第3話 拓海の聖域
子供の頃から祖母とよく聞いた、あの懐かしい瀬戸内の波音を恋しく感じる土曜日の朝。拓海は目を閉じたまま、激しく降り続く雨の音を聞き入っていた。
「起きたか?」
ベッドの向こう側から声がした。
拓海は明け方のやりとりを、ポツリポツリと思いだす。
――あぁ…はいはい、そうでした。
クニヌシは拓海のTシャツとジーンズを身につけ、机の上にあったノートパソコンを使っている。古代からの眷属神が器用に、小気味好くキーボードを叩いているのは見応えがある。
カチャ、カチャカチャ、カチャ。
違和感を感じさせない様子に違和感を感じつつ、ベッドの中からクニヌシの背中に抑揚なく答える。
「わーパソコンが使えるなんて驚きですよー」
愛想もクソもないアンサーに、クニヌシはキーボードを叩く手を止めた。起きて数秒にも関わらず、既にしかめっ面の拓海を振り返り、最高のドヤ顔を向けた。
「ふふ、まあな。調べ物はググるに限るな」
――なんか、ムカつくなぁ。
寝起き早々、短気を起こして怒鳴るほどのことでもないが、色々と癇に障るクニヌシの存在が疎ましい。
拓海は仏頂面で上半身を起こそうとしたところ、いい感じで腹がグウと鳴った。わずかだが、部屋の雰囲気も和やかになった気がする。
「まあ……いいや」
眠い目を擦りながら、ベッドサイドに座る。クニヌシは起き上がった拓海を見届け、クスッと笑うと再びパソコンの画面に視線を戻した。
「クニヌシ」
「なんだ?」
「朝飯、お前も食べる?」
意外なお誘いに、クニヌシが満面の笑みで振り返る。
「ありがたい。こうして呼吸しておれば、腹も減るというもの。朝餉は任せてよいか?」
「御意」
拓海は淡々と答えると、ベットからゆっくりと立ち上がった。検索画面に釘付けとなっている神を横目に、パジャマのまま台所に入る。
2ドアの冷蔵庫を開き、中を覗きながら献立を思案するのは楽しいらしい。
一人暮らしの大学生が持つ冷蔵庫の中身とは思えない充実ぶり。祖母が生前、大切に育てていた甘夏で、拓海が作った自家製のジャムまである。
「朝粥にするか。薬味がちょっと足りないけど、まあいいでしょ」
拓海の後を追うように、クニヌシが台所にやってきた。その顔には朝の光も霞んでしまいそうな、眩しい笑顔が浮かんでいる。
無駄に光っている気がするのは、神々しさなのか、なんなのか。振り返った拓海は、クニヌシと目が合って舌打ちした。
――クソっ、ただの爽やかでイケメンな先輩かよ! 褒めてねぇから!
「どれどれ、俺も手伝おうじゃないか」
冷めた拓海の視線が、すっとクニヌシの足元に落ちる。
そして、ふてぶてしい態度で、床を指差して言った。
「おい、クニヌシ。お前、踏んでるぞ」
そう言われて、クニヌシは驚いた顔で自分の足元に目をやる。
「敷居の上。そこは台所と寝る部屋との境界線。いわゆる結界なんだから、気をつけろよ。ばあちゃんから、踏んだら罰が当たるって聞いたぞ。違うのか?」
「それは済まなかった。以後、気をつけよう」
苦笑いするクニヌシを気にも止めず、拓海は話しながらも、準備する手を休めない。クニヌシは敷居の手前で立ち止まり、無駄のない拓海の動きに感心しながら、その様子を眺めていた。
「俺さ、朝飯くらいはちゃんと食べたいんだよね。料理も嫌いじゃないし」
よく研がれた包丁で小気味良いリズムで、とんとんとん、と薬味となる小口ネギを切っていく。
「慣れたものだな」
「俺は鍵っ子だったからね。鍵っ子って分かる? 父さんは失踪。母さんは仕事で帰りが遅い。学校から戻ると、自分で鍵を使って家に入る。ランドセルを置く。宿題をする。そして、夕飯をチンして食う。だから、見た目より生活力はある方だぜ」
そうこうするうちに、土鍋がカタカタと音をたて始めた。拓海はガスコンロの青白い炎を小さく調整し、鍋のフタが落ち着くと、今度は冷蔵庫を開け、ショウガの欠片を取り出す。
「寂しかったのではないか?」
拓海は極細に切ったショウガを一つまみ小皿にのせると、吹き出しそうな土鍋をかけたコンロの火を止めた。祖母が料理好きな拓海のために揃えてくれたという、趣味のいい陶器の器を二つ棚から取り出した。
拓海は言葉を選びながら答えた。
「寂しくは、なかったかな。自慢じゃないけど、俺には可愛い女の子の幼馴染みが二人もいたんでね」
「それはいいな。今、二人はどうしてる?」
