第30話 文乃の最強伝説
「あら。一人で行っちゃったわ」
朝から、しとしと雨が降り続く月曜日。
茶碗と箸を持ったまま地蔵のごとく、微動だにしない淳之介を避けながら、母は食卓の食べ終わった食器を片している。
妹の文乃は日直があるからとサクッと朝食を済ませ、颯爽と学校へ行ってしまった。
「淳之介? どうしたの?」
「別に」
「あら、あなた、泣いてるの?」
昨夜の夢の続きを見ているように、一睡もできずに朝を迎えた淳之介。最後まで凛として暗い部屋の中に座っていた文乃を思い出すだけで、自然と涙がこぼれた。
文乃が初めておかしなものを見たのは、幼稚園の時。
初めてのバス遠足で行った、紅葉の美しい山の中でのこと。物悲しい顔で微笑む着物の女と目があった。女が立つ丘に駆け上がってみたが、ふと姿を消した。
代わりに、そこには積み上げられた石とコスモスの群生が広がり、文乃はその光景を見た途端、何故だか胸の奥から、こみ上げるように涙が止まらなかったという。
それから、人ならざる者たちが見えるようになった。自分には何か不思議な力を持っていることは分かった。だが、それを兄にはどうしても言えなかったという。
淳之介は久しぶりの一族に誕生した霊力ある子。いずれは家督を継ぎ、この白鳥神社を護る主として一族から大きな期待を掛けられていた。
文乃は幼心に、なんとなく自分のことを言ってはいけない気がしたのだ。
この時点で淳之介は悶絶。
体の内に秘めた力は、小さな体の文乃には過ぎた量だったため、夜毎に苦しみ必死にもがいていた。
耐えきれずに誰かに話だけでも聞いてもらいたくて、兄がいない間を狙って、文乃は以前から気になっていたナギの祠に向かった。
「よく来たわね。お利口だわ、あやのん」
「あやのん、って私のこと?」
「そうよ。可愛いでしょう?」
ナギは燃えるような赤く長い髪をふわっと浮き上がらせると、ふんわりと文乃の体を包み込んだ。
文乃は小さなナギと同じサイズになって、知らぬ間に祠の中にいた。内緒の時間は文乃にとって至福の時。兄が帰宅する前に、少しだけ立ち寄る日々が続く。
「あやのん。みんなには秘密だよ? いい?」
「うん! でも、いつまで内緒にしなくちゃいけないの?」
ナギは少し困った顔をして、文乃を抱き寄せると囁くように答えた。
「私が死ぬまでよ。その後はお前がこの土地を護ってね」
ナギの言っていることが、何を意味するのかを理解するには、文乃はまだ幼すぎた。
「私が? ナギ様のようになるの?」
「お前しかいないんだもの。やってくれる? 淳之介を助けてあげてね」
大切な兄のために自分に出来ることがあるなんて、こんなに嬉しいことはない、とむしろ飛び上がって喜んだ。そんな文乃の様子は、さぞナギには痛々しく映ったことだろう。
「でも……ナギ様、死んじゃうの?」
「そうよ。でも心配しないでいいの。あやのんがもーっと大きくなるまで、ナギが守ってあげる。繰り返して言うけども、この約束は二人だけの秘密だよ。絶対に他の人には言っちゃいけないんだからね」
「はい。分かりました」
ランドセルより、ずっと重い約束と使命。
ナギの住処である木立に囲まれた聖域で、文乃は吐き出すように膨大な霊力を使い、岩に力を注ぎこむようになった。
そのおかげで、人の身には余る力をナギの寿命を延ばすことに使えた上に、文乃自身もその度に力を空っぽにすることができた。
淳之介、号泣である。
「お前はまだ十五歳だろ? なのに、ナギ様の代わりに土地神になるっていうのか?」
「そういうことになるかしら」
平然と答える文乃に淳之介は更に号泣。
「文乃が即身仏に成るっていうのかよ……ナンテコッタ!」
「お兄様、それは仏教の話。私がミイラになるわけではないんだけど」
