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ゼロ・グロウ ―煌めきの欠片―  作者: 星渡 星吾
1-1約束の足音、魔女は城へと向かう
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11 光を奪う階段、断腸の移送


国王の執務室を辞した爺やは、周囲の喧騒を避けるように、人気ひとけのない薄暗い裏廊下を静かに歩んでいた。


王宮の表舞台を飾る豪奢な赤絨毯。そのふかふかとした感触が足元から消え、靴底を通して石造りの無機質で冷たい感触が伝わり始めたとき、彼は自分が今、この国の「良心」から切り離されつつあることを実感していた。そこは、華やかな王宮の「影」が溜まる場所だ。窓から差し込む朝の光はどこまでも明るく、残酷なほどに平和な王都の風景を切り取っている。市場の活気、子供たちの笑い声、パンの焼ける匂い。それらすべてが、今の爺やにとっては別世界の出来事のように遠く、そして恨めしく感じられた。


これから、一人の無垢な少女を、日の当たらぬ地下へと連れて行かねばならない。


それが、狂気に憑かれた王子から彼女を救うための唯一の策であると、頭では理解している。理解しているがゆえに、その一歩一歩は、まるで自らの魂を泥濘ぬかるみに沈めていくかのように重く、鈍い。


(……サラ殿、すまぬ。わしが不甲斐ないばかりに、貴女に汚れ仕事を背負わせてしまう)


爺やは、山に住まうあの気高い魔女の姿を思い浮かべた。


彼女はいつだって、面倒なことに巻き込まれるのを嫌い、口を開けば毒を吐き、自分を「隠隠生活を送る冷徹な魔道士」のように装ってみせる。けれど、爺やは知っている。彼女のそのぶっきらぼうな態度の奥底には、誰よりも熱く、純粋な慈悲が灯っていることを。傷ついた者、理不尽に踏みにじられた者を見捨てることができず、最後には誰よりも鮮やかに、そして無骨に救い上げてみせる――あの風のような自由さと強さ。


腐り果て、虚栄心という名の泥にまみれたこの王宮において、彼女こそが、唯一の清浄な「光」そのものなのだ。だからこそ、自分の汚れきった手ではなく、彼女の温かい手に、あの少女の未来を託したかった。それが、老い先短い自分にできる、せめてもの贖罪だと信じて。


少女を案内した部屋――そこは、かつて異世界の勇者を迎えるために、国中の職人を集めて最高の贅を尽くして用意されたはずの客室だった。


天井で煌めくクリスタルのシャンデリア、触れるだけで指が沈み込むような絹のカーテン、そして異郷から来た少女が少しでも安らげるようにと飾られた、色鮮やかな季節の花々。だが今、その部屋を満たしているのは、装飾の華やかさとはあまりに不釣り合いな、押し潰されそうなほどの絶望と、耳が痛くなるような沈黙だった。


「……おはよう。ゆっくり、眠れたかの?」


爺やが極力穏やかな、祖父が孫に語りかけるような声を意識して扉を開けると、広大なシルクのベッドの端で、小刻みに震えながら丸まっていた少女が、ビクリと大きく肩を揺らした。


朝日に透けるような、儚く美しい銀色の髪がさらりとこぼれ、その隙間から覗く翡翠色の瞳が、森で迷った小動物のように不安げに揺れる。


「あ……。おはよう、ございます。……はい、眠れました」


嘘だ、と爺やは胸を強く締め付けられた。


枕元は不自然に湿り、長い睫毛に縁取られた彼女の瞳は、一晩中泣き明かしたのか痛々しく赤く腫れ上がっている。十歳そこらの、まだ親の温もりが必要な子供が、家族も友人もいない異世界に突然放り込まれ、罵倒され、命の危機に晒されているのだ。眠れるはずなどない。恐怖で一睡もできず、ただ闇の中で震えていたに違いないのだ。それでも彼女は、自分を気遣う老魔導士を安心させようと、健気な、あまりにも哀しい嘘をついている。


「……お部屋を移動することになってしまっての。次は……ここより少し、冷たい部屋になる。驚くかもしれぬが、わしを信じてついてきておくれ」


爺やは、できるだけ彼女を威圧せぬよう、ニーナの視線の高さに合わせて腰を落とし、慈しむように語りかけた。


「じゃがの、少し我慢しておれば、すぐに助けが来よう。……恐ろしいかもしれぬが、我慢、できるかの?」


少女は何が起きているのか、自分がなぜ異世界に呼ばれ、なぜ無能だと蔑まれるのか、その理由すら分からないまま、ただ爺やの瞳に宿る深い悲しみを見つめていた。彼女には、この老人が自分を傷つけようとしていないことだけは、本能的に理解できている。あるいは、この場所で唯一、自分に「温度」をくれた彼に縋るしか道がないことを悟っていたのかもしれない。


彼女は、乾いた唇を小さく震わせ、消え入るような、今にも霧に溶けてしまいそうな声で答えた。


「……はい。がんばります」


少女はベッドから降りると、爺やが差し出した節くれだった大きな手を、壊れ物を扱うようにそっと、けれど離さないように握り返した。その指先は、夏の朝だというのに、まるで雪の中で一晩中凍えていたかのように、痛いくらい冷え切っていた。


二人は、華やかな貴族たちの通り道を避け、使用人すら通らぬ裏の狭い回廊へと出た。


そこから地下牢へと続く階段は、一段降りるごとに背後の窓の光を奪い、代わりに湿り気と、古い石が放つ心まで凍てつかせるような冷気を含んでいく。


 カツン、カツン、と響く爺やの重い靴音。


それに対して、少女の足音はあまりに小さく、儚い。まるで自身の存在を消そうとする幽霊の歩みのようだった。階段が深くなるにつれ、大気に含まれるマナの残滓が、澱んだ泥のように重く、不快な匂いを帯びていくのを爺やは感じていた。


この下に待っているのは、かつての罪人たちが繋がれ、忘れ去られていった場所。光の一筋すら届かぬ、王宮の最果て。


そこへ、属性を持たぬというだけの、こんなにも無垢な少女を導く罪悪感に、爺やは奥歯が砕けんばかりに噛み締めた。


(耐えてくれ、お嬢ちゃん。もうすぐ、あの自由な風が吹く。貴女の運命を、この暗闇から攫い上げる魔法が、必ず届くからの……)


 ようやく辿り着いた、最下層の独房。


爺やは震える手で、重厚な鉄の鍵を回した。錆びついた扉が、まるで断末魔のような軋み声を上げて開き、少女を暗闇の中へと招き入れた。

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