追放悪女(年収5億)の優雅なる辺境ライフと、今さら土下座しに来た元婚約者の正しい使い方
極北の都市「ポテトポリス」の空気は、キンと冷えていながらも、どこか香ばしい匂いがした。執務室の巨大な窓から見下ろす街は、まるで宝石箱のように煌めき、活気に満ち溢れている。その都市の主であるレオノーラ・フォン・ヴェルフェン公爵令嬢――今はただのレオノーラだが――は、執務など知ったことかと言わんばかりに、巨大なフクロウの羽毛クッションにその身を埋めていた。
「んー……ギルベルト、このコンソメ味、ちょっと改良した?後を引くわね……」
彼女の白魚のような指が、カサリと音を立てて袋の中から黄金色の薄片をつまみ出す。執事であり、公私にわたるパートナーであり、そしてこのレインボーポテトチップスの開発責任者でもあるギルベルトは、書類の山から顔を上げ、眉間に刻まれた皺をさらに深くした。
「レオノーラ様、それは本日午後に発売予定の試作品でございます。少なくとも原価計算の書類に判を押してから召し上がっていただきたかったのですが」
「あら、美味しいものに順番なんてないわよ」
けろりと言いのけるレオノーラに、ギルベルトはため息をついて胃薬代わりのハーブティーを口に含んだ。その時だった。執務室の重厚な扉が、慌ただしくノックされたのは。
「失礼いたします!レオノーラ様、緊急の来客が……!」
息を切らせて入ってきた秘書の顔は青ざめていた。彼の視線の先には、みすぼらしいマントを羽織った男が立っていた。男はフードをゆっくりと外し、現れた顔にレオノーラはわずかに目を細めた。五年の歳月は、かつての輝くばかりの美貌をすっかりと削り取ってしまったらしい。
「レオノーラ……嬢」
か細い声でそう呼んだのは、彼女の元婚約者、セドリック・フォン・アルマーク王子その人だった。
彼はよろよろと数歩進むと、レオノーラの足元に崩れ落ち、その場でいきなり額を床に擦り付けた。完璧なまでの土下座だった。
「どうか……どうか、王国に資金援助を……!このままでは、国が……!」
嗚咽にまみれた懇願が、静かな執務室に響き渡る。レオノーラはもはや芸術的ともいえるその土下座を一瞥すると、手元のポテチの袋をカサリと鳴らし、セドリックに差し出した。
「食べる?結構いけるわよ、これ」
王子は絶望に顔を歪めた。その肩がわなわなと震える中、レオノーラの背後から氷のように冷たい声が響いた。
「お待ちください、王子。貴方と我々の間には、まず清算すべき過去の問題がございます」
ギルベルトは音もなく王子の隣に立つと、ドンッ、と床に分厚いファイルの束を叩きつけた。表紙にはこう記されている。
『公式議事録:セドリック王子によるレオノーラ嬢断罪に関する調査報告書』
「さあ、王子。五年前のあの素晴らしい茶番劇について、少しばかりおさらいをいたしましょうか」
ギルベルトの眼鏡が、キラリと鋭い光を放った。
*
「第一に、レオノーラ様が聖女イザベラ嬢をいじめていたとされる数々の嫌がらせについてですが」
ギルベルトはファイルをめくりながら、淡々と語り始めた。セドリックは土下座の姿勢のまま、ただ床を見つめている。
「世間では、レオノーラ様が嫉妬心から聖女様のドレスを切り裂き、お茶会で毒を盛ろうとした、というのが定説でございましたね。しかし、ここにあります会計記録をご覧ください」
彼が突き付けた羊皮紙には、びっしりと細かい数字が並んでいた。
「レオノーラ様が『浪費』したとされるドレスや宝飾品の購入費は、その全額が匿名で王都の下水道整備事業、ならびに西部地域の干ばつ対策用水路の建設資金として寄付されております。当時の工事記録にも『謎の篤志家より』と記されておりますな」
「そん……な」