茶碗より少し大きめの陶器とスプーン二人分を配置してから、煮立った土鍋を鍋敷きの上に注意深く置いた。
「よし、できた」
土鍋のフタを取ると、食欲をそそる香りと一緒に、充満していた湯気が白く立ちのぼる。クニヌシもつられて台所に入ると、鍋に顔を覗かせた。
準備が整ったところで、拓海はクニヌシに座るように促し、二人は小さなテーブルについた。
「ほう、これは美味そうだな」
「適当にネギとショウガを入れてみて」
「ではいただくとしよう」
「どうぞ」
男たちは小さなテーブルを挟むように座り、土鍋からそれぞれ自分の器に朝粥をそそぐ。クニヌシは見よう見まねで、小皿から薬味のネギとショウガを少し粥にふりかけた。
「いただきます」
目をとじ、合掌し、スプーンを持ち上げる。
その様子を見届けた後、クニヌシも合掌。
まだ熱そうなスプーンの中の粥を、ゆっくりと一口。
「美味い。お前はいい嫁になる」
「変なこと言うなよ……」
「遥か昔から、ここは性に寛容な国だから、なんら問題ない」
「そう言えば日本神話の神様って、男女とか兄弟とか関係なく子供を産むよね?」
クニヌシは生姜をつまんで、自分の器に入れながら淡々と答える。
「神が子を産み落とすのに、そこに人間の言う愛欲は無用だ。うっかり生まれ出でることもある」
「うっかり産んでしまうあたりが、神と言うべきか」
二人はうっすらと額に汗をかきながら、次々と椀に粥をよそっては、他愛のない話で食卓は意外に盛り上がった。
そのうち、拓海は子供の頃や祖母とのことを話し始めた。
クニヌシは取り留めのない拓海の話に頷いたり、質問したりしながら静かに聞き入っている。聞き上手なクニヌシの程よい沈黙と相槌に気持ち良くなり、拓海はすっかり饒舌になっている。
そして、そんな自分にハッとして、恥ずかしそうにうつむいた。
「誰かと食事するのは、その……久しぶりだったから……つい」
自分の茶碗に視線を落とすと、すっかり冷めきった粥が残っていた。クニヌシは別段気にする様子もなく、美味い粥で満たされたのか非常に満足そうだ。
「構わんさ。良い機会だ。しばらく一緒に暮らすのだから、お前のことも少しは知っておかないと」
拓海の自己嫌悪はふっとび、ガバッと顔をあげる。両目を細め、向かいに座る幸せそうな神を睨みつける。
「今……なんて?」
「いやなに、少しはお前のことを」
「違う! そこじゃない! その前だよ!」
――それになんだよ、その困り顔は!
すっかり自宅のように、クニヌシがくつろいだ雰囲気を醸し出しているのも、拓海は気に入らない。
Tシャツを着た神が、茶を美味そうに飲み干している姿を凝視しながら、拓海は神様御用達と思われる、お誂え向きの場所を思いだした。
――そうだ。あるじゃん!
同居を回避する提案に心が躍った。拓海はクニヌシの湯のみに茶を注いでやりながら、少しだけ機嫌よくクニヌシに持ちかけた。
「近くに土地神様が祀られた神社があるから、そこを紹介してやるよ」
クニヌシは空になった湯のみをテーブルにトンと置くと、嘘くさい笑顔を貼り付けた拓海を見据えて、はっきりと言った。
「断る」
――即答かよ。
茶をぐいっと飲み干すと、拓海は細い溜息を吐きながら、湯気で曇った眼鏡のレンズを吹き始めた。
「ここに居候したい理由を言ってみろ。納得したら考えてやってもいいぞ」
「理由は幾つかある。が、何と言ってもお前は見えるからな」
偉そうに腕組みをしているのは、拓海の方である。クニヌシは何を言われても、その穏やかな物腰は変わらない。
見える、という言葉に、拓海は眉を上げた。
反対に拓海から尊大な聞き方をされても、クニヌシは憤ったり、取り乱したりすることはない。常に余裕は満タン。それがまた、拓海は腹立たしい。
「見えるって、何が?」
「もちろん、俺のような存在を」
「実体化していれば、俺じゃなくても、誰でも見えるんじゃないのかよ」
「それはそうなんだが」
今にも鼻歌を歌い始めそうなほど、緩んだ物言いのクニヌシに、拓海がイラッとしないはずはない。
――男と同棲? いやいや、同居な。とにかくどっちも有り得ない。ああ、この気持ちをあいつに分からせる適切な言葉が全く浮かばないことにも腹が立つ!
悶絶している拓海の沈黙を破り、クニヌシが口元に笑みを滲ませ問いかける。
「人探しと居候を承諾してくれれば、礼に願いごとを一つ叶えてやろう」
読んでいただきありがとうございます。
次回は、拓海とクニヌシと交わされる契約のお話です。