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誰だ? 迷子にさせないと誓ったのは。
……私だ。
誰だ? 迷子になったのは。
……アシェルだ。
胸の奥で、乾いた笑いがひとつ弾ける。いや、笑い事ではないのだが。目の前には作動後の罠が魔法の光を放っている。状況を整理しようと、数刻前を思い出す。
迷宮に入ってすぐ、私はランタンの灯りを少しだけ強めた。薄く湿った空気、ひんやりとした石の匂い。壁に走る青白い苔の光が、手元と歩ける範囲だけをぼんやり照らしてくれている。
「まずは地図の確認からね。……うん、前回と大きな変化はなさそう」
私はひとつ息をつき、腰につけた筒から地図を取り出してゆっくり広げた。曲がり角の位置、通路の幅、壁面の割れ方。迷宮は呼吸するように微妙に形を変えるから、前回の情報がそのまま使える保証はない。
迷宮第一層は、古代の遺跡を思わせる石造りの区画が続く階層だ。壁も床も天井も同じ灰色の石で組まれており、継ぎ目には苔のようなものがわずかにこびりついている。直線と曲がり角が単調に繰り返され、視界に映る景色が似通っているせいで方向感覚を狂わせやすい。罠は少なく、いずれも単純だが油断ならない。踏み板式の矢の罠、落とし戸――どれも初心者をふるい落とすには十分だ。ギルド側が「地図確認」という依頼を常設にしている理由もそこにある。
出現する魔物は主に獣系。牙の鋭い小型の「泥ねずみ」、大型犬ほどのサイズの群れで襲う「苔狼」など、初級冒険者でも対処できるが、数で押されれば危険な相手が多い。階層全体の広さは、徒歩で一周するには数時間はかかる規模だ。慣れていない者は簡単に同じ場所をぐるぐると回ってしまう。迷宮内は今日も細かな変化がいくつも見つかる。私はそれを一つ一つ書き込みながら歩く。罠はできる限り解除して進む。
そして横では、アシェルが淡々と魔獣を斬り伏せていた。牙を剥いた苔狼が飛びかかってきても、彼は足も止めない。ただ大剣を横になぞるように振り抜き、切られた魔獣が崩れ落ちるより早く、彼は前方を警戒している。
(やっぱり強い……)
巨大な大剣を扱っているのに、振り抜くたびに無駄が消えていくような洗練された動きだ。剣筋に迷いがなく、軌道が理にかなっている。何人もの魔物を相手にしてきた者の、それもかなり上位の手練の動き。
「……すごいね、アシェル。その大きさの剣なのに、全然ぶれないじゃない」
思わず感嘆が漏れた。褒める訳でもなく感想を言っただけのつもりだったが、アシェルは少しだけ瞬きをして短く答えた。
「そうか」
淡々としているが、嫌がっている様子はない。評価は素直に受け取るタイプらしい。アシェルは大剣を背へ収め、無言で歩き出した。私も後に続きながら、手元の地図を確認する。第一層のこの区画は右に曲がる通路の先に小部屋が一つある。
……そのはずだったのだが。
ドンッ
「……え?」
地図上では右折する場所で、アシェルは派手に壁へ体をぶつけていた。衝撃に微動だにしないあたり、頑丈さも規格外らしい。
「アシェル? 何を——」
「道があると思った」
指先で壁を軽く叩きながら、まるで当然のように言う。
「……地図では確かに道だけど、今は壁ね。迷宮の通路が変わったんだわ」
迷宮は周期的に構造を変える。第一層は小部屋の位置こそ変わらないが、そこに至る道に変化が起きやすい。これも地図作成が需要のある仕事であり続ける理由でもある。私は地図に赤線を引き、今の変化を記録した。
「じゃあ改めて新しく道ができているはず。反対側ね」
地図と周囲を照らし合わせ、壁の角度や通路の幅から新しい通路を予測していく。私が地図に書き込んでいる間に、アシェルが一歩を踏み出した。次の瞬間——嫌な予感が背筋を撫でる。アシェルの足が踏み出された先の床石が、ほんのわずかに淡い光を帯びた。
「アシェル、止まって!」
声より、罠の発動のほうが早かった。ぱん、と空気が弾けるような乾いた音。光がアシェルの足元から立ち上がり、彼の体を包み込んだ。霧に溶けるように、巨体は跡形もなく掻き消える。
「……やられた」
深く息を吐く。反射的に周囲を見渡したが、他の冒険者は一人もいない。
「アシェル! アシェル、聞こえる!? 返事して!」
通路に声が反響し、空気の中でほどけていった。応答はない。
——転送罠。落とし穴と並んで厄介な類いの罠だ。
味方を分断し、状況によってはそのまま孤立死を招く。中層に行けば嫌というほど出くわすが、低層での出現は珍しい。
落ち着け、メル。こういう時のために斥候職がいる。そう自分に言い聞かせながら、腰のポーチから道具を取り出し、罠のあった床を手早く調べる。床板を慎重に外すと、迷宮低層ではまずお目にかからない細工が顔を出した。薄く削られた木目の陰に、まるで住み着いていたかのように置かれた魔術符が一つ――その周囲を取り囲むように、小さな制御符が整然と並んでいる。
中央に刻まれた魔術符は、素人目にも転送式と分かる典型的な構造をしていた。線はただの装飾ではなく、微細な渦を描きながら中心へと収束し、空間そのものをひねる“導線”になっている、と知り合いの魔術師が得意げに説明していたのを思い出す。
目の前の魔術符は、淡い光をまといながら静かに鼓動していた。これは魔力が再び満ちようとしている証拠――すなわち、転送罠は“再起動中”という状態にある。完全に充填されるまでは発動しないはずだ。少なくとも、こちらが近づいた程度では反応する見込みはない。しばらくの間は安全と言っていいだろう。
符の終端には、小さく精密な転送先指定の符号が刻み込まれている。そこから読み解けたのは、“出口のある空洞”への転送という情報だった。胸の奥でひそかに息をつく。少なくとも、転送された者が壁や床の中に埋まる――そんな最悪の事態だけは回避されているらしい。『かべのなかにいる』だなんて冗談じゃない。
本来であれば、専用の解除器具を使って罠そのものを安全に無効化するところだ。だが残念ながら、今日はあいにく手ぶらだ。素手で触れれば、魔力の刺激で再起動を早める可能性すらある。触らないほうが、まだ安全だ。
――今は手を出すな。読み解け。
罠はそう告げているようにも思える。ならば従うまでだ。
まずは情報を全部引き出す。対処はそれからでも遅くない。




