第15話 想いびと、明日香
白足袋の足先をさっと雪駄に滑り込ませると、淳之介は母屋の戸をガラガラと開けた。夕映えに向かって、一度大きく深呼吸。
もうすぐ閉門の時間のはずだが、まだ参拝客がいるらしい。境内の方では淳之介の父と女性の話し声がする。
向かってみると、女性、いや女の子は淳之介に気づくと小さく手を振った。
ーー女神降臨!
「こら、淳之介! 境内の中は走るな! と言っておるだろうが!」
淳之介の父、正嗣。淳之介のように先祖から受け継いだ霊力は持たないが、先代からこの白鳥神社を預り、つつがなく宮司を務めている真面目な男。
「お前も明日香ちゃんは久しぶりだろ? ちゃんと挨拶しろ」
「分かってますよ」
「では、明日香ちゃん、またいらっしゃい」
そう言うと、正嗣はそそくさとその場を去った。予てから明日香のことは、いずれ我が愚息の嫁に、と密かな夢を抱いている父から淳之介へのギフトである。
折角の父の配慮ではあるが、一年ぶりに会う、大学生となった私服姿の明日香は眩しく、淳之介は思うように話し出せずにいる。
明日香の艶やかな肩までまっすぐに伸びた黒髪がサラサラと風にそよぐと、淳之介の目には絵に描いたワンシーンのように、更に眩しく映った。
「淳之介くん、元気だった?」
「あ、うん。明日香ちゃん、もう大学生なんだよね。遅くなったけど合格おめでとう。なんだか……大人っぽくなったね」
そうかな、と可愛らしくはにかむ明日香。
控えめな態度とは反比例した、大きくせり出した胸元に例え気づいていても、己をコントロールするべく、脳をフル回転させている淳之介。
ーーこれは、もはや修行の域を超えた苦行である。
「今日は何をお願いしに来たの? って、僕が聞くこと、じゃないけど、今日はナギ様はいないよ」
「え、そうなの? 神様が神社にいないこともあるの?」
ーーしまった。
「それは残念。幼馴染に会えないかな、ってお願いしたら、こないだ一緒にボランティアに行ってくれたのよ。これもナギ様のお力添えにちがいないって思って、お礼に来たんだけど」
淳之介は母屋の方をゆっくりと振り返った。空気を読むことができない四人が家の中は飽きたらしく、このタイミングで境内にワサワサと現れたからだ。
「あれ、明日香じゃん? なにやってんの?」
思いがけず拓海に出会った、この偶然に明日香の顔がパッと輝いた瞬間を目の当たりにした淳之介。明日香は拓海に気がある事を瞬時に察してしまい、それはもう愕然とした。
間の悪い話である。
「あらあら、淳之介。こちらの可愛らしいお嬢さんはどなた?」
社会人の休日、というよりニートないでたちのクニヌシ、巫女装束を着ることで、むしろ妖艶さが増している双子。そして、明日香の想い人らしいが不愛想な拓海。
この面々に臆すことなく、淳之介に話しかけてきたユリアの美しさに感嘆の声をあげるなど、明日香もなかなか度量が深いとみえる。
淳之介が紹介する間もなく、クニヌシは明日香の手をすくうように両手で握ると、すらすらと自己紹介を始めた。
「なんと愛らしい。女神も嫉妬する愛らしさではないか。俺はクニヌシ。拓海の遠い親戚、のような者だ。休暇で遊びに来ているわけだが、当面、拓海の家で厄介になるつもりだ」
「で、こちらの巫女のお二人も僕の遠い親戚で、手伝いに来て頂いてます」
双子は淳之介の前にスルッと現れて、明日香の眼前に立つと囁くように言った。
「私はユリア。そして妹のウララよ。あなたは淳之介に何の御用、か・し・ら?」
淳之介は、何言ってくれてんの! と心の中で叫びながら、三人の間に飛び込んだ。
「そういう意地悪な言い方は止めてください。彼女は神社にお参りに来てくれたんですから」
「あらあ、ごめんなさいね、明日香さん」
ーーこんな姑は嫌だ……絶対に。
明日香はというと、いつも一人だった拓海が陽気な輩に囲まれていることを好ましく感じたのか、ニコニコと嬉しそうに皆の紹介を聞いている。
「で、橘くんは同級生だから知ってるよね?」
明日香は変人たちに囲まれている拓海をちらっと見ると、うつむいて答えた。
「うん」
ーーこれは……はい、可愛い。
これは淳之介と拓海の心の声。
見事にシンクロしていた。
それを感じ取ったのは、誰でもない当人同士。
何か分かっちゃった、と複雑な思いにとらわれた双方は、神妙な面持ちになるしかない。
そんな男の子たちの苦しい胸の内など全く知らぬ明日香は、来た時よりもオレンジ色に濃く染まった空を見上げ、予定より長居していたことに気づいた。
「ごめんなさい、淳之介くん。もう閉門の時間でしょ? 今日はもう帰るわ」
ーー君はいいんだよ!
明日香が軽く会釈して立ち去ろうとした時、それまで黙っていた拓海が、それはヤカンの火をつけっぱなしにして買い物に来てしまった時のお母さんのように、森中に響き渡るごとく大きな声で叫んだ。
夏樹を置き去りにしていたことを、ようやく思い出したのだ。
「完璧に忘れてた! 帰るぞ、クニヌシ!」
「お、おう。では、お嬢さん、またの機会に。淳之介、世話になったな」
「いいから、早く!」
一刻も早く戻らねば、という気持ちが先行している拓海は脇目も振らずに、クニヌシを急かしながら長い石畳を下って行った。
遠くなっていく拓海の後ろ姿。
明日香には目もくれずに、あっという間のことだった。
恋する乙女はしょんぼりとしながら、拓海の背中が見えなくなるまで、そこに立ち尽くした。そして、明日香は境内に残った淳之介と姉妹に礼をすると、サンダルのヒールに気をつけながら、階段を一歩一歩、転ばないように降りていった。
「さあ、淳之介も夕拝に行ってらっしゃいな。お父上が待ってますよ」
うなだれた明日香のことが気がかりではあったが、淳之介の大切なお役目でもあるので、後ろ髪を引かれる思いで本殿に行くことにした。
最後まで境内に残った双子は、あうんの呼吸で本殿の更に奥の方へと向かう。
しばらくいった先には、立派な注連縄で囲まれた、大人の背丈ほどある大きな岩があった。瑞瑞しい新緑が結界となっており、人が立ち入ることのない聖域だ。
双子は岩の前に膝をつくと、声に出さずに三言ほど呟いた。すると、あの神社の入り口にある祠と同じように、岩から淡く光る玉がふんわりと浮かび現れた。
「どうしたの、ユリア、ウララ?」
「ナギ姉様。私たちは何も。それより、姉様はいかがですの?」
「心配かけてごめんね。こちらで休んでいれば、と思っていたのだけれど……」
心なしか前より小さくなった光の輪の中で苦しそうに微笑むナギを見て、姉妹は心を痛めていた。
「クニヌシ様にお会いしたかったな。きっとまた今度ね」
岩の中へ再び吸い込まれる様に消えながら、力なく笑うナギを双子は泣きそうな顔で見送った。
遠くで正嗣が大祓詞を奏上する声が聞こえる。ユリアは思い直す様にキリッと顔を上げた。
「さあ、私たちもヌシ様の元へ戻りましょう」
ウララが頷いた。ユリアが震える妹の手をとると、ウララは姉の手をきゅっと握り返し、姉の手を支えにゆっくりと立ち上がった。
読んでいただきありがとうございます。
次は、ある男の秘密が少しだけ繙かれます。