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《澄炎亭》は、『銀霞の暁鐘』ギルド宿舎のすぐ横に寄り添うように建つ、小さな酒場兼食堂だ。石造りの外壁には暖色のランタンが吊り下げられ、朝の薄い光でもやわらかく灯っている。扉を押すと、木材と燻製の香りが混じり合った、落ち着く匂いが鼻をくすぐった。
昼や夜の喧噪が嘘のように人影はまばらで、まだ空席が目立つ。だがその分、厨房から漂う朝食の香りがはっきりと感じられた。温かいスープの湯気、焼き立てのパン、そして鉄板で温められる肉の匂い。ギルド員は割引価格で食事ができるため、私もよく利用している。特にロワルダン特産の石切りチーズを使った燻製盛り合わせは絶品だ。外は香ばしく硬く、中はほろりと柔らかく、温かいスープとの相性が抜群で、仕事帰りに立ち寄ってつい注文してしまう。
店内には小さな丸テーブルやカウンター席が並び、普段は冒険者たちが任務前の腹ごしらえや打ち合わせに使っている。壁際の棚には、地図や古びたコンパス、簡易ランタンや筆記帳など、冒険者向けの道具が無造作に置かれており、必要な者が自由に手に取ってよいことになっている。斥候職の多い《銀霞の暁鐘》らしく、出発前に地図を広げてルートを最終確認する者の姿もよく見かける場所だ。今朝はそんな姿もほとんどなく、ぱらぱらと茶を啜る冒険者が数名いる程度。静けさの中で、鍋をかき混ぜる店主の音だけが一定のリズムを刻んでいる。
金属同士が擦れ合う、乾いたながらも重みを含んだ音が、静かな《澄炎亭》の空気をかすかに震わせた。思わずそちらへ視線を向けると、大柄な大剣使いがひとり、窓際の席で黙々と荷物を整理している。
真っ先に目に入ったのは、壁に立てかけられた大剣だ。彼の背丈に合わせて作られたのだろう、常人が扱えば確実に体の軸を壊されるであろうほどの巨大さだ。刃は包まれているにもかかわらず、そこだけ空気の密度が違う気がした。剣があるというだけで場が静まる——そんな武器は、そう多くない。魔法がかけられているか、名のある業物なのだろう。
そして、その持ち主。
灰色の髪は艶がなく、無造作に切られた前髪がそのまま目元へ落ちている。表情は読みづらい。怒っているのか、退屈しているのか。感情というものを必要としていないかのような無機質さがある。体躯は立派と言うより、頑丈さをそのまま形にしたようだ。肩まわりの厚みは中装鎧の上からでも輪郭を主張しているし、胸当てや籠手に走る細かな擦り傷は、ただの訓練ではつかない種類のものだ。革と金属を組み合わせた装備は長く使われてきたのだろう、磨耗した縁が幾度となく実戦をくぐり抜けてきた証になっている。
間違いない。こいつが例の新人だ。私は一度、胸の奥で呼吸を整えてから声をかける。
「こんにちは。カスティオから話は聞いてる? 今日から一緒に――」
言葉の終わりが口からこぼれ落ちるより早く、大剣使いはちら、と静かに視線だけを動かした。青みがかった鉄色の目が現れる。ほんの数秒の眼差しで、背筋を細い刃でなぞられたような感覚が走る。敵意ではないことはわかる。こちらが何者なのかを判断しようとしているのだろう。
「アシェルだ」
必要最低限の自己紹介だ。その声音は低く乾いていて、嫌味や攻撃性は感じられない。もちろん、情緒の影も。必要な情報だけを淡々と、ただ事実を告げている。
「……今日から一緒に仕事をやらせてもらう、メルよ。よろしくね」
「よろしく」
即答。間がない。こちらの顔を長く見るでもなく、かといってそっぽを向くわけでもなく、返事をするという行為を遂行しただけなのだろう。確かにカスティオが言っていた「無愛想」という言葉は嘘ではなさそうだ。そう思う一方で、「悪い奴じゃない」という評価も同時に嘘ではないのだろうと感じられた。
