三国志異聞~無影の男~
秋の夜。森に囲まれた李福の屋敷に、突如火の手が上がった。
炎は次第に大きくなり、あっという間に漆黒の闇を照らす紅蓮の炎になった。
床几に腰かけた劉備は、その光景を僅かな手勢と共に丘の上から眺めていた。
遠くで、人の声が聞こえる。李福の屋敷からだ。悲鳴と怒号。女や子どもの声もある。だが劉備は気にせず、革袋に満たした水を呷った。
「上手くいったようだな」
劉備は背後に目をやって言うと、傍に控えた関羽が軽く黙礼をした。
李福は徐州でも有力な豪族で、同じく豪族である周迅と共に劉備の徐州支配に激しく反対していた。
特に李福は声を挙げるだけでなく、反対派を糾合し叛乱を画策していた。その陰謀には旧陶謙軍の将校も多く加わり、大きな波濤になる気配があったという。
李福一派の謀殺を提案したのは、張世平に紹介されて迎えた、陳籍という客将だった。
陳籍の経歴は一切謎である。紹介した張世平すら詳しくは知らないらしい。歳は六十を過ぎで、眉間から頬にかけての深い刀傷と、双眸の暗さが印象的だった。
その陳籍を客将として迎える事を決めたのは、[無影]という私兵を抱えていたからだ。
無影は原野戦よりも暗殺・諜報・屋内での闘争を得意としている軍で、劉備は一度だけその調練を見た事があるが、まさに地から湧き、雲から舞い降りるような者共だった。
その無影を用いて、李福を暗殺させてくれと陳籍が言ってきた。三日前の事だ。
得体の知れない男に任せるのは危険だと関羽や張飛は反対したが、劉備は何故かこの男に賭けて見ようという気になっていた。
「誰だ」
関羽が背後に目をやった。劉備もそれに続くと、そこには陳籍が立っていた。
黒ずくめの陳籍は闇と同化し、目だけが不気味に光っている。よく目を凝らすと、陳籍の背後には数十名ほどの無影が控えている姿も浮かび上がってきた。
「陳籍か?」
劉備が問うと、陳籍は顔が見える位置まで進み出た。
「はっ、これに」
「李豊は討てたのか?」
陳籍が、頭巾を取った。総白髪の髪と、顔の傷が露わになる。
「無論。李豊とその一族尽く討ち取りました」
陳籍が指を鳴らすと、無影の一人が首を持って進み出た。その皺首は、紛れもなく李豊のものである。
「見事だ、褒美を遣わす」
「それは、全てが片付いてからでお願いします」
「全て?」
「屋敷の周りに、周迅の旗を捨ててまいりました」
その意味を察した劉備は、堪え切れずに口元を緩めていた。冷笑。劉備はハッとして、それを手で隠す。
「さあ、劉備様。李豊の仇討ちを。領地問題のいざこざから李豊を殺した周迅を討つのです」
その時、劉備はこの男が欲しいと感じた。関羽は嫌うだろう。張飛もまた嫌うはずだ。だがこの男ならば、余人には明かせない心の暗さを満たしてくれる。
「張飛」
その名を呼ぶと、虎髭の若武者が進み出た。
「周迅を討て。そして蛇矛の穂先に首を下げて戻って来るのだ」
「大兄。それはあんまりじゃ」
話を聞いていた張飛が、あからさまに不満げな表情を見せた。張飛は感情の起伏が激しく、可愛らしいと思う反面で、謀略を嫌う性格に苛つきを覚える事もある。天下は綺麗事だけでは奪えぬ。若さ故か、張飛はその事を知らないのだ。
「張飛、命令だ。軍人は命令に従うものだ。いつも言っているはずだ」
そう言ったのは関羽だった。関羽は張飛に比べ、その辺りは割り切っている。だが、その気位の高さや物言いが鼻に突く事もあった。
「すまんな、張飛。だがこの命令はお前を見込んでの事だ。余人には任せられん」
