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08 青空勉強会

「こほん。えーっと、きょ、今日は文字を読む練習をします」


 少し照れくさそうに黒板の前に立ち、そう言った母さんは、チョークで黒板に一つの文字のようなものを書いた。あまり黒板に文字を書くことに慣れていないのか、筆圧の強弱がバラバラだったり線が歪んでいたりと、お世辞にも綺麗とは言えない字だ。


僕は、この世界に8年住んでいて気付いたことがある。


「それではさっそく。エールちゃん、この字……なんて読むと思う?」


 恐らくだが、この世界の言葉は日本語とほとんど変わらない。家に置いてある児童用の本を読んで、文の構成から文字の形まで日本語にそっくりだとは思っていたが、両親に質問したことは無かった。質問しても、どうせ日本なんて知らないだろうし。

これくらいなら僕にだって……




「――読めません」




 とは言っても、僕は生まれ変わる前からひらがなカタカナを少し読める程度の識字能力しか無かったんだけど。自信はないけど、本に書いてある文字を見る限り、多分日本語と同じ……はず。


「まあ、教えてないんですから読めないのは当たり前ですよね……流石に遅すぎたかしら」


 母さんは苦笑いして頬を掻く。少なからずここまで何も教えてこなかったことに対して自責の念に駆られているようだ。


「それじゃあ、第一シグルス文字から勉強しましょうか」


「待った! なんでアタシもここに座らされてるの」


 僕の隣に座るエルザは僕とは違い文字をほとんど理解しているらしく、授業内容に文句を垂れている。

 不満そうなエルザを尻目に母さんの授業を受けていくと、この世界ではシグルス文字というのは万国共通で使用される言語で、言うならば英語のようなものだという事がわかった。


 シグルス文字は第一から第三まであり、日本語とはよく似た形をしている……と思う。自信は無い。よく見ると少し形が違ったりするのかもしれない。僕は母さんから軽く第一から第三までの文字の説明を受けた。


・第一シグルス文字

シグルス文字の中で最も簡単なもので、日本語でいう"ひらがな"にあたるものだ。シグルス文字の基礎になっている文字で、王国民はまずこの文字を学ぶらしい。

僕には読めない。


・第二シグルス文字

第一シグルス文字を学んだ人が次に挑む文字。

日本語でいう"カタカナ"だ。魔物の名前などは大体この文字で表されるが、使用頻度でいえば三つの文字の中で一番低い。

さらに読めない。



・第三シグルス文字

二つの文字をマスターした人が最後に挑む文字。"漢字"にあたるものだ。もちろんこれが一番難しい。

読めるはずがない。


「うふふ、エールちゃんは理解力があって助かるわ。お父さん馬鹿だから遺伝しないでよかった」


「ティア……!?」


 父さんには悪いけど、僕も父さんに似なくてよかったと思う。剣技や鍛冶師としての腕には憧れるけど、普段のだらしない姿には微塵も憧れない。





「今日の勉強会はとりあえずこれでお終い! 明日復習するから忘れないようにね」


 疲れた。一言で言うとそれに尽きる。自分の知らない事、頭の中のモヤモヤが解消されていくのは楽しいし、黒板に向かって勉強をするのも楽しい。それでも何時間も勉強するのはまだ子供の僕には辛いのだ。


「くかー……むにゃむにゃ」


 ふと横を見てみると、エルザが机に突っ伏したまま爆睡していた。よほど暇だったのかな……少し申し訳ないことをした。僕はそんなエルザを揺すり起こそうとしたが、目覚める気配が無い。


「はぁ……仕方ないわね」


 母さんはそう呟いた次の瞬間、身内しかいない為油断していたのだろうか、熟睡するエルザのお尻から無防備に放り出された尻尾を両手で掴んだ。


「うぎゃあ!?」


「おはようエルザちゃん」


「……何すんのさ!」


 エルザが顔を真っ赤にして母さんを睨む。顔が赤いのは、怒りから来るものなのか恥ずかしさから来るものなのか、僕にはわからないけど。


「うふふ、ごめんなさい。あまりにも無防備だったからつい。授業終わったわよ」




 そして、その日の夜。


「父さーん、風呂入ろー」


 シグルス王国では風呂好きなのが国民性らしく、風呂というのは大衆浴場が一般的だ。もちろん、シャワーのような現代的なものは置いていない。

基本的にはお湯を桶に貯めてそのお湯で身体を洗うが、我が家には父さんの作った浴槽があるので、家で風呂に入ることが多い。

床と壁の隙間から排水出来るよう設計されていて、お湯の逃げ道がちゃんと考えられている。

魔法を使える人は水を操る事でシャワーがわりにしていたりして参考になる。


「エールちゃん。もう八歳なんだから、いつまでもお父さんとお風呂に入ってたら駄目よ」


 僕はいつも父さんと風呂に入っている。

なぜかって、そんなの裸の女の人と入浴するのは恥ずかしくてたまらないからに決まっている。疲れをとるために風呂に入っているのに、緊張して余計に疲れがたまってしまう。僕は女だけど、父さんも特に嫌がる素振りも見せずに一緒に入ってくれているから良いと思うんだけど……


