4.5 父の油断
焦り。後悔。不安。どうして人は何かが起こってからじゃないと、自分のしたことがどれだけ愚かな事だったか気づけないのだろうか。
「エール……エール!」
生い茂る草木を掻き分け、どんどん森の奥へと足を進めていく。どれに毒性があって、どれが安全なんて気にしてられない。俺は腕から流れ出る血にも気づくことなく、ある小さな背中を探していた。
――二時間前。
俺とエールは、無事剣の納品を終え、行き道と同じように手を繋いで帰っていた。
「とうさん、ごきげんだね」
「そりゃあ、な。これでまたしばらくの間は生活に困らないんだから、ご機嫌にもなるさ」
普段なら、ラーバワームにさえ気をつけていれば何てことない道だ。俺は、王国への武器の納入が済んで浮かれていた。今回の納入で、少なくとも1年は食いっぱぐれのない生活を送れるほどには金に困らなくなったからだ。
「じゃあ、しばらくあのおうさまにはあわないの?」
「まあ、そういうことになるな。どうしてそんなこと聞くんだ?」
「ぼく、あのひとちょっとにがて……かも」
エールのシグルス城への第一印象が悪いのは俺にとって朗報だ。昔よく読んだ本では、こういう城へ出向くような用事に娘を連れていったことが原因で、そのうち、いつか生まれるであろう第一王子の遊び相手になるのだ。
そしてそこから色々あった後、結果的に王子に恋い焦がれる乙女になってしまい、そのまま思いを打ち明け婚約してしまうに違いない。
昔から女癖の悪いあいつの息子だ。最初こそエールとの仲は良好で夫婦円満だろう。だが、次第に城を抜け出して夜遊びを覚え始め、エールの元へ帰らない日が多くなっていく。
エールも薄々勘付いてくるのだが、どうしても夫への愛を捨てきれず……さらには年上の自分が泣きつくわけにもいかず、夜な夜な枕を涙で濡らす日々……
「ゆ、許せんっ!」
「ご、ごめんなさい」
おっと、妄想への怒りが口から漏れ出てしまったようだ。自分が怒られたと思ったのか、エールが涙目で俺を見上げている。
「あ、その、エールに怒鳴ったつもりはないんだ。むしろ、もっとあいつを嫌いになってもいいぞ」
小さい子が泣いてしまった時のあやし方が本当にわからない。泣かせてしまった時はいつもティアに頼りっきりだったからな……もう少し、子育ての勉強をしないといけない時期に来ているのかもしれない。
「そ、そこまで……? でも、とうさんとあえてうれしそうだったから、わるいひとじゃないのはわかるよ」
エド、つまりエドワード王は、少々高価でも俺の鍛えた剣を高く評価してくれている。俺もそれにこたえられるよう、鍛冶師としての腕を磨いた。刃はより薄く、より硬く、そして鋭く。その甲斐あってか、俺の鍛えた剣はシグルス王国の主兵装として使用されている。そんな武器を今回は大量に納入したんだ。キツイ仕事ではあったが、当然見返りも大きくなる。
そんなわけで、俺はすっかり気が抜けていた。近くに潜む魔物の存在に気がつかないほどに。
「とうさん、うしろ!」
魔物は、茂みから飛び出て俺に襲いかかってきた。エールほどの身長しかない、小さな魔物だ。魔物は俺が身構えるより前に、俺の顔めがけて両手いっぱい掴んだ砂を投げてきた。
「くっ! 小癪な!」
不意打ちだったせいで目に砂は入ってしまったが、所詮は体格の小さな魔物。目が見えにくくても攻撃をかわしてから斬り捨てるのに大した動きは必要なかった。そして、魔物を一撃で斬り伏せた俺は目の中に入った砂を持参した水筒の水で洗い流した。
「……なんだ? こいつ、ゴブリンじゃないか」
ゴブリンにしては珍しく少しは頭を使って襲いかかってきたようだが、あの程度の知恵では俺に勝つことは出来ない。
「エール。魔物も片付けたし、そろそろ一息――」
魔物は片付けたしそろそろ一息つこう。そう告げようとエールの方を振り返る。
――そこにはエールの姿は無かった。
全身から血の気が引いていくのを感じた。まさか、そんな……攫われたのか? いや違う、これはきっと……そう、遊んでるんだ。俺の目を盗んで、その辺に隠れているに違いない!
