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彼らは嘘を言っている。だが、どこが嘘なのかまでは掴めない。
「危ない魔獣」という言葉そのものか。それとも「もう何年も」という時間か。あるいは、その両方か。いずれにせよ、判断するには材料が足りなかった。
見過ごすこともできなくはない。だが、その選択の先に何が待っているかをメルは嫌というほど見てきた。
被害が出てからでは遅い。畑が荒らされ、家畜が襲われ、人が怪我をしてから動いても、取り戻せないものは決して戻らない。異変には必ず前触れがあり、それを見逃した結果だけが、あとになって「仕方なかった」と語られるのだ。
兆しがあるなら、潰しておくべきだ。それができる立場にいるなら、なおさら。
彼らは良い依頼人だ。読み書きができ、話が早く、こちらの仕事を正当に評価してくれる。これからも長く付き合っていきたい相手だし、できれば穏やかな日常を守ってやりたいとも思う。
それに――気づいていながら目を逸らし、万が一のことが起きたとしたら。
そんなのは、寝覚めが悪すぎるだろう。
自然な笑みを崩さぬまま、メルは声の調子をほんの少しだけ柔らかくしようと努めた。
「何年も、ですか。どれくらい前の話ですか?」
二人は一瞬だけ顔を見合わせた。視線がかすかに揺れ、言葉を探す沈黙が落ちる。
先に口を開いたのはマーサだった。遠慮がちに、探るような声で説明する。
「ええと……そうだねぇ……全然ってわけじゃ、ないんだよ。ここ最近、ほんの数日ほどだけどね」
その言葉を受けて、ハルドが困ったように頬をかいた。
「夜になると、畑のあたりで低い唸り声がしてな。土を掻くみてぇな音もするんだ」
視線を遠くへやり、思い出すように続ける。
「見に行くと、黒い影みたいな四つ足が、畑の端をうろついててよ。追い払えば逃げていく。今のところ、被害はねぇ」
そう言って、言葉を切る。
夫婦はそろって視線を落とした。
――被害はない。
そう口にしながら、表情には拭いきれない不安が影を落としている。
「あんたたちも来たばかりだし、余計な苦労を背負わせるのも悪いと思って……」
マーサが、ぽつりと付け足した。
嘘ではない。少なくとも、語られた出来事そのものは、きっと事実だ。
老夫婦の言葉どおりなら、現時点で大きな被害は出ていない。魔獣が姿を見せても、追い払えば引いていく程度――そう聞けば、これ以上首を突っ込まないという選択も、十分に現実的だ。
それでも胸の奥に残る、引っかかるような感覚は消えなかった。彼らが伏せているのは、これだけではない。理由は、きっと他にもある。
メルは一度、深く息を吸った。慰めの言葉を探すより、今は事実の確認だ。感情を挟めば判断が鈍る。そう分かっているからこそ、切り替えなければ。
湯呑みを卓上に静かに置き、少しだけ身を乗り出す。声量は抑えたまま、問いを鋭くする。
「まず、大きさを教えてください。犬くらいですか? それとも羊……いえ、馬ほどありました?」
夫婦が顔を見合わせる。その一拍のためらいを逃さず、メルは間を詰める。
「輪郭は見えましたか。耳の形、尾の長さは」
「鳴き声は聞こえました? それとも、普段はしない物音――金属が擦れる音とか、土以外を踏む音は?」
「動き方はどうでした。歩くように? それとも、腹を擦るように――」
質問が重なるにつれ空気が張りつめていき、マーサの肩がほんの少し強張る。その変化に気づいたのか、ハルドが何も言わずに身を寄せ、マーサの手に自分の指を重ねた。
そのとき、隣で黙っていたアシェルが、ぽつりと口を開いた。
「……茶を、もう一杯もらえるか」
低く、穏やかな声だった。