言葉に棘はないし、こちらを値踏みするような嫌らしい視線もない。ただ自分の殻の中で静かに呼吸しているだけ、とでも言えばいいのだろうか。とりあえず、会話の糸口を地道に探すしかなさそうだ。
「カスティオからはどこまで話を聞いてるの?」
アシェルはほんのわずかに首を傾けた。考える仕草だが、動きがゆっくりで妙に気配が静かだ。
「何も聞いていない」
食い気味でもなく、焦りもない。またもや事実をそのまま置いていくような声音だ。
「何も? ええと……彼と最後に話した内容は?」
「今朝いきなり宿舎までやってきて、この待ち合わせの場所だけ伝えられた」
嘘ではない。迷いの欠片もない声で断言される——ということは、カスティオは本当に“場所だけ”しか伝えていない。
「……ほんとに、それだけ?」
「そうだ」
短く、しかし確実に頷く。その瞬間、私は小さく息を吐いた。肩から力が抜けるというより、半ば諦めのような、呆れのようなため息だった。カスティオの雑さには慣れているつもりだったが、今日のは上位に入る。よりによって、最初の顔合わせでこれとは。とはいえ、嘆いていても意味はない。カスティオも急ぎの案件が飛び込んだと言っていたし、信頼できる相手ーーつまり私に後を任せることにしたのだろう。そう思う事にする。そうに違いない。後でこのツケは絶対に払わせる。気を取り直し、まずは新人――アシェルへ仕事の説明をする。
「今日はまず、簡単な仕事から始めるよ。ダンジョン一層目の地図確認ね」
そう告げると、アシェルは無表情のまま、わずかに顎を引いて「分かった」という意思だけを示した。
「ダンジョンは一定期間ごとに構造が変わるでしょう? だから進行ルートを定期的に確認して、新しい地図を作り直す必要があるの。作った地図はギルドで売って、収入にする。他のギルドも同じよ」
一層目は探索者にとって入口のようなものだが、油断はできない。迷宮は定期的に構造が変化し、進行ルートがずれたり、行き止まりができたりする。そのため、地図の更新は重要な仕事だ。斥候職の少ないギルドに売ることができるため、『銀霞の暁鐘』の収入源にもなる。
「……まあ、中層以上の地図はどのギルドも秘匿するけど、低層のものは共有されることが多いわね。新人をむざむざ死なせるほど、皆ひねくれてはいないから。よほどの事情がない限りは」
その説明に、アシェルは淡々と耳を傾けていた。彼は静かに聞いているだけで、余計な口を挟む気配はないようだ。
「地図作成は私が担当。あなたには護衛をお願いする形になる。だから、基本的に現場での最終判断は私が下すことになるけど……それで問題ない?」
確認のために問いかけると、アシェルは瞬きひとつ分の間を置いてから、静かに返した。
「構わない。決定権は、そちらにある」
その声音に迷いはなく、どこか当然という響きすらあった。いい返事だ。どれだけ強かろうと、新人である以上はギルドの流儀に従う。王都で称号持ちだったという噂が本当かどうかは分からないが、それを盾にするような男ではないらしい。大抵の冒険者は、自分より小柄な女がこんなことを言えば、形だけでも反発してくる。特に大剣使いのようなタイプならなおさらだ。
——もっとも、迷宮に入り戦闘になれば、どう変わるかはわからない。
本当ならもう一人、信頼できる仲間を連れていきたいところだ。だが、今からギルドに戻って人を探したところで期待はできない。かといって、他ギルドに助力を求めるほどの案件でもない。仕方がない、今日は二人で行くしかない。
「ありがとう。じゃあ、準備ができたら出発しましょう。……と言っても、私は予備の紙を用意すれば終わりだけど」
「俺の装備は整っている」
アシェルは椅子から静かに立ち上がった。
