうぞ、これまで以上に気をつけて」
「ハハハハ、おかしなことを言う。お前の祈りは全て、この子に譲るとするよ」
義之はそう言うと、愛馬の阿久理とまた遠くへ旅立っていった。
蓮月はその背中を不安な面持ちで、いつまでも見送った。
そして、夫が旅立ってからすぐのことだった。
出産には少し早かったが、心配する義之の両親を家に残し、山奥で待つ祈祷師の元へ行くことにした。お供には、蓮月が義之の家を初めて訪ねた時から同行させていた、まだ幼さが残る少女を一人。
かつて川の上を滑るように歩いたことが嘘のように、今は一歩一歩をゆっくりと進む。
その傍らでは、蓮月の手をしっかりと握って支える少女が、蓮月の苦しげな顔を見やりながら、二言三言、声に出さずに呟く。
その度に、なんとか蓮月は体の重みから解放されたように、安堵の表情になった。
「蓮月様、もう少しですよ」
二人は緩やかながらも、傾斜を登ってきた長い道のりをふと振り返ってみる。
蓮月は青い顔で、また行く手を見据えると、ゆっくりと歩き始めた。
相変わらず、少女は心配そうに隣にぴったりと付いていく。
目的地である祈祷師の一軒家にやっと辿り着いた時、気が抜けたのか、蓮月は足元から崩れるように、その場に座り込んでしまった。
随分長いこと手入れをしていない朽ち果てた門から、あの老婆が駆け寄ってきた。
「蓮月殿、おいたわしや・・・さ、中に入って」
「ばば様、なんとか着きました。しばらく厄介になります」
少女の手を借りながら立ち上がり、老婆の家に入っていった。
「私は幸せなのですよ。おいたわしいだなんて」
老婆も少女も何も言わず、土間で蓮月の草履を脱がしてやると、桶に入れた水で足を洗ってやり、奥の部屋に案内した。
通された部屋には既に布団が敷かれており、老婆はしばらくここで体を横にして休むように、と蓮月をゆっくりと寝かした。
「ばば様」
「今は何も考えず眠りなされ。今はそれが良い」
そう言い残すと、老婆は部屋の仕切りとなっている白い几帳を垂らすと静かに離れていった。
少女は几帳の向こうで声を殺して泣いている蓮月のことを思い、一緒に心を痛めながら両袖で顔を隠すように泣いている。
「ナギ。お前まで泣くことはないのですよ。私がこうなった以上、お前は自由ぞ。辛くなったら、いつでも国に帰るがよい」
「私は・・・」
ナギと呼ばれたその少女は几帳をめくると、泣きながら蓮月の枕元に飛び込んできた。
「まあまあ、子供のようなことを」
泣きじゃくるナギの顔を蓮月は優しく撫でると、大きな瞳からポタポタとこぼれてくる大粒の涙をそっと拭ってやった。
「蓮月様は本当にこれで良いのですか?もう戻れなくなるのですよ?」
「これでいいの。あの日、私は一目であの方を好きになってしまった。こうして、私は義之様の正妻として、人として子を宿し、この子は望まれてこの世に生まれてくる。素晴らしいことじゃない?」
覚悟はとうに出来ていると蓮月はナギに言うと、疲れたのか瞼をそっと閉じ、穏やかな顔で眠りについた。
このあばら家とも言える古い家の中で、蓮月は一月ほど過ごした後、その時を迎えた。
この時代の出産は命がけだ。
祈祷師として老婆は持っている全ての力を余すことなく、無事に産まれることだけを祈った。
外では緊迫した寝室とは真逆に、風も吹かない静かな明け方を迎えようとしている。
難産だった。
蓮月は生を受けてからどのくらいの月日が経ったのかも分からないほど永らえてきたが、このような苦しみは初めてのこと。
「もう少しです!蓮月様、ああ、もう一息です!」
ナギの手をしかっりと握りしめ、歯を食いしばり最後の呼吸を吐き出すように蓮月は声を上げると、同時に更に大きな声で泣き叫ぶ赤子が生まれた。
「義之殿によく似た、いや目は蓮月殿かな。ほんに玉のような男の子ですぞ」
老婆の皺くちゃの手に抱かれ、目の前で大泣きする我が子を見ると、蓮月はこんな幸福があるだろうかと一緒に泣いた。ナギは嬉しいのか悲しいのか分からないように、やはり泣いた。
景豊と名付けられ、産後の肥立ちも良かった蓮月の腕に抱かれ、ナギとまた来た道を下っていった。
「ナギ。私は後どのくらい、こうして景豊を抱いていられるのかしら」
「ババ様が言うには、おそらく数年は。ですが、もう蓮月様にはかつてのお力は無くなりました・・・」
蓮月は胸の中にいる温かで柔らかい景豊が機嫌よくしている姿に目を細め、効力はないことが分かっていても、景豊に顔を埋めるようにして呟いた。
「我が精霊よ、盟約に従い、この子を護り給え」
ナギは母子の平穏な時が続くように、この先、自分がしっかりしなければと心に固く誓ったのだった。
読んで頂きありがとうございます。この平安時代の物語は次でお終いです。




