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常世の国のシトラス  作者: くにたりん
第一章
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第1話 序章

 常世の国から美しい眷属けんぞくが現れたのは、青かった空と海が茜色に染まりかけたころ。瀬戸内海の浜辺で、自分の落とした涙のあとをぼんやりと見ている少年が一人。


 遠くから何かが近づいてくる気配に、少年はゆっくりと顔を上げた。黒縁眼鏡の奥で眩しそうに左目を細め、海の向こう側へ目を凝らしてみる。


 最初は、小さな白い点だった。


 点は少しずつ丸から細長い光となり、静かに打ち寄せる波の上を滑るように、少年の方へ近づいてくる。


 その姿を現した。


 白い装束の人ならざる者は、濃いオレンジ色の夕日を背後から受け、一層のこと神々しく、白い波際に浮かぶように立っている。


 逆光で顔は影となり、はっきりとは見えないが、背にかけた立派な刀剣のせいか、細身ながら見る者を圧倒する空気を纏っている。


 華奢で優美さを覚えるそのたたずまい。朱色の漆が鮮やかな爪櫛つまぐしで両耳の横で束ねた漆黒の髪。


 あまりに艶やかで美しかったので、少年は目を奪われ動けなくしていた。


 男は波から舞い降りるように砂地に降り立ち、音もなく少年に歩み寄ってくる。少年は間近に来た男を一瞬見上げたが、すぐにうつむいてしまった。


「俺が見えるのか?」


「いや、まったくもって」


 白装束の男が自分を見下ろしていることは、一時の静けさの中で、なんとなく察しがついた。


 少年の方は男と会話をする気がないのか、関わりたくないようで、目も合わさず無言を貫いている。


 男はその場にしゃがみこむと、少年の熱でも測るように少し汗ばんだ額に、手のひらをかざした。すぐに嬉しそうな声でつぶやいた。


「ほう……下界早々、御前上等」


 少年は視線を上げ、男を威嚇いかくするように睨んでみたものの、そこにあったのは、見知らぬ男の手と端正な顔立ち。


 日本神話の神にも見える、刀剣を携えた眉目秀麗な男が瀬戸内海の浜辺にいることにリアイリティを感じず、今は頭を整理する時間を欲していた。


 男は砂浜から一握りの砂をすくい上げると、軽く握った手中から、少年の襟元にサラサラと砂を注ぎ始めた。実体を感じさせなかった白装束の男が、急に現実のものとして認識された瞬間だった。


 急に冷水でもかけられたように少年は驚いたが、ムスッとした顔でゆっくりと立ち上がり、無言でシャツにかかった砂を払い落とす。


 男も同様に立ち上がると、二人は顔を突き合わせる形になった。


「見えておるのだろ? 正直に申せ」


「まあ……ね」


 白装束の男は、満足そうに微笑んだ。


「そうか。俺はクニヌシという。お前は?」


「俺?」


「お前しかおらんだろ」


「……拓海たくみ橘拓海たちばなたくみ


 黒縁眼鏡の少年、拓海はクニヌシという存在に驚く様子もなく、再び砂浜に腰を下ろした。


 ゆっくりと人差し指で、砂浜に自分の名前を書いて見せた。


「ばあちゃんがつけてくれたんだ。俺は海からの授かり者だから、って」


 顔を上げると、紫とオレンジが入り交じった暮れ行く空と海の境目を探すように目を細めた。


 クニヌシと名乗った白装束の男は、拓海の隣に腰を下ろし、砂に書かれた『橘拓海』に目をやった。


「良い名だ。御祖母は健勝けんしょうか?」


 拓海は地平線を見ているクニヌシに、そっけない顔を向けて言った。


「いや。二日前にあの世に行ったよ」


「そうか。この浜と海は現世の入り口だ。故に、近隣の者であれば見知っている人間かもしれん。そう思っただけだ」


「ふうん。まあ、それはないと思うけど。霊的なものが見える人ではなかったからね」


「そうか」


 拓海はハーフパンツのポケットから、スマホを取り出し時間を確認する。どうやら長居してしまったらしい。


「俺、そろそろ行くわ。クニヌシ? だっけ? たたり神じゃなくてよかったよ」


 眼鏡のブリッジを中指でクイっと上げると、憎まれ口を叩きながらも、拓海は初めて満面の笑顔を見せた。


 子供の頃は歯医者で泣きわめいたものだが、矯正され美しく並んだ白い歯は、拓海の笑顔に輝きをもたらしている。ついでに、クニヌシは旧友にでも出会ったかのような、なんとも言えない郷愁を覚えた。


たたり神をそう悪く捉えるな。俺も神のようなものだが、存外、普通だぞ」


「普通? 海を歩いて渡ってきて、現世に現れる霊体なんて普通じゃないよ。ステータス高すぎでしょうが」


 禍々(まがまが)しさもなかった。海上でのクニヌシの立ち姿には、男の拓海でもほれぼれした。が、クニヌシがどこぞの神だと分かり、触らぬ神に祟りなし、という故事を思い出していた。