「……じゃあ、行きましょうか」
私は歩き出しながら、そっと横目で彼を確認した。そう、確認したはずなのに。宿舎を出て十分ほど歩いたところで、気付いた。隣にいたはずのアシェルの姿がない。
「……え?」
思わず立ち止まって周囲を見渡す。振り返ってもいない。前にもいない。さっきまで確かに隣にいたはずなのに、影も形もない。
どこかの横道へ吸い込まれたとしか思えなかった。
ロワルダンは山間に築かれた城塞都市だ。外周は岩壁と防壁に囲まれており、中心には神殿と大通りがある。そこから各区域へ道が伸びており、初めて来た者でも迷う事は少ない。しかし、一歩横道へ入れば事情が変わる。山肌の地形に沿って作られたせいで、路地裏はやたらと曲がりくねり、時には段差や行き止まりが急に現れたりもする。地元の人間ですら、慣れない区画に行けば迷うほどだ。まだこの街に来て日が浅いアシェルが迷っても、まあ……不思議ではない。
不思議ではないが――早い。早すぎる。
「……一刻も経たないうちに迷子って、どんな速度なのよ」
仕方ない、とため息をひとつつき、私は大通りを逆走した。足を速めつつ、歩く人々の頭越しに周囲を探す。ほどなくして、巨大な剣が道の端でぽつねんと立っているのが目に入った。いや、剣が立っているわけではない。剣を背負った大男が、まるで置き忘れられた荷物のように途方に暮れて固まっているのだ。
「……アシェル?」
声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。大柄な体がもぞりと動くたび、背中の大剣が金属的な重みを主張する。
「道が分からなくなった」
相変わらずの簡潔な報告。悪気も焦りもない。もう少し焦ってほしい。いや、焦って下手に動かれると困るから彼の行動は正しいのだが。
「どこで道が分からなくなった事に気づいたの?」
「角を曲がったら」
「……曲がる場所なんて無いのだけど」
思わず素で返してしまった。だって本当に、一本道なのだ。大通りを真っ直ぐ進むだけ。それなのに迷うなんて。一番おかしいのは嘘をついているようには見えないところだ。誤魔化しているわけでもない。
私は額に手を当て、深いため息を落とした。
「……アシェル、とにかく。私から離れないように、いい?」
「分かった」
答えるのだけは早い。素直なのは救いだ。念のため顔を覗き込むと、彼の口の端から、ふわりと白い息のようなものが零れた。きらめきを帯びたそれは、一瞬で空気へと溶けて消える。まだ冬には早いはずなのに――見間違いだろうか。
気を取り直し、迷宮へ向けて再び歩き出す。今度こそ、彼がふらりと別方向へ吸い寄せられないよう、私は歩幅を調整しながら、ときおり横目でアシェルの位置を確認した。こちらが注意を怠れば、一瞬で見失いそうなのだ。道中、まずは彼の戦力と状況を把握しておきたくて、いくつか簡単な質問を投げる。
「カスティオからはどこまで説明を受けてる? ロワルダンの仕組みとか、迷宮の規定とか」
「ほとんど聞いていない」
ですよね、知ってた。内心で額を押さえる。
「じゃあロワルダンについて知ってることは?」
「山にある街。壁が高い。思っていたより人が多い」
返ってきたのは、旅の途中で誰でも気づきそうな事実だけだった。
「ロワルダンの迷宮にはどこまで潜ったことがあるの?」
「二層までだ」
二層、か。新人としてはまずまずだ。
「迷宮外の依頼を受けたことは?」
「ロワルダンでは、まだ受けた事は無い。王都では護衛と討伐依頼によく参加していた」
必要最低限ながら、答えはしっかりしている。カスティオの言う通り悪い奴ではない。ただし手がかかるのは間違いなさそうだ。そんなやり取りをしているうちに、迷宮の入口が見えてきた。
今度こそ、迷子にさせはしない。