地面には小さな足跡が足跡ついており、茂みの奥へと続いている。きっとエールは、息を殺してこの茂みの奥に隠れているのだろう。幸い、その茂みに毒性のある種類の植物は見当たらない。
「そんな隠れ方じゃすぐに見つけてちゃうぞ?」
震える声で軽口を弾ませながら茂みの方へと近寄ると、あることに気づいた。明らかに、地面についた足跡が複数あるのだ。靴の跡と、裸足の跡だ。こうなると、可能性は一つに絞られてくる。だが、俺は認めたくなかった。
「そ、そこにいるんだろ?」
見て見ぬ振りをしたい。間違いであってくれ。気のせいであってくれ。そう念じながら、茂みの奥へと進む。
すると、茂みの奥には物音を立てないよう忍び足で歩く小さな魔物の姿があった。魔物の肩には同じくらいの大きさの小さな人間が担がれている。
間違えるはずもない。それはエールだった。エールは怯えたように身を強張らせ、涙目で俺を見つめている。
魔物は俺の姿を目にした途端ギョッと驚き、乱雑にエールを引きずりながら、駆け足で更に茂みの奥へと逃げて行った。
「貴様ぁぁぁぁぁ!」
その光景を見たとき、俺は冷静に物事を考えることができなくなっていた。瞬時に湧き上がった怒りのままに、エールと共に茂みへと消えていく魔物に斬りかかったのだ。所詮相手は雑魚。恐れるほどのものではない。そう考えていたのが甘かった。
気がつくと、俺の服は破れ、頭と右腕からは真っ赤な血が流れ出ていた。こんなに大きな怪我をしたのは久しぶりだ。
よくは覚えていないけど、斬りかかろうと茂みを越えた途端、全身に強い衝撃を受けたのは覚えている。
おそらく、俺に砂をかけた奴やエールを襲ったのとはまた別の奴が数匹、茂みの中で待ち伏せでもしていたのだろう。二匹とも囮だったわけだ。情けないことに、俺は複数の魔物の奇襲であっさりと気を失ってしまった。
あの魔物はゴブリン。
魔物の中でも特に弱い、下級グループに属する。本来ゴブリンは、目眩しのために砂を投げつけたり、囮や待ち伏せなんて考えたりできるほどの知能を持っている生物ではない。ましてや、ゴブリンがグループを作って人を襲うなんて、ありえないはずなんだ。
基本的にゴブリン達の間で上下関係が発生することや、群れを形成することは無い。群れでいるように見えても、それは偶然目当ての獲物が重なった為に群れに見えるだけであって、奴らはどいつもこいつも個々で独立している。
……というのが学者達の発表だったはず。
いかなる時も冷静に周囲の状況を把握する。
守りを疎かにしない。
情報を信じすぎない。
こんなことは基本中の基本なのに……慣れというものは、時に人をダメにする。こんなことじゃまた基礎レベルからやり直しだ。
気を取り戻した俺は痛みに耐えながら周りを見渡した。俺の愛娘、エールを探すために。
そして、現在――
「くそっ、くそっ!」
俺は自分の顔を、怪我していない左腕で思い切り殴った。頭の中がぐちゃぐちゃで痛みさえ感じない。
金が入ったからって浮かれて、その金よりも大事なものを失ってしまうのか。その場の油断で、一生後悔するつもりなのか。
全ては俺の甘さから招いた事だ。あの時、魔物が一匹でない事に気付いていれば……あんなところで油断しなければ、こんなことにはならなかった。
本当に、父親失格だ。普段は父親面しててもいざとなればこれだ。バカで、勉強も教えられない……魔法の教養もない。
それどころか、子供を守ってやることすらできない。無能極まりないとはまさに俺のことだ。母親であるティアの方が、よっぽど親らしい。
だが、今さら何も言っても後の祭りだ。意識も朦朧としているが、今は必死になってエールを捜すしかない。
エールが無事だったなら、エールとティアに思い切り殴ってもらおう。この駄目な父を。