劉備は床几から立ち上がると、張飛の肩に手を置き笑みを見せた。面倒だと感じたが、これで張飛がやる気を出すのだから安いものだ。
案の定、張飛は感激した表情を浮かべ、駆け去っていった。
「……さて」
張飛が去ったのを確認すると、劉備は陳籍を一瞥した。
「何でしょう?」
「この劉備の下に来ぬか? お主なら関羽、張飛に並ぶ将になるだろう」
陳籍は劉備に視線を向けたまま、表情すら変えない。
「不満か?」
「滅相も無い。私は劉備様に仕える為におるのです。しかしながら、私は将になる気が無いのです」
「何故だ。理由を聞かせてくれ」
「私はかつて漢に弓引いた賊将なのです。故に表に出る資格は無い。ですから、私は劉備様の影でありたいのです。無影と共に」
黄巾か、と劉備は思った。だがそれ以上の事は思わなかった。人生はままならぬもの。過去は誰にでもあるものだ。特にこの乱世であれば。
「影でいいのか?」
劉備は、陳籍の肩に手を置いて言った。
「官位も名声も欲しせぬ。我々は天下万民の為に働き、そして劉備様の記憶に残ればそれでいいのです」
「よかろう。そうした存在も必要だという事は、曹操を見ていて十二分に理解している」
曹操は、こうした影の組織を多く抱えている。組織同士を絶えず競わせ、より質の高い情報を得ているのだ。
「劉備様、ですが一つだけお願いがございます」
「何だ?」
「私の代わりに、我が息子を将としてお取立て願いたいのです」
「ほう」
陳籍の息子は齢十七ながら、剣に秀でた若者と聞いたことがある。
「許可する。暫くは関羽の傍に置くがよいな?」
「ええ。張飛様は兎も角、関羽様の下ならば依存は御座いません」
「歳の割に減らず口を叩く奴め」
「年々口が悪くなる一方でございます。のう、息子よ」
すると、幼さをまだ十分に残す青年が進み出た。
(似てないな)
と、劉備は思った。母似なのか。いや、年が離れている所を見ると、養子なのかもしれない。
「陳籍の息子か」
劉備は、青年に訊いた。
「はい。劉備様」
「名前は何と言うのだ?」
「陳到と申します」
陳到と名乗った少年は、清々しいほどの声で名乗った。若々しい活力を感じさせる。
「関羽に付き従え」
「わかりました」
関羽は美髯を撫でながら、頷いている。了解したという意味だろう。
「ありがとう御座います、関羽様。では、周迅の館に参りますので、私はこれで」
「待て、陳籍」
劉備は立ち去ろうとする陳籍を呼び止めると、全員をその場から下がらせた。
二人になった。遠くでは、李豊の屋敷が未だ燃え続いている。
「何か、お話が?」
「私は、家臣の過去を一々問わん。だが、知っておきたいとは思う」
「……」
「お前の本当の名は知りたい」
「私の」
「そうだ。名前を教えてくれ。その名は俺の胸の中だけに仕舞う。その上でお前の主でありたいのだ」
「判りました」
そう言うと、陳籍はおもむろに黄色い布を取り出して頭に巻いた。
「管亥。黄巾の将、管亥と申します」
その後、陳籍は劉備の影としてに仕え、夷陵の戦い直前に死んだ。しかし、その死に様は劉備しか知らなかったという。
勿論、蜀の歴史書には管亥、陳籍という名は見ること出来ない。だが息子の陳到は劉備が蜀の皇帝になると征西将軍、永安都督、亭侯に封じられた。正史・三国志の〔季漢輔臣賛〕に陳到は名将の一人として記され、正史の中では趙雲に次ぐ人物として高い評価を受けている。
<了>
歴史の一場面を切り取り、好きな武将を登場させてしまいました。
歴史ファンタジーとして御消化下さいませ。