「だから、ね。今日はお母さんとエルザちゃんと入ろう?」


「え……俺は?」


「あなたは黙っててください。あなたも、いつまでもエールちゃんと一緒だと困るでしょう?」


「いや、娘の成長を感じられて良いと思うぞ。エールだっていつも楽しそうだし」


「そうだそうだ!」


 父さんの意見を後押ししようと、母さんを抗議の目で見つめた。僕も父さんも困ってないんだから好きにさせて欲しい。


「エルザちゃんにも、そろそろ知らせておかないといけないと思って」


「あー……そういえばそうだっけか」


 母さんが何か父さんに耳打ちすると、父さんは苦笑いでそう言った。何を話しているのかはわからない。


「よし、風呂入るかエール。父さん、ちょっと用事があるから少ししてから来てくれ。」


「うん。わかったよ父さん」


 母さんも折れてくれたんだろうか、結局いつも通り父さんお風呂に入ることになった。





 二十分後、父さんの用事が終わったらしいので、風呂場に向かうことにした。自分の体を見ても、今のところ何も思うことはない。だって、ほとんど男と変わらないし。これが大人になるにつれて、目のやりどころに困るようになるのだろうか。


「父さん、来たよ」


 将来の自分の体を想像し、体をペタペタと触りながら、父さんの待つ風呂場の扉を開け――



「いらっしゃい、エールちゃん」



 ――僕は無言のまま即座に扉を閉めた。


 幻覚かな。扉の向こうに裸の母さんが笑顔で立っていたような気がしたんだけど。

ドキドキしながら扉を背にし、自分を落ち着かせる。自分の顔が熱くなるのがわかる。

今世では母親とはいえ、前世の記憶がある僕からすれば、どちらかというと八年前に知り合った親戚のお姉さんみたいなものだ。そんな人が裸で風呂場にいたら、こうなるのは当然に決まっている。赤ちゃんの頃から、お風呂には父さんが入れてくれていた。母さんは炊事洗濯掃除と、とても忙しかったからだ。それに比べ父さんは、どうしても金属を冷ましている間、どうしても時間が余るので、その時に僕を風呂場に連れて行ってくれたわけだ。


「こらっ。逃げないの」


 扉を必死に抑えてるつもりだったのだが、八歳の女の子の体で大人の力に敵うはずもなく、あっさりと扉は開けられてしまった。


「エルザちゃんは先に入ってるわ。さあ、早く服を脱いで」


 無理やり脱がそうと、グイグイ僕の服を上に引っ張ってくる。取られまいと必死に服を抑え抵抗を見せる。ロクに女の人の裸なんて見たことがない僕にはハードルが高すぎる。


「や、やめっ……」


「いいから。なにを恥ずかしがってるの? 父さんの前で脱ぐことの方がよっぽど恥ずかしいことなのよ? ほら脱いで脱いで!」


「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」





「あ、おばさん……やっと来た」


 母さんに連れられ中に入ると、そこには待ちぼうけていた裸のエルザがいた……多分。恥ずかしくて直視できないから、あくまでも多分だ。


「って、エール!?」


 僕の姿を見た途端、エルザはすばやく浴槽に飛び込み、足を抱えてお湯を口元まで浸からせた。


「うっ、うっ……もうお婿にいけないよ」


 女の人に無理矢理服を脱がされるなんて。情けなくて、涙が出てきた。


「お嫁に、でしょ。もう、そんな言葉どこで覚えてきたの?」


 体は女の子で、心は男。この場合、どっちを使うのが正しいのだろうか。


「お……おばさん、なんでエールがいるのよ」


 顔を真っ赤にして僕の方をチラチラと見るエルザ。さっきまでの僕と同じくらい赤い。


「あらあら、エルザちゃんはおませね。別に一緒にお風呂に入るくらい普通よ?」


「べ、別にませてないわよ! こんなの恥ずかしいじゃない」


 その後も母さんに笑顔で説得されたエルザだが、やはり僕と風呂に入る事が腑に落ちなかったようだ。


「どうしてそこまで嫌がるの。仲良いでしょ?」


「だからこそ嫌なの!」


 そうそう。親しい女の子とお風呂に入るなんて罰ゲームもいいところだよ。


「だって、だって……」


 エルザの顔色がどんどん髪の色と同じ色に変わっていく。間違いなくのぼせているわけではないだろう。ここまで嫌がられるのもそれはそれで複雑な気持ちになるけど。



「――エールは、男の子じゃない!」



 ……あれ?



「ふふっ……まあまあ、とりあえずエールちゃんを見てみなさい。目閉じたら今日のご飯、野菜大増量よ」


 母さんはエルザの耳元で囁いた。


「あっ、それもダメ……いや、でも、あっ、あっ……エール、ごめんなさい!」


 エルザはきつく閉じていた目を開け、僕の方を一気に見た。心の中で葛藤したようだが、どうやら悪魔の方が勝ってしまったみたいだ。そんなに野菜を食べたくないのか。

八歳にして男の裸を見ることを赤面するほど恥ずかしがるとは……エルザめ。恐ろしいほどませている。末恐ろしい子だ。


「あ、あれ?」


 そして目を丸くして、僕の体を指差したエルザはあんぐりと口を開けている。僕ってそんなに変かな? 女の子に見られるのは恥ずかしいからあまりじろじろ見ないで欲しいんだけどな。


「気づいてしまったようね……」


 目を丸くするエルザを見て、神妙な顔を作る母さん。


 そして、エルザが一言。


「え、エールって……女の子だったの?」


 どうやら、二人の間で大きな思い違いがあったようだった。

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