07 老王の孤独と、沈みゆく太陽
背後にある第一王子の私室から、またしても不吉な音が響いた。
それは、大陸の向こう側から莫大な金貨を積んで取り寄せたはずの、繊細な意匠が施された陶器が、無残にも石床に叩きつけられ砕け散る音。持ち主の傲慢な怒りと、それ以上に救いようのない空虚さを象徴するような、鋭く、乾いた破壊音だった。
爺やは、その音に眉一つ動かすことなく、けれどその心中では一歩歩むごとに深くなる絶望を噛み締めながら、静かに廊下を進んでいた。目指すは王宮の最深部、この国の命運がすべて預けられた場所である、国王の執務室。
廊下の高い窓から差し込む朝の光は、どこまでも澄み渡り、穏やかな静寂を保っている。けれど、魔法師団長として長年マナの揺らぎを見つめてきた爺やの目に映る王都の風景は、昨日とは決定的に、そして致命的に違って見えていた。
大気に混じるマナの粒子が、まるで目に見えぬ針で刺されているかのように不自然に震え、悲鳴を上げている。この国を支える霊脈が、本来の循環を歪められ、何者かによって暴力的に抉り取られた後のような、ひどく寒々しい感覚。
(……あやつは、取り返しのつかないことをした。これを知れば、陛下はどれほど、その枯れかけた心を痛められるか。老いた父に、さらなる絶望を突きつけねばならぬわしの不甲斐なさよ……)
爺やは、重厚な黒檀の扉の前で一度立ち止まり、肺の奥に溜まった澱みを吐き出すように、深く、深く呼吸を整えた。
扉を厳重に守る近衛兵たちは、歴戦の魔法師団長である爺やの、死人のように青ざめた横顔にただならぬ事態を察し、問いかけることすら憚られるような緊張感の中、無言で左右へと道を開ける。
爺やは、震える拳を握り込んで短くノックをした。返事を待たず、なかば強引に室内へと足を踏み入れる。
そこには、朝の冷気を喉に流し込むようにして窓を大きく開け放ち、遠く王都の街並みを黙って眺める、一人の初老の男の背中があった。
「……爺やか。またあやつが、朝から不作法でも働いたか? それとも、私の耳に届かぬところで、また誰かの名誉を傷つけたか」
フィランテス国王は、振り返ることなく、掠れた、砂を噛むような声で問いかけた。
その背中は、かつて大陸全土に轟いた英雄的な威光をどこかに置き忘れてきたかのように小さく、今はただ、息子という名の止まらぬ災厄を抱えた、気苦労の絶えない一人の父親としての、痛々しいまでの寂しさを漂わせていた。
「……陛下。恐れながら、申し上げねばならぬことがございます。一刻の猶予もございませぬ。昨日、第一王子殿下は……国際的な禁忌とされ、厳重に封印されていたはずの『勇者召喚』を、わたくしの制止を振り切り、独断で強行いたしました」
その瞬間、王の背が、凍りついた岩のように強張った。
ゆっくりと、まるで油の切れた錆びついた歯車を無理やり回すような、ひどく重苦しい動作で、王が振り返る。その瞳には、かつての叡智の光は影を潜め、代わりに深い驚愕と、底知れない絶望が混濁した澱みとなって浮かんでいた。
「……召喚だと? 爺や、今、何と言った。わしの聞き間違いではないのだな。……『厄災の時期』でもない今、あやつは、勝手に異世界の門を……理の守りごと抉じ開けたというのか?」
「……左様でございます。それも、隣国との合意も、魔力均衡条約に基づく六カ国委員会の承認も得ぬまま。あろうことか、私宮の地下深く、隠された古の礼拝堂に不完全な魔導陣を組み上げ、半ば暴力的に……」
王は、まるで椅子を蹴り飛ばすような勢いで立ち上がり、重厚な執務机を、指の骨が折れんばかりの力で激しく叩きつけた。
「おのれ……! あの愚か者が! 召喚術というものが、どれほどの土地の寿命を削り、精霊たちの血を啜る術か知らぬわけではあるまいに! 厄災の年に、各国が血を吐くような議論の末に持ち回りで執り行うのは、たった一度の召喚で、この大地が蓄えてきた霊脈が数百年分も食いつぶされるからではないか!」
王の叫びは、激しい怒り以上に、深い震えを帯びていた。
勇者召喚は、滅びを回避するための究極の救済術であると同時に、土地を根こそぎ枯れさせる「死神の鎌」そのものだ。世界という巨大な水瓶に無理やり穴を開け、他者の庭から水を奪い去るような、傲慢極まりない禁忌なのだ。
「他国に知れれば、これは重大な『魔力盗用』と見なされる。条約違反による厳しい経済制裁、あるいは近隣諸国に開戦の正当な口実を与えたも同然だ……! あやつは、自分の国だけでなく、この世界の均衡まで踏みにじったというのか!」
「……陛下、事態は、外交問題だけでは済みませぬ。さらなる悲劇がございます」
爺やは、耐え難い苦渋を滲ませ、重苦しく首を振った。
「召喚陣から現れたのは、わずか十歳ほどに見える、幼い少女でございました。その身に宿した魔力の器こそ、確かに勇者に相応しい莫大なものでしたが……信じがたいことに、この世界のどの属性に対しても、適性を一切持たぬ『属性なし』。殿下はこれを、自らの失敗を認められぬまま『無能な失敗作』と断じられ……」
「……あやつは、その子をどうするつもりだ。その、無理やり連れてこられた無垢な命を、どう扱うつもりなのだ」
王の問いに、爺やはもはや言葉を繋ぐことができず、深々と、膝が震えるほどに頭を垂れた。
「自らの独断専行を隠蔽し、条約違反の証拠を抹消するため、今日中に少女を『処分』せよと、私に命じられました。……最初から儀式などなかったことに、少女など存在しなかったことにするために」
王は再び、糸の切れた操り人形のように力なく椅子へと沈み込んだ。その瞳からは先ほどの激しい怒りが潮が引くように消え去り、代わりに、これまで見たこともないような、底知れない、冷たく暗い悲しみが溢れ出していた。
「……無理やり世界を跨がせ、家族から引き剥がし、挙句に……自分の眼鏡に適わぬからと、ゴミのように消すだと……?」
王は震える両手で顔を覆い、深く、長く、絶望に満ちた呻きを漏らした。
その声は、かつて王冠を頂いた誇り高き覇王のものではなく、ただ自分の育て方を、自分の弱さを、そして自分たちが作り上げたこの世界の不条理を呪う、一人の老人の嘆きだった。
「儂は、王としても……一人の父としても……あまりに情けないわい。世界を救うべき光を、あやつはエゴを隠すための生贄に変えてしまうとは……」
朝の光は依然として明るく執務室を照らしているが、その光は、もはやこの部屋に座る二人の男の心を温めることはなかった。
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