10 魔女への託宣と、黄昏の決意
国王はそれ以上、何も言葉を発しなかった。
ただ、高く開かれた窓から無慈悲なほどに降り注ぐ、まばゆい朝の光を全身に受けながら、肺の奥に溜まった澱みをすべて吐き出すような、深く、重い溜息を一つだけ吐いた。そして、震える指先を隠すように机の上の山積みにされた書類へと視線を落とした。
それは、一国の主として「今この場で行われた密談は、最初からこの世に存在しなかったことにする」という、あまりに切なく、そして鉄のように固い無言の合図であった。王がペンを走らせるカリカリという乾いた音だけが、これからの欺瞞に満ちた日々を予告するように部屋に響いた。
「……では。万事、この老骨の命に代えても、お任せくだされ」
爺やは深々と頭を垂れ、かつての英雄であり、今はただ孤独に震える主君の背中に、最後の一礼を捧げた。
重厚な黒檀の扉を、音を立てぬよう細心の注意を払って静かに閉め、執務室の外へと出た瞬間――。
張り詰めていた緊張の糸が一気に緩み、爺やの老いた両肩に、目に見えぬほどの巨大な疲労が泥のようにのしかかった。心臓の鼓動が耳の奥で激しく打ち鳴らされ、膝がわずかに震える。だが、一秒たりとも足を止めることは許されない。これから、あの無垢な少女を最下層の独房へと移し、城内に「処分の噂」という名の猛毒を流し、そして何より――。
(……サラ殿を。あの自由な魔女を、説得せねばならん)
爺やは、誰もいない静まり返った回廊を一人、影を引いて足早に歩いた。
白亜の壁に刻まれた精緻な彫刻、神々の物語を写したレリーフたちが、今の彼の目には、死者を弔うための冷酷な墓碑銘のように見えていた。
この国を支える魔法師団長として、自分は長年、王宮という名の巨大で強固な「型」を守り続けてきた。伝統、作法、家柄、そして権威。それらを維持することこそが平和への道だと信じて疑わなかった。だが今、自分がやろうとしていることは、その一生をかけて守り抜いてきた「型」を、内側から粉々に破壊する反逆行為に他ならない。
(本来ならば、この先行き短い老い先短い身が、すべてを投げ打ってでも、盾となってあの娘を守るべきなのだが……)
自嘲気味に、爺やは小さく首を振った。
自分のような、王宮という名の澱に、長い年月をかけてどっぷりと染まりきった魔導士では、あの子の「真っ白で、無限の可能性を秘めた魔力」を正しく導くことはできない。あの子に必要なのは、既存の理や退屈な常識に縛られず、自由な風のように高く空を舞う、あの型破りな魔女の感性なのだ。濁った水では、純粋な光を写すことは叶わない。
(タイミングが良いのか悪いのか……。いや、これは、見捨てられたかに見えたあの娘に、精霊たちが与えた唯一の慈悲かもしれんな。……今日という日が、あの魔女が山を下りてくる約束の日であったとは)
爺やは、訓練所へと向かう、冷えた空気の漂う階段の途中でふと足を止めた。
胸元のポケットから、金装飾の剥げかけた、けれど長年肌身離さず丁寧に磨き続けられてきた懐中時計を取り出す。カチ、カチ、という規則正しい機械音。針はまもなく、中天に昇る太陽が放つちょうど中天に昇る太陽が放つ正午を指そうとしていた。
昼過ぎには、サラ殿がポーションを卸しにこの城にやってくるはずだ。
自分の作った薬のあまりの出来の良さに鼻を高くし、王宮からの相変わらずの無茶な注文に毒づき、不機嫌を隠そうともせずに。それでも、魔道士としての確かな実力と揺るぎない誇りを、泥のついた革靴に乗せて、堂々とこの城門をくぐるだろう。
「……サラ殿。貴女なら、あの子を……あの『無』という名の光を、どう見ますかな」
爺やは、誰に聞かせるでもなく、震える独り言をこぼした。
この国の叡智を集めた者たちが一様に「無能」と蔑み、属性を持たぬがゆえに、この世界の誰からも理解されないと断じられた、孤独な少女。
それを「最高に面白い素材じゃない!」と豪快に笑い飛ばして受け入れ、新しい居場所と、新しい定義を与えてくれるのは、この広い世界を見渡しても、あの偏屈で気高い彼女しかいないのだ。
爺やの枯れかけた瞳に、絶望ではない、ロウソクの灯火のような微かな希望の火が灯った。
彼は懐中時計をパチンと音を立ててしまい、再び、老いを感じさせない力強い足取りで歩き出す。
これから、冷たく豪華な客室で、次に開く扉が自分の死であると信じて震えている少女を迎えに行かなければならない。彼女を、さらなる暗闇と寒さが支配する、最下層の地下牢へと誘うために。
(もう少しだけ、あと数時間だけ辛抱してくれ、お嬢ちゃん。……夕刻、闇が降りる頃には、あのお節介で口の悪い最高の魔女が、必ずや貴女の絶望の扉を叩いてくれるはずじゃからな……)
――こうして、王宮の深い、深い闇の中で編み上げられた一本の細い「救出の糸」は、王都へと近づくサラの足元へと、運命の導きに従って静かに伸びていった。
物語の時計は再び、あの不快なマナが澱み、若手たちが無為に時間を浪費する、あの騒々しい午後の訓練所へと合流する。
サラが「やっほー、爺や。相変わらず熱心ねぇ」と、すべてを見透かしたような軽快な声をかける――。
その、運命の合流点まで、残された時間は、わずかであった。




