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常世の国のシトラス  作者: くにたりん
第三章
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第16話 父の帰還

「土産の一つでも買ってくれば良かったかなあ」


 ドアの前まで来ておいて、男は手ぶらで訪れたことを少し後悔していた。チャイムを鳴らすと、中からスリッパで小走りに玄関に向かってくる足音が聞こえる。


 男は二ヶ月ぶりの足音に微笑んで、ドアが開くのを待った。


「お帰りなさい、あなた!」


 会社から帰ってきた夫を迎えるように女はドアを開け、すらっと背は高いが、くたびれた風貌の男を快く中に入れた。


 男はかつて知ったる我が家といった様子で、玄関で靴を脱ぐと真っ先に洗面所へ向かう。女は特に何も言わずに台所へ消えた。


 男は手と顔を洗いさっぱりすると、女のいる台所へやってきて、冷蔵庫から冷やしてあった麦茶を取り出した。戸棚からコップを一つ掴み、麦茶を注ぎながら夕食の支度を急ぐ女に話しかけた。


「香。拓海はどうしてる?」


「それがね、あの子、友達ができたみたいで。旅行中なの。すごいでしょ?」


「それは凄い進歩だな。赤飯炊いてやったかー?」


 ここにいるのは失踪中のはずの拓海の父と、笑っている女は拓海の母、香。


 男の名前は、あずさ


 先日、亡くなった拓海の祖母と行方をくらましている梓の父である男が、悪いものが近づかないように、と生まれてくる梓にえて女性のような名をつけたという。


 遥か昔の風習を、現代に生まれた拓海の父に活かしたのだ。


「母さんの葬式に行けなくて悪かった……」


「仕方ないわ。私も間に合わなくて、お母さんを看取れなかったの」


「そうか。本当にありがとう。もうちょっとで掴めそうだったんだが……」


 香は夕食をテーブルに並べ始め、拓海が大学生になったこと、明日香とボランティアに行ったこと、少しは学校のことや思っていることを拓海が話してくれるようになったことなど、近況を話した。


「そうか、拓海が元気そうで何よりだ」


 食事中はずっと、香の終わることのない話を、梓は「うんうん」とうなずきながら聞いていた。


 そうして、食事を終えた後、まだ夜の七時を回ったくらいだったが、梓は席を立った。


「少し休みたい」

 そう言って、奥にある寝室に入っていった。


「ええ、ゆっくり休んで」


 夕食を共にし、近況を夫に話し、拓海の写真を見せ、そして夫は夜中まで眠る。これを二月に一度のペースで、この十年もの間、夫婦が続けてきた日常である。


 十年前、この小さな街で起きた、多賀たが夏樹とその家族の惨殺事件。


 夫は拓海の前から忽然こつぜんと姿を消した。拓海が一番、父親に居て欲しかった時に、夫は妻と息子を残して泣く泣く旅立つことになる。


 香は結婚前に、梓から出生の秘密を聞かされていたので、幾分かは覚悟していたことだ。事件をきっかけに、香は平凡で幸せな未来を諦めるほかなかった。


 夕食の後には必ず仮眠をとる夫の目覚めを待つように、香は一人でソファに膝を抱え座っている。テレビの光が眩しい真っ暗な居間で。


 いつもであれば、明日の仕事のことを考えたり、家の雑事をこなしたり、録画してあるテレビドラマを見たり、それなりの時間を過ごすところだが、どうも、夫が帰宅すると、現実に引き戻された気分になってしまう。


「そろそろかしらね」


 セットしてあったスマホのアラームがなる前に、梓を起こす時間に香は気がついた。画面に表示された0:00という数字を見て、ゆっくりと腰をあげると、まだ眠そうな梓の姿がそこにあった。


「起きたのね」


「ああ、やっぱり我が家はいいな。ぐっすりと眠ってしまったよ」


「コーヒー、飲む?」


 梓は両手を天井に向かって突き出し、あくびをしながら体を伸ばした。


「うん、いただこう。先にシャワー浴びてくるよ」


 香は夫好みの酸味のあるエチオピア産のき立てのコーヒーを用意していた。サイフォンからコポコポと優しい音がする。


 風呂場から梓が身支度を整えている音がすると、香は新婚時代に二人で購入した陶器のコーヒーカップを用意し、香り高いコーヒーを静かに注いだ。


「出かけたくないなあ」


 すっかり出かける準備が終わった夫は、そう言って笑ってみせた。香も笑いながら、「行かなければいいじゃないですか」と冗談ぽく答えた。


 答えようがない香の返しに困ったように、夫は頭を掻きながら苦笑した。


「何か変化はないか?」


 コーヒーカップを夫の前に出すと、香は梓の隣に座った。


「拓海のこと? 特には。多分ですけど」


「そうか。でも、注意はしておいて欲しいんだ。あの子が生まれた時の姿は幻ではないからね」


「もう……大丈夫ですって……。私には見えませんから確かなことは分かりませんけど。その辺にいる幽霊に時々ビックリしたり、避けたりしてるくらいのものです」


 梓は隣に座った妻の香に体を向けると、不意を突くように額にキスをした。


「私は大丈夫……。あの子も今年の春に大学生になりましたよ。だから心配しないで」


 香は梓の唇にキスをしようとしたが、梓の左手がすっと間に差し込まれた。


「すまない。僕は前より力が増している。お前から全てを吸い取ってしまいそうで怖いんだ」


「私こそ、ゴメンなさい」


 うなだれる香を体ごと梓は抱きしめると、柔らかな香の髪を鼻先で感じながら二言だけ呟く。


 台所の照明も居間のテレビもブレーカーが落ちるように、家の中は一瞬で真っ暗となった。今夜は曇っているせいか、月の光もこの部屋には届かない。


 香は全体重を梓の腕に預けるように、そのまま眠りについた。涙の後を残した香を梓は抱き上げ、寝室のベッドへ運んだ。


 静かに横たわる香のベッドの周りを、見えない囲いで覆うように、手首に巻きついた龍の腕輪が鈍く光る右手でくうを切っていった。


「我が精霊よ、盟約に従い、女人の目覚めの時まで護り給え」


 呼びかけに応じるように、右手の腕輪がスルスルと宙に舞うようにその姿を現す。


あるじよ、承知した」


 体はクリスタルで出来ているように透き通り、その声は穏やかで優しかった。香の上に浮かび上がり、ゆったりとその長い体でとぐろを巻くように周囲を囲んだ龍は、目を合わさないあずさをじっと見つめている。


「香は朝まで目覚めないだろう。それまでここにいて欲しい」


 龍は黙って目を閉じた。


「その後は次の門が開くまでお前は自由だ。でも、悪さはするなよ」


「ご心配なく。早く行かれた方がいいのでは?」


 梓は寝室のコート掛けに被せておいた帽子を手に取り、頭にぽふっと乗せる。


 龍に行ってくると告げると、暗闇と化した家の中を見えているかのように難なく部屋を抜け、玄関までたどり着いた。


 少し名残惜しそうにドアノブに手を掛けたまま、梓は我が家を見渡すように振り返る。


「またな、香。健やかで」


 数時間前に現れたばかりだというのに、またこうして妻を残したまま、夫は出掛けて行った。

読んでいただきありがとうございます。

第二章が始まりました。少し前の話になりますが、夏樹たちの様子も気になります。

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