プロローグ
僕は、生まれてこのかた外に出たことがない。
もちろん、このベッドから、この病室からの景色以外を見たことがない。
――手も足も麻痺して感覚がないのだ。
だから、今横になっているベッドの触り心地もわからない。
僕の世界はないことばかりだ。
そんな僕の唯一であり、ささやかな楽しみは、窓から見える桜の木を見て季節の変わり目を感じることだった。桃色の桜が咲き、暖かな春が来て、枯れていって次第に冷たい冬が来る。
本当たまにだけど、雪っていう白い粉みたいなのが降ることもあるんだ。驚くことに、それは元々は水らしい。なんだか不思議だ。でも、それを僕には確かめられない。動けないんだもん。
僕は、ずっと夢見ていた。その木を、その雪をガラス越しではなく、見に行きたい。いつかは外の世界を裸足で走り回りたい、と。
「――ねえ、母さん。僕もいつか外に出られるようになるよね?」
もちろん、同年代の友達もいない。最後に僕と同じくらいの年の子に会ったのは、小学生の時だ。ま、それも通っていれば小学生って事だけど。
ある日、学校の先生や母さん、クラスメイトになるはずだった子の保護者が、学校にいく事が出来なかった僕を憐れんだのか、クラス単位でのお見舞いを企画したのだ。
その結果、一クラス分の人間がまるまる病室にお見舞いに来てくれた。当然病室に入りきらないし、病院にも迷惑をかけた。全く知らない人たちの突然の来訪に、あの頃は戸惑っていた。僕の気持ちなんて何も知らないくせに、変な同情心で……なんて、せっかく来てくれた人たちにひどい事を思った事もあったけど、僕の様子をチラチラと横目で伺う母さんを見ると、とてもそんな事は言えなかったし、そんな気持ちも吹き飛んだ。だから、僕の数少ない素敵な思い出の一つとして心にしまっておく事にした。
今となっては、入院してる小さい子達がたまに遊びに来てくれるくらいだ。おにーちゃんおにーちゃんって。僕にも弟がいたらこんな感じだったのかなー、なんて。今は辛いけど、いつかこの苦しみから解放されることを願って、毎日を生きているんだ。
でも、そんなある日の事だった。
「僕が歩けるようになったらさ、家族でピクニックに行こうよ。お弁当作って――」
僕が何げなく将来の話をすると、母さんはそっと僕の頭を撫でた。とても辛そうで……今にも泣きそうな顔をしていたのだ。本人は悟られないよう心掛けていたつもりなんだろうけど。
「――あ」
僕も、毎日のように病室へ来てくれる母さんをこれ以上悲しませたくなかった。だから、余計なことを口走る前に話を切った。
なんだか、切なくなった。僕が将来の事を語れば語るほど、母さんを追い詰めてるような気がして……だから、次第に将来について話すこともなくなっていった。そんな事もあったからか、僕は何となく自分の人生が残り短い事ぐらいわかっていた。
それについてはしっかりと心の準備をしてきたし、覚悟も出来ていたつもりだった。
――余命半年。
でも、いざ重たく開いた母さんの口からそう告げられた時、自然と溢れた涙が止まらなかった。最初に聞いた時は、現実感もないままだったからまだ半年もあるんだーなんて冗談っぽく振舞ってみたけど、時間が経つにつれて自然と涙が溢れてきた。悲しかったのか、悔しかったのか、怖かったのか……それとも両親に対する申し訳なさからなのか、この時はわからなかった。
僕が死んでからのこの世界には、どんな景色が広がっていくのだろう。三十年後も、ここの桜の木は毎年咲いては散ってを繰り返しているのだろうか。もしかしたら、もうこの病院は潰れちゃってたりして。そんな想像だけが頭の中で膨らんでいく。こんな事をしても意味ない事ぐらいわかってるけどさ……僕は、もうその答えを知ることはできない。僕にできるのは、限られた時間の中、未来の世界を寄せ集めの知識で想像することだけだ。
次第に声にもならない音を口から出し、大泣きしてしまった。動かない腕じゃ泣き顔を隠す事もできず、間抜けな顔を母さんに見せてしまった事だろう。号泣する僕を見た母さんは、同じように泣きながら、謝罪の言葉を何度も何度も呟き始めた。自分の子供に、自ら死の通告をするのが……子供に先に逝かれるのが、親にとってどれほど辛い事なんだろう。
そして、ついに最期を迎える日がやってきた。
自分の体は、少年の体とは思えないほどに衰弱して痩せ細り、声も徐々に出なくなっていった。
母親は僕の手を包み込むように握り、泣きながら頷きニコリと笑っている。父はハンカチで目を押さえながらも、必死に涙をこらえている。
一人じゃ文字通りなにもできないダメな僕を支えてくれた二人に何もしてやれなかったことには、とても悔いが残る。どうして数ある人の中で僕だけが……とか、思ったことは沢山あった。でもその度に支えてくれたのは両親だった。
「あなたのおかげで私達は幸せだった! あなたのおかげで……私達がどれだけ助かったか」
その言葉が聞けただけで、僕の生きた18年は無駄じゃなかったんだなと思えた。
「父さ、か……さん。あり、が……と……」
――薄れていく意識の中で、昔母さんに見せてもらったビデオを思い出した。
僕が生まれた時のビデオ……今よりもずっと若い二人は、僕の顔を見て泣きながら喜んでいた。息子の誕生を、心から祝福しているような二人の顔は、幸せそうで見ているこっちも嬉しくなった。
そのほかにも、僕の中の思い出が次々と頭の中をよぎっていく。
毎年のように誕生日を祝ってくれたこと。ロウソクの火が消せなかった僕の代わりに、父さんが消してくれてたっけ。
元気で明るい母。
無口だけど、優しい父。
二人とも、僕の大切な家族だ。
――神様。もし生まれ変われるなら、不自由のない健康な体を僕にください。
自分の足で、自分の目で世界を見て回りたいんです。それが僕の……18年見続けた夢だから。
そう願いながら、僕――青葉 歩の人生は幕を閉じた。