04 老魔導士の叱咤と、禁忌の告白
「お前たち! 手を止めるではないと言っておる! 精神の集中が甘い! その程度の覚悟で、世界の理に触れられると思っておるのか!」
訓練所の重厚な鉄門をくぐり抜けた瞬間、私の鼓膜を激しく震わせたのは、地を這うような重低音を響かせる、苛烈な怒声だった。
声の主は、王宮魔法師団長――通称「爺や」。白髪混じりの見事な髭を蓄え、長い年月をかけて己のマナと馴染ませてきた、隅々まで手入れの行き届いた濃紺の魔道衣。その背筋をピンと伸ばした立ち姿は、この腐敗し、保身と虚栄にまみれた王宮の中で唯一、魔道士としての矜持と、魔法に対する真摯な畏怖を保ち続けている最後の防波堤のように見えた。
けれど、彼が喉を枯らして飛ばしている叱咤は、今の彼らにとってはただの「うるさい年寄りの説教」でしかない。彼の熱い言葉は、まるで乾いた砂漠に一滴の水を撒くように、意味を成さず、虚しく霧散していく。
「……何よ、あれ。魔法の練習? それとも、ただの焚き火ごっこ?」
私は足を止め、訓練台に向かって杖を構える若手魔導士たちの無様な手元を眺めて、思わず乾いた笑いを漏らした。
彼らが放とうとしている『火球』は、本来なら大気中に漂うマナを意志の力で激しく摩擦させ、精霊の呼びかけに応じた猛烈な熱量を一点に凝縮し、爆発させる高位の攻撃魔導だ。けれど、今、彼らの杖の先から立ち上っているのは、湿った落ち葉でも燃やしているかのような、黒ずんで弱々しい煙の揺らぎに過ぎない。
それは魔法じゃない。ただの、貴重なマナの浪費だわ。
己の回路を整えるという地道な基礎も、大地のマナとの対話という謙虚な姿勢も忘れ、ただ教科書に書かれた呪文を、中身のない言葉として口先だけで唱えている。
「やっほー、爺や。相変わらず熱心ねぇ。……もっとも、相手がそんな『やる気のない残り火』じゃあ、教える方もやり甲斐なんてあったもんじゃないでしょうけど」
私がひらひらと手を振って近づくと、爺やは眉間に深く、深く刻んでいた苦悶の皺を、吐息とともに僅かに緩めた。その瞳には、かつての威厳ある師団長の顔ではなく、出口のない迷宮で救いの糸を見つけた巡礼者のような、切実な光が宿っていた。
「……待っておりましたぞ、サラ殿。左様、今日は『卸し』の日。……丁度良いところに来てくださった。貴女の顔を見ると、ようやくまともな空気を吸えた心地がいたしますわい」
爺やの声は、周囲の若手たちにはただの事務的な挨拶に聞こえただろう。けれど、私には痛いほどに分かった。その声の端々が、今にも震え出しそうなほど限界まで張り詰め、悲鳴を上げていることが。
彼はすぐさま、出来の悪い教え子たちを振り返り、鞭を打つような鋭い声で告げた。
「お前たち、一度休止だ! 自分の回路の乱れを、今の醜い残り火を見て猛省するがいい! 魔法とは術者の魂を写す鏡。今の貴様らの魂は、泥水のように濁っておるわ! まったく……!」
爺やの叱咤が終わるか終わらないかのうちに、若手たちは待ってましたと言わんばかりに杖を下ろした。彼らは、山から下りてきたばかりの私の風体――汚れの目立つマントや、ポーションの匂いが染み付いた使い古した薬鞄を――ニヤニヤと蔑むような、特権階級特有の視線で眺め、肩をすくめて散っていく。
「誰だ、あの女。魔法師団長と知り合いか?」
「ああ、山奥でキノコでも売ってる怪しい薬売りだろう。あんなボロを着て、王宮の清浄な空気を汚すなよな。薬草の匂いがこっちまで漂ってきそうだ」
背後から漏れ聞こえる無礼な囁きを、私は完全に無視して受け流す。あんな、精霊の機嫌一つ取れず、自らの魔力の質すら把握できていない『素人』たちの言葉に、一々反応するだけ時間の無駄だ。
それよりも、目の前の爺やの方が、事態は遥かに深刻だった。