「お茶会での毒殺未遂事件。これも奇妙な話です。レオノーラ様が盛ろうとしたとされる『毒』ですが、後の調査で、あれは西方の珍しい薬草『ルナティアの花』の粉末であったことが判明しております。ごく少量であれば安眠効果がありますが、多量に摂取すると激しい腹痛を引き起こす。しかし、致死性はない。聖女イザベラ様は、あの花の『見た目が綺麗だから』という理由だけで、国王陛下に献上しようとしておいででした。その薬理効果も知らずに。レオノーラ様はそれを阻止するため、あえてご自身が悪役となり、あの騒動を起こされたのです」
セドリックは信じられないというように顔を上げた。あの時、純真無垢な聖女を庇い、邪悪な婚約者を断罪した自分は、正義の執行者ではなかったというのか。
「彼女は……なぜ、そんなことを」
「簡単なことですわ」
不意に、クッションの山から気だるげな声がした。レオノーラがゆっくりと身体を起こし、セドリックを見下ろす。
「だって、面倒くさかったんですもの。いちいち『王子、聖女様の教育がなっておりませんわ』なんて進言して、あなた方の石頭を説得する時間があるなら、下水道の設計図の一つでも描いたほうがよっぽど国のためになるでしょう?」
悪びれもせず言い放つレオノーラに、セドリックは言葉を失う。彼女はただ、王子妃教育という名の退屈な義務をサボりつつ、国が抱える現実的な問題を解決するために、自ら汚名を被っていただけだったのだ。
「そして迎えた、あの運命の断罪の日」
ギルベルトは冷ややかに続けた。
「王子、貴方が高らかに私の追放を宣言した時、どう思ったか覚えてらっしゃいますか?」
レオノーラが問いかける。セドリックの脳裏に、あの日の光景が蘇った。何を言われても「はいはい」と気のない返事を繰り返し、少しも動揺を見せない婚約者の姿に、彼は苛立ちを覚えていた。
「お前は……少しも反省していなかった……!」
「当たり前でしょう。むしろ、感謝していたくらいよ」
レオノーラはくすりと笑った。
「貴方が『お前を北の辺境に追放する!』と言ってくださった時、わたくし、感動で打ち震えましたもの。『え、本当ですか!?あそこ、温泉が出るって噂の!ありがとうございます!』ってね」
セドリックの記憶が、パズルのピースのようにカチリとはまった。そうだ。あの時、彼女は満面の笑みで、深々と礼をしたのだ。あの笑顔の意味が、五年経った今、ようやく理解できた。
「当時の王国は、貴方と貴方の取り巻きのおかげで、破綻寸前でしたわ。わたくし一人で小手先の修繕をしても、いずれ沈むことは目に見えていた。ならばいっそ、一度船から降りて、外から新しい船を造ったほうが早いと思ったの。あなたとの婚約破棄は、そのための最高の『退職金』でしたわ。自由という名のね」
彼女にとって、あの断罪劇は屈辱などではなく、巧妙に仕組んだ「自主退職」の最終ステップに過ぎなかったのだ。
*
ギルベルトの語りは、レオノーラの辺境での生活へと移っていった。
「追放先の村は、それはそれはひどい場所でございました。冬は雪に閉ざされ、夏は痩せた土地で作物が育たない。人々は絶望し、希望を失っていました」
「だが、レオノーラ様は違いました。彼女は到着するなり村長にこう宣言したのです。『温泉リゾートを開発し、ここを世界一の観光地にする』と」
もちろん、誰もが正気を疑った。だが、レオノーラは行動で示した。彼女が王都から密かに持ち出していた地質学の知識と、驚くべき量の私財を投じ、本当に温泉を掘り当ててしまったのだ。
「問題は、資金管理でした。レオノーラ様の計画は壮大でしたが、経理の知識は壊滅的でして。そこで出会ったのが、私というわけです」
ギルベルトはそこで言葉を切り、少し遠い目をした。
「当時、私は会計士としての才能を悪用し、詐欺罪で投獄されておりました。ええ、脱獄したばかりの、ただの逃亡犯でしたな」
「そんな私に、レオノーラ様はこうおっしゃった。『あなたの才能、腐らせるのは惜しいわ。私の会社のCFOになりなさい。前科は不問、ストックオプションも付ける』と」
