第32話 拓海の日常
「それでは、拓海さん、ご機嫌よう」
「お二人は霊体化したまま?」
「そ。私たちが揃って歩いたら、目立って仕方ないもの。でしょう? ウララ」
「まあ、そうっすね……あ」
拓海は机の引き出しを開け、今月の生活費から1万円札を取り出した。夏樹にゆっくりして来い、と手渡す、男気溢れているはずが、少しだけ震えた。
「若い娘がそんなに持ってたら大変」
ウララはそう言うと、夏樹が受け取った1万円を封筒に戻し、中から小銭と3千円だけ抜き取った。
「これで十分。あとは私たちがどうとでもするわ。ではね〜」
ーー追剝ぎはするなよ。
夏樹は双子に選んでもらった服を着て、それは晴れやかな笑顔を見せて部屋を出ていった。一人残された拓海は少しばかり寂しく感じたが、夏樹の笑顔を思うと元気よく送り出せた。
そして、久しぶりに誰もいない部屋を見渡して思うのだ。
「ちょっと前は毎日がこうだったんだよな。今は。部屋を広く感じる」
ポツリと独り言を呟くと、ホームドラマのお約束のように。
「っぶねー! もうこんな時間! 遅刻だ!」
拓海は大学一年生。
今日は夏休み前の最後の授業が待っている。
さすがにトーストを加えて部屋を飛び出すことはないが、慌てて教科書の入ったデイバッグを掴むと、静かな部屋を飛び出していった。
いつものバス停。いつもの面子が並んでいる。
ーーばあちゃんの葬式以来、俺の周りは賑やかになったよな。何を見てたんだか覚えてないけど、前は四六時中スマホ見てた気がする。
誰も彼もがスマホを眺めている。バス停に並ぶ一団が、不思議な光景に見えた。いつもの光景はバスの中に移動し、窓から眺める景色だけは変わらない。と思っていたら。
ーーあんな店、いつ出来たんだろ。今度、夏樹を連れて行こうかな。
窓の外に興味を示したことなどない拓海にも、変調があったのかもしれない。大学の前に降り立つと、最終日の今日をちょっと楽しもうと考えていた。
「今日より明日はもっと、か。わりかし良いこと言うよな」
校門を抜けると、校舎へ続く並木道のあちこちで学生の声がする。
以前なら、横目で通り過ぎるくらい冷めていたが、今日は何故か楽しげな気持ちにさせる。不得意極まる第二外国語のフランス語の講義も耳に優しく、心地よく眠気を誘うというもの。
「ぐっすりお休みでしたね、橘くん」
ーーん……ん?
「俺……寝てた? もしかして!」
「うん。さっき終わっちゃいましたよ」
「そっか……今日はちょっと頑張ろう……なんて思ってたのになぁ」
「意外と真面目なんですね、橘くんって」
「えっと、君は誰?」
講堂の中の人もまばらになっている中、見知らぬ女の子が親しげに隣に座っている。
「自己紹介してなかったですね。私は松波小百合。同じ文学部の一年生」
「あ、俺は」
「知ってる! 有名人じゃない。橘拓海くんでしょ?」
身に覚えのない有名説に心当たりがあるとすれば、クニヌシしかいない。時々なのだが、クニヌシは構内まで付いてきては、学食で人気者になっていたり、サークルの勧誘を受けていたり、芝生の上で学生のお悩み相談を受けたり。
学生本人より充実したキャンパスライフを送っていた。
ーー有名なのは、俺ではないと思うんだが。
「俺は有名じゃないでしょ。有名なのは親戚の兄貴の方ね」
松波小百合は嬉々として、無地の生成りのトートバッグから一冊の本を取り出すと、スッと差し出した。いいから見ろ、とばかりに。
「なにこれ? 漫画?」
「小説っていうか、ラノべだよ。今、学校の中ですっごく流行ってるの。手に入れるの大変なんだから!」
「ラノベ読まないからなあ……ってこれは」
表紙には、クニヌシと拓海と思わしきイラストが描かれていた。二人とも短髪の男子ながら、頬を染めながら嫌がる素振りをする少年と、背の高い青年の色気ある視線。
ーー俺はもっと露骨に嫌がっているが、思い当たる節は、ある。
「これ、売ってるの、しかも学校で……?」
「うんうん! もうシリーズ化されててね! 今、三巻目なんだ!」
「へぇ……誰が書いてるのか、知ってる?」
松波小百合は目を細めると、その言葉、待ってましたとばかりに、バッグから残りの二冊を取り出し、あろうことか机に並べ始めた。
「私が書いたの! イラストは漫研の子に協力してもらってるんだ。近々コミック化する? なんて話もあってー! 同人の即売会でも人気あるんだよ。ねえ、ちょっと取材させてくれないかな? 新しい展開に少しネタの提供を」
「ま、待て待て待て待て! ストーーーーーップ!」
初めてクニヌシが大学についてきた時に、食堂で誤解されるような言動を全く謹まなかった訳だが、その時に、一部始終をほくそ笑んで見ていたグループの一人だったのが松波小百合。
「いちよ、聞くけど。怒ってる?」
よく見れば、ショートカットのなかなか可愛い子だという事実が、非常に残念。色々とがっくりした。地道に日陰でそつなく過ごしてきた日々は、戻りそうにない。
「外でも売ってんのかよ……勘弁してくれよ」
「やっぱりご本人に直撃取材なんて、よくないよね。こっそり書くことに集中すべきだった」
ーーいや、それも違うぜ……松波小百合。
「物語の内容についてはここでは言えない」など、耳元で囁かれても困るだけである。周りにも生徒はおらず、広い講堂で二人っきり。
目の前には、あられもない自分が描かれた本が三冊。
「俺は女の子の方が断然好きなんだから、変なこと書くなよ」
「ライバルに同級生の女子を一人投下。確かにそれも……ありね」
ーーメモ取るなよ。
二人が友好を深めるには十分な時間があった。
次の授業まで二時間は裕にある。噛み合わないながらも、会話が途切れることはなかった不思議。
松波小百合は臆することもなく、警戒心の強い拓海の懐に難なく飛び込んでいった。拓海にしては珍しく、初対面の同級生と口ごもることもなく、言いたいことを言い放ち笑いあっている。
彼女の書いている本の内容はともかく、悪い奴ではないことは分かった。彼女のペースに乗って馬鹿話に興じるのも、なかなか楽しい。
「だからって、俺は許したわけじゃないから。そこんとこ肝に銘じておけよ、松波」
「ラジャー!」
ーーお前か? お前が、クニヌシに教えたのか!
こうして、誰にも関わらず一匹狼だったキャンパスライフに、想定外の日常が加わるのであった。
読んでいただきありがとうございます。新キャラ投入完了でございます。以後、お見知りおきを。