と言われても、淳之介の涙は止まらない。
「私は今までと何も変わらない。お兄様とずっと一緒よ。だから泣かないの」
内に備えた文乃の霊力は、人でありながらナギと同等の力を保持していた。ナギが死ぬようなことがあれば、文乃は土地神として思う存分、力を奮うことになる。
もちろん、そのような人の理を超えた偉業の陰には、何かしら条件がつきものだ。
「私はもうずっと昔に覚悟を決めてるのよ。だから、まずはナギ様を助けなくちゃ」
自分の妹が、そう遠くない内に生き神になる、という着地点に淳之介は内心ホッとしていた。あの小さな祠に文乃が入ることになるのではないかとも心配したが「それもない」と文乃に即答された。
これまで一族の系譜の中で、生き神となった者は存在しない。故に、その行く末がどうなるのかが想像できないことは不安だ。
「ナギ様が死ぬと、お前に異変が起きたりするわけ? 髪が赤くなるとか。短絡的だけど」
クセ毛のないまっすぐな黒髪を文乃は一掴みすると、もう涙目で視点もあっていない兄の顔を見て苦笑いした。
「さあ。実はそこまで教えてもらっていないの。でも、私は祠にも入らないし、姿はこのままのはず」
ただ、もうこの境内から離れることは一生ない上に、受け継いだ瞬間から成長も止まり、永遠に近い時間をその若さで、この場所で過ごす事になることは、淳之介には言えなかった。
「お前自身に何も変わったことがないのであれば、ナギ様はまだ無事だと考えていいのか?」
「多分ね。ここ数日、気配を感じないのが気になるけど。これは私の予想。私もお兄様も感知できないほど、ナギ様はかなりの霊力を消耗する環境下にあるのかも」
「じゃあ、あの岩場の腐った水と黒い影は? 文乃は何か知ってるのか?」
文乃は少し考えて淳之介の目を見ると、言いかけた言葉を飲み込み、改めて答えた。
「ごめんなさい。思う節はあるのだけど、この件は推測で話すべきじゃないと思うの」
文乃は先ほど岩場の水を浄化しようと必死になっていたという。
ここ数日、ナギの消息がつかめなくなったことに文乃が焦った結果、部屋を出る時に隠しきれないほどの力を放出してしまい、その力が淳之介を動かしてしまったのだろう、ということだった。
しかしながら、文乃の力を持ってしても水は浄化できなかった。
というのも、クニヌシが言っていたとおり、次から次へと湧き出る水自体が腐りかけているため、後から湧き出る腐った水で満たされてしまうらしい。
「もうお兄様にもバレてしまったことだし、私はクニヌシ様に直接ご相談しようと思うの」
ーークニヌシ様はイケメンだし、神だし。なんだか軽いし。いろいろ心配だな。
「お兄様。真面目に話を聞いてます?」
「あ、はい。もちろんです」
ナギとの約束は、誰にも話さないことだった訳だが、それは二人の間で話し合われなかった。文乃が意図的に話題として避けた、と見るべきだろう。
これは文乃に取って重要なポイント、岐路とも言える出来事だったのだが、それが問題として二人の眼前に置かれるのは、もう少し先のお話。
兎にも角にも、よりによって丑三つ時の刻に、想像すらしなかった混沌たるこの事実は、兄妹の間で明かされたわけだ。
当然のことながら、隠す必要がなくなった妹のオーラは凄まじいものがある。
守ってやりたいNo.1だった妹が自分より数段格上、いやそれ以上、いわゆる神レベルとは笑止千万。実際には笑えない話である。
ーー全然、気づかなかったよ……お前が最強の妹だったってこと。
読んでいただきありがとうございます。
次から第4章に入ってまいります。夏樹もそろそろ次の赤い玉が必要になる頃です。前回のスピードでいきますと、16歳くらいになるはず。お年頃な展開が期待できそうです。