「なーんか、前よりさらに弱くなったんじゃない? 魔法師団。あの子たちの魔法、精霊への敬意がこれっぽっちも感じられないんだけど。これじゃあそのうち、火を点けるのにもマッチが必要になるわよ。……王宮に魔法使いはいなくなったの?」
「……仰る通り。王宮が『魔法』を、実利や利権、そして家柄を飾るための作法に変えてからというもの、真面目に真理を研鑽する者のほとんどは姿を消し、残ったのは王子の顔色を窺うことしか脳のない無能ばかり。……ですがサラ殿、今はそんな師団の衰退を嘆いている場合ではないのです」
爺やが周囲を一度、鋭い目つきで警戒し、私に一歩詰め寄った。その瞳の奥には、拭いきれない疲労と、心の深淵まで染み付いたような深い絶望が滲んでいる。
「お願い? ……なーんか、昨日から感じてた嫌な予感の正体、それっぽい気がするわね。……爺や、昨日そっちの方角から、得体の知れないマナの『歪み』を感じたわ。聖属性に近いけれど、何かを無理やり引き裂くような、ひどく暴力的な波長。……もしかして、当たった?」
爺やは重苦しく頷き、声を絞り出すように答えた。
「……左様でございます。昨日、あの第一王子殿下が、各国の合意も、霊脈の限界を定めた国際条約も無視し……自らの権威を示すためだけに、独断で『勇者召喚』を強行いたしました」
「……はぁ? 正気なの?」
私は思わず、手に持っていた薬鞄を地面に落としそうになった。
勇者召喚。お伽話の中では英雄の誕生を告げる輝かしい物語。けれど、現実を生きる魔導士の視点からすれば、それはこの大地の寿命を数百年分も前借りし、世界の理に巨大な風穴を穿つ、禁忌中の禁忌だ。あのアホ王子が、禁じられた古代魔法陣に勝手に手を出し、この国の肥沃な霊脈を焼き切るような真似をした……?
「……ええ。そして、その無理やりこじ開けられた不完全な門から現れたのは、わずか十歳ほどに見える、小さな少女でございました。その身に宿した魔力の器は、確かに莫大。ですが……信じがたいことに、この世界のどの属性に対しても、適性が一切『皆無』だったのです」
「……莫大な魔力があるのに、属性適性がゼロ? ……そんなこと、理論的にあり得るの?」
魔道士としての知的好奇心が、一瞬にして私の中の「面倒くさい」を塗り替えた。
属性とは、マナという無色の生エネルギーを、具体的な現象――火や水といった「色」に変えるための、世界が定めた『フィルター』だ。フィルターがなければ、どれほど膨大なマナを持っていても、それはただの物理的な『圧』でしかない。あるいは、形を成す前の、ただ眩しいだけの純粋な『光』。
この世界の既存の魔法体系から、完全に逸脱した存在。
「王子殿下は、その子を『勇者に相応しくない無能な失敗作』と断じられました。そして、自らが禁忌を犯したという国際的な大罪を揉み消すため……少女を今日中に亡き者にし、儀式そのものを最初から『無かったこと』にしようとしておられます」
「……なるほどね。呼び出すだけ呼び出しておいて、自分の思い通りにならないから、証拠隠滅のために消す……。反吐が出るわね、あの王子。魔法を何だと思ってるのよ」
私は、自分の中のマナが、抑えきれない怒りと、それを上回るほどの「未知」への興奮で逆立つのを感じた。
爺やは私の瞳を真っ直ぐに見据え、震える膝を支えるように、深く、深く頭を垂れた。
「サラ殿。厚顔無知を承知で、この老骨の最後のお願いとして申し上げます。……どうか、あの少女を救い出してはいただけませぬか。彼女の『属性ゼロ』という、この世の誰にも理解されぬ特異な存在を……この国は、あのアホ王子は、ただの『ゴミ』として捨てようとしているのです。彼女を、あの暗闇から攫い上げられるのは、もう貴女しかおらんのです……!」