こうして、破天荒なビジョンを持つCEOと、現実的な資金管理を行うCFOという、奇妙だが最強のビジネスパートナーが誕生した。ギルベルトの緻密な事業計画のもと、温泉旅館が建ち、寂れた村は湯治客で賑わうようになった。
「そして、決定打となったのが、この『レインボーポテト』です」
ギルベルトが指さしたのは、執務室の隅に飾られた、七色に輝く奇妙な芋の標本だった。
「この極寒の土地でも育つ奇跡の作物。最初は誰も見向きもしませんでしたが、レオノーラ様はこれを加工食品にすることを思いつかれた。チップス、フライ、コロッケ……そして、ポテトポリスは世界有数の食品加工都市として生まれ変わったのです」
その間、王国はどうだったか。
レオノーラという陰の財政支援者を失った王国は、坂を転がるように傾いていった。度重なる干ばつと、老朽化したインフラの崩壊。民の不満は募り、セドリックの求心力は地に落ちた。
皮肉なことに、王子の行った「正義の断罪」が、結果的に彼自身の首を絞め、追放したはずの悪女の名声を不動のものとしたのだ。
「……もう、やめてくれ」
セドリックは力なく呟いた。すべての話を聞き終えた今、彼を支えていた最後のプライドも、完全に砕け散っていた。自分は正義のヒーローでも、悲劇の王子でもなかった。ただ、巨大な手のひらの上で踊らされていた、滑稽な道化に過ぎなかったのだ。
*
長い沈黙が、執務室を支配していた。
やがて、レオノーラはクッションの山から優雅に立ち上がると、窓辺に歩み寄った。
「援助の件、考えてあげてもよくてよ」
その声は、まるで退屈な午後の気まぐれのように、ひどく軽やかだった。
「ほ、本当か!」
セドリックは、暗闇の中に差し込んだ一筋の光に、思わず顔を上げた。
レオノーラはゆっくりと振り返り、その唇に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ただし、条件があるわ」
彼女は一本ずつ、指を折りながら宣言した。
「一つ、我が社の看板商品『レインボーポテトチップス』の公式アンバサダーに、あなたが就任すること」
「……あ、あんばさだー?」
「そう。明日から王都の広場で、このポテトの被り物をして、新発売の『わさび醤油味』を大声で宣伝してもらうわ。もちろん、笑顔でね」
秘書がどこからか、巨大でリアルなポテトの被り物を持ってきた。
「二つ、私とギルベルトの結婚式が来月あるのだけれど、その余興で、あなたが渾身の一発芸を披露すること。スベったらわかるでしょうね?」
「……はい」
王子の顔から、血の気が完全に引いている。
「そして、最後。この執務室、最近ちょっと掃除が行き届いていないのよね。見て、隅にホコリが溜まっているわ。だから、明日から一週間、あなたが毎日ここをピカピカに磨きなさい。もちろん、無給でね」
「レオノーラ様、それはもはや資金援助の条件ではなく、ただの嫌がらせでは……」
ついに耐えきれなくなったギルベルトが、胃を押さえながら口を挟んだ。
レオノーラは涼しい顔で言い返す。
「あら、違うわよ、ギルベルト。これは、破綻国家の元王子に『労働の尊さ』を身をもって教えてあげる、貴重な社会貢献活動じゃない。そうでしょ?」
彼女はセドリックに向け、天使のように微笑んだ。
その笑顔は、かつて彼が愛した聖女のそれよりも、ずっと純粋で、そして何倍も恐ろしかった。
物語の終わり。
極北の都市ポテトポリスでは、しんしんと雪が降り積もる中、哀れな元王子が雑巾を片手に、半泣きで執務室の床を磨いていた。
その室内では、都市の主であるレオノーラが、有能すぎる執事の膝を枕にうたた寝をしていた。
「ああ、やっと静かになったわね。疲れたから、もう少しこのままでいさせてちょうだい」
「……御意に」
まんざらでもない顔で応じるギルベルトの指が、彼女の髪を優しく梳く。
彼らの騒がしくも面白い日常は、哀れな元婚約者を新たな従業員(という名の雑用係)として迎え、これからもまだ、続いていくのだった。