 拓海は立ち去ろうとしたが、「最後に尋ねたいことがある」とクニヌシに呼び止められた。


 眼鏡のレンズが光って表情がよく分からないが、声色からして拓海は不機嫌そうである。


「なんだよ」


「これまでに、他の神と会ったことはないか?」


「ないね。じゃあ」


 拓海は抑揚のない声で短く答え、帰り道に向かってきびすを返した。背後から、クニヌシのよく通る声がする。


「人探しを手伝ってくれたら、願いごとを一つ叶えてやろう」


 家路に急ごうとしたが、その愉悦をふくんだ誘惑に反応してしまった。


――誘いに乗ってはダメだ。


 拒絶する意志とは裏腹に、脳裏には陳腐ちんぷな願いごとが、わき水のごとく量産されてくる。


 背後でクニヌシがささやいた。


「申してみよ。ただし、願いに見合った代償も伴うがな」


「やっぱりね。遠慮しとくよ。俺は神に払えるほどのものは、持ち合わせてないんでね」


「まあ、まあ、待て待て」


 その声に、また立ち止まる。拓海は肩で小さく息を吐くと、帰り道を見据えて言った。


「自分の矮小わいしょうな願いごとくらい、己の力でどうにかするさ。だから、もう行くよ」


殊勝しゅしょうだな。ではまた会おう」


 拓海の返答にまんざらでもない顔をして、あっさりとクニヌシは姿を消した。


 気づけば、辺り一帯は闇が落ちかけている。振り返った時には、もう砂浜には拓海一人きり。


 ひんやりとした風が体を巻き上げるように、天に向かって吹き抜けていった。


「神が人探し、ね……他に仕事あんだろ」


 霊体に遭遇することに慣れているとはいえ、神ともなれば話は別だ。クニヌシと交わした短い会話、願いごと。一連のおかしな出会いを思い返しながら、ゆっくりと歩き始めた。


 祖母が一人で暮らしていた家まで歩いて三十分だが、ぼんやりと考えている間に、疲れを感じる間もなく家に辿り着いた。


 隣人は多くない、ひっそりとした祖母の家。白熱灯の淡い光が周囲にもれているのが、今夜は暖かさより物悲しさの方が優っている。


 近所の者たちが、ぽつりぽつりと訪れているのだろう。


 七十二歳で亡くなった祖母の洋子は戦中に生まれ、岩戸景気と呼ばれた戦後の高度経済成長期時代に青春を謳歌した世代だ。


 日本は戦後、二十年も経たないうちに復興の過程を終了。経済負担の大きい軍事はアメリカに任せ、せっせと商売に明け暮れ、ハイスピードで経済大国にのしあがっていった。


 国として熟してしまった今の日本では体験できないほど、当時の日々のアップデートは凄まじいものがあったに違いない。


 四人兄弟の長女だった洋子は、良くも悪くも熱気を帯びた新時代にいながら、母とともに一家の生活を支えるため、懸命に働き、若い娘の楽しみを覚えることもなく十代を過ごしたという。


 洋子は足腰が弱ってからも、毎日の掃除は欠かさなかった。潮風で痛んでいる箇所もあるが、部屋も廊下も水場も全てが念入りに磨かれ、その古さはむしろ美点と言える。


「拓海、こっち手伝ってー」


 台所の方から、母親の声が部屋まで響いてきた。


「んだよ、もう」


 帰宅した後、祖母の部屋に座り込み、遺品のアルバムや手紙を整理していた。母親の一声で思い出に浸るのは諦め、手にしていたアルバムを畳に置いた。


 部屋を出ると、廊下の柱に刻まれた何本もの傷が目に入ってきた。凹みを、優しく指でなぞってみる。


 洋子の息子、つまり拓海の父は消息不明。どこで何をしているのか、息子の拓海だけでなく、母の香も行方を知らないという。


 柱の傷と掘られた年齢を見るたびに、祖母は父を愛し、この家で大事に育てられたことを感じる。


「死んだなら死んだでいいから、早く俺んとこに来いよ……」


 傷跡に優しく触れたかと思うと、次に湧いてくる憎悪の塊で心が潰れそうになる。両手の拳を強く握りしめていると、廊下の向こうから漂ってきた線香の香りに顔を上げた。


「分かってるって、ばあちゃん」


 深呼吸で高ぶる気持ちを落ち着かせて、拓海は頭をかきながら台所へ向かった。


 藍染の暖簾のれんをバサッと手で跳ねながら台所に入ると、近所のおばちゃんが拓海に気づいて「大きくなったわねぇ」と笑った。


 ペコっと頭を下げる拓海に、母の香が息子の無作法に顔をしかめて言った。


「なにそれ! ちゃんと挨拶しなさい!」


 歳より若く見られがちな母の香もまた、この家と祖母のことが好きだった一人だ。勤め先に二週間の休みを取り、行方不明の旦那の名代として喪主として、泣く間もなく己の務めを果たしている。


 身内は香と拓海の二人だけである。

 他に訪れる親戚縁者は、一人としていない。


 この海辺の町で出会い、恋をして、二十歳の時に妊娠し、拓海の父を産んだ。彼女の死を悼んでくれるのは、隣人たちとわずかな友人。そして香と拓海。


 拓海は居心地悪そうに台所を出ると、祭壇のある居間の方へ入った。


 祭壇の前に胡座あぐらをかいて座ると、思い出したようにパンツの後ろポケットから、一枚の写真を取り出した。


 穏やかに微笑む遺影に向かって「これ見つけたんだけど」と突き出した。


 アルバムの間に挟まれていた、祖母の十代と思われる若い頃の写真だ。幼い兄弟と一緒に並び、セピア色の中で少しはにかんで立っている華奢な洋子。


「ばあちゃん、可愛いなぁ」


 静かに暮らした祖母らしく葬儀も粛々と終わり、そして香と拓海は東京に戻っていった。

読んでいただきありがとうございます。神の眷族たちと人の子の他愛のない日常から謎解きまで、ゆっくりと進んでいきます。

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