第10話 二人の天女
あれから五日後の朝のことだった。
拓海は大学の授業も病欠と偽って休んでいる。
母親の急な登場も予想されたため、架空の友人たちと自転車で国内旅行をしてくる、と嘯き、万全の体制で女児の誕生を待っていた。
母は涙を流して喜んだという。
拓海とクニヌシは、時々、女児に話しかけたりしたが、声は届いていないようだ。昨日あたりから、女児は眠る時間がどんどん長くなっていった。
元気がないというわけではない。
ただ静かに丸くなって眠っているだけ。
「クニヌシ、いないのか?」
一人の朝食を終えた後、台所で洗い物をしながら声に出して言ってみた。
「どうした?」
「いたんだ。いや寝てばっかりだから心配になってさ」
皿を洗い終わり、手を拭こうとタオルに手を伸ばすと、クニヌシがタオルを持ってニッコリと立っていた。台所には全くもって神話の世界は不似合いである。
タオルを受け取ると、丁寧に水気を拭き取って、またクニヌシにさも当たり前のように手渡した。
クニヌシは濡れたタオルを受け取っておきながら片づけるでもなく、近くの椅子の背に引っ掛けると、拓海の後を追い、台所から部屋へと移動した。
敷居を踏まないように。
「目覚める前の予兆だな。順調に育っている、ということだ。誕生は近いだろう」
すやすやと音がしそうなほど、気持ちよさそうに眠っている女児を見ている拓海は、新生児室で生まれたての我が子を見て感涙する父親そのものだ。
「今、夏樹は何歳?」
「死んだ時の年齢」
「十歳か。男の俺が女の子の下着や服を買いに行けば、微妙に変態扱いされる年じゃないか。こりゃあネットかな」
夏樹を最後に見た記憶は、男女の区別もつかないほど全身が血で覆われていた。当時、彼女がどんな服を着用していたのか分からない。
水の中で眠る夏樹の姿は殺害される直前の服と同じだが、凄惨な事件の渦のど真ん中で横たわっていた時とは違い、今はシミひとつない純白のワンピースを纏い、幸せそうに浮かんでいる。
「そこでだ。女児の世話をする従者をつけてやろうと思うが、どうだ?」
クニヌシは首に掛けた勾玉のうち、淡いピンク色をした石をそっと撫でようとした。
「そりゃいいけどさ、家はすでに定員オーバーなんだが」
「止めるか?」
拓海は考えた。
クニヌシ、従者、自分、そして夏樹の四人が同居。人以外は霊体化してもらえば問題ないはずだが、最近のクニヌシは出かけてきたと思ったら、夜中にベッドに潜り込んでくるのが日課となっている。
全員が霊体化しない可能性もある、ということだ。
この部屋は敷居を挟んで、四畳半と六畳が繋がっている2DK、という大学生の一人暮らしには十分すぎるスペースを確保している。
父親の失踪後、母親は以前にも増して仕事をすることで、拓海に不自由はさせまいと全てを与えてくれた。
苦労を厭わない母親を見て、母方の叔父夫婦が支援したいと申し出てくれた。そのおかげで、叔父夫婦が持っている都内の不動産の一つを無償で貸してくれている。
母親と一緒に暮らしていない理由は、拓海のいわゆる『見える』体質のせいだった。色々と近寄ってくる妖や霊のせいで、母親が小さな傷を作ることがあったからだ。
自分の存在が周囲を不幸にするのではないか、と恐れていたために、あまり他人と深く関わらないようにしてきたのは、そういう理由があった。
「んー、決めた。なんとか片すか。従者の件は頼むよ。小さな女の子の世話は難しそうだ」
「承知した」
そう言うとクニヌシは、先ほど触っていたピンクの勾玉を擦り呟いた。
「我が愛しの精霊よ、眠りから覚めよ」
歳の頃は二十歳くらいか。独特な毒っ気のある妖艶さを放つ、女の双子が勾玉から音もなく降り立った。
ーー『竜宮城』の天女ってこういう感じだったんじゃないの?
「ヌシ様、お久しぶり。あら? 可愛いらしい方ですこと。そう思わない、ウララ?」
銀髪の天女は、同じく銀髪に淡いピンクの髪が入り混じった、もう一人の天女に話しかけた。
「本当に。ユリアお姉様。お仕えする御仁がヌシ様ではないのは残念ですけど、ふふ」
見目麗しい双子は衣擦れの音も優雅にするすると、それぞれクニヌシを挟む様に立ち位置を変えた。クニヌシの肩にしなだれるように頭を乗せ、その目力で圧倒してくる。
「夏樹の世話をする二人だ。こちらが姉のユリア、そして妹のウララだ。よろしく頼む」
ーーへえ……結構キラキラネームじゃん。
「よろしくお願い、します。世話をして欲しいのは僕じゃなくて」
「あら違うの? ヌシ様、どなたのお世話を?」
姉のユリアが口を挟んできた。
「お前たちに世話をして欲しいのは、こっちだ」
クニヌシは三人の背後にあった玉を指差した。蘇りの奇跡を目にして、双子はギョッとしたようだが、それはほんの一瞬のこと。
すぐにクニヌシを褒めそやし始めた。
クニヌシも満更でもなさそうである。
三人は玉を囲んできゃっきゃと盛り上がっていた。
拓海を除いて。
曇り一つない眼鏡の奥で、拓海はフッと笑った。
ーーあれだな、馴染みのキャバ嬢を両脇に抱える太客。
「この可愛いお嬢様をお世話すればよろしいのですね?」
「そうだ。男でなくて申し訳ないのだが、やってくれるか?」
「私たち、お嬢様も好きですのよ。精一杯お世話させていただきますわ」
「ウララ、まずは衣が必要だわ。絹を調達できないかしら?」
「それでしたら、新しく機織りであつらえてはいかがかしら?」
双子が同時に、眉間にシワを寄せた険しい顔をした拓海へ振り返った。
視線が自分に集まり、緊張が全身を覆い始め、ビクッと体を震わせると、拓海はいきなり眼鏡を外し、Tシャツの裾で丁寧にレンズを拭き始めた。
返答のない拓海をよそに、姉妹は久しぶりのクニヌシからの呼び出しを嬉しそうに、少しはしゃいでいる。
「そう言えば、ヌシ様が人の姿になる時、こちらの世界の衣をお召しになっているとか。モノカミから聞きましたの。ウララも拝見しとうございます」
クニヌシは「ああ、あれか」と、外で霊体化するたびに服を失くして、拓海に叱られていることを、武勇伝のように語っている。
ーー全然笑えないから、それ。
「前から言いたかったんだけど、その件、ちゃんと話し合おうぜ。うちは裕福じゃないんだからな」
冷めた拓海の物言いに、三人の笑い声がピタッと止まった。
クニヌシが双子から離れ、拓海の方へ歩み寄ると、拓海が一歩下がる。
「なぜ、逃げる」
ーー俺を好きすぎて怖いから。
「悪かったと思っておる。だが、どうすれば良いというのだ?」
拓海は冷ややかに言い放った。
「必ず拾い上げて戻って来い、それだけだ」
双子の天女たちは、あらあら、と言いながら、二人の様子を伺っている。
クニヌシが拓海に近付こうとする度に少し離れる拓海。
「ユリアお姉様。お二人の攻防戦、ウララには目に毒ですわ」
「ワクワクが止まりませんことよ」
こうして、拓海の一人暮らしは完全に終わり、新生活が幕を切って落とされたのだった。
読んでいただきありがとうございます。
夏樹を迎える準備は全くできておりませんが、誕生の時はすぐそこです。