06 卑俗なる狂気、偽りの死神
魔法師団の訓練所に、救いようのない澱んだ空気が満ちる数時間前のこと。
場所を同じ王宮内、過剰なまでの金銀細工と、目が眩むような極彩色の装飾が施された「第一王子の私室」へと移せば、そこには訓練所の倦怠とはまた質の違う、肌を刺すような鋭い緊張感が満ちていた。
高い窓から差し込む、夏の朝の柔らかな光。本来なら一日の始まりを祝福するはずのその輝きも、主の荒れ狂う心までは照らしてはくれない。むしろ、その明るさが、室内に散乱した贅沢品の数々を、持ち主の浅ましさを際立たせる小道具のように冷たく照らし出していた。
「くだらん! まったくもって、時間の無駄だ! あんな無能なガキ、一刻も早く処分すべきだと言っているんだ! おい、爺や! あいつは今どこにいる、答えろ!」
怒声と共に、大陸の向こう側から莫大な金貨を積んで取り寄せたはずの高価な白磁のティーカップが床に叩きつけられ、粉々に砕け散った。飛び散った紅茶の飛沫が、高級な絨毯に無残なシミを作っていく。
テーブルを拳が赤くなるほど激しく叩き、爪を噛みながら部屋を右往左往しているのは、第一王子。この国の次期後継者という自負だけは人一倍強いが、その実、そのプライドは薄氷よりも脆く、虚勢と傲慢さで塗り固めることでしか自分を保てない、歪な精神の持ち主だ。
王子の目は血走り、端正なはずの顔立ちは醜く歪んでいる。独断で行った召喚の儀式が「属性適性なしの失敗」だったと父王に、そして何より他国の耳に知れれば、自らの地位は一瞬にして崩れ去る。その底知れない恐怖が、彼を支離滅裂な怒りへと突き動かしていた。
「殿下、どうか落ち着いてくだされ。まだ無能と決まったわけではありますまい。異世界の魂がこの地の理に馴染むには、精霊の機嫌次第では相応の時間が……」
「黙れ! 昨夜のあの場で、魔法陣は一瞬たりとも輝かなかったのだぞ! どの色にも染まらぬ、空っぽの、虚無の器。そんなものは勇者でもなければ人間ですらない、ただの『産業廃棄物』ではないか!」
爺やは、朝から鼓膜を打つ王子の耳障りな怒声に、耳を塞ぎたい衝動を必死に抑え、内心で深い、深い、地の底まで届くような溜息をついた。
この王子は、魔法を「戦力」や「便利な道具」、あるいは自らの権威を飾る「宝石」としてしか見ていない。だからこそ、その本質にある神秘の重みや、喚び出された少女が、自分たちと同じ血の通った一人の人間であるという、あまりにも当たり前の事実にまで、決して思いが至らないのだ。
「……っ、親父に嗅ぎつけられる前に、あのガキをなんとかしないと。……そうだ! 良いことを思いついたぞ!」
不意に足を止め、顎に手をやり、ニタリと下品で卑俗な笑みを浮かべる王子。その表情を見た瞬間、爺やの背筋に嫌な汗がひと筋流れた。この男が浅知恵を絞り、満足げな顔をしている時に、まともな考えだった試しなど、これまでの人生で一度としてなかったからだ。
「何か、妙案でもございましたか?」
「あのガキを始末して、『最初からいなかったこと』にすればいいのだ! そもそも儀式自体、公式な記録は一切残していない。ガキ一人がこの世から消えたところで、誰が騒ぐというのだ? そうだ、死体を消せばすべては無かったことになる! そうすれば、もう一度『正式な勇者召喚』として国庫から予算を組ませ、次こそ本物の、光り輝く勇者を喚び出せばいいのだ!」
王子の口元に、残忍で、自らの保身だけを追求した醜悪な笑みが広がる。その瞳には、自分の玉座のためなら、見知らぬ異境の少女の命など、路傍の塵芥ほどにも価値がないという極寒の冷酷さが宿っていた。
爺やは一瞬だけ、その嫌悪を隠すように目を伏せ、それからゆっくりと顔を上げた。その瞳の奥には、王子への冷めた失望とは違う、静かで、燃えるような鋭い決意が宿っていた。
「……左様でございますな。殿下のご慧眼、恐れ入ります。……では殿下、その汚れ仕事、この老骨がすべて引き受けましょう」
爺やは、内心の激しい動揺と怒りを一切見せず、深く、深々と頭を垂れた。
「ほう、爺や。お前が自ら、手を汚すというのか?」
「はい。中途半端な部下に任せて、万が一にもあの娘に逃げ出されたり、あるいはつまらぬ温情をかけて口封じを誤ったりしては、殿下の高貴なお立場がございません。……この私が責任を持って、今日中に確実に『処分』し、魂も肉体もろとも、この世から消し去っておきましょう。死因は、召喚時の魔力酔いによる急激な衰弱死……ということで、わたくしが「処理」しておきます」
王子の口元が、ようやく満足げに、下卑た形へと歪んだ。
「くく……。やはりお前は頼りになるな、爺や。いいだろう、すべてを任せる。あんな無能なゴミ、一刻も早く、私の視界から、そしてこの城から跡形もなく消してしまえ」
「御意に……。では、ひとまずは監視の目が多い客室から、地下の独房へと移しておきます。上の部屋では人目が多すぎ、余計な噂を立てられかねませぬゆえ」
「好きにしろ。明日には、あの不快な記憶ごと消えていることを期待しているぞ」
こうして、爺やは王子から「少女処分の全権」をせしめた。
王子からすれば、それは邪魔な失敗作を消し去るための「死刑執行」の委任。
だが爺やからすれば、それはサラへ彼女を引き渡すための「時間と場所」を確保するための、自らの命をチップにした、薄氷を踏むような大博打であった。
王子の部屋を退出した爺やは、少女のいる客室へと向かうフリをして、密かに、けれど力強い足取りで、別の場所へと足を向けた。
――時は、サラが王宮に到着するまで、あと数時間。
運命の歯車が、ギチリと音を立てて噛み合い始めた。
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