9.睡蓮(2)
兄の瞳には、村の暮らしへの憧れが強く宿っているように見えた。山の木々を映しながらも、その奥底には、遠い村の暮らしを追い求める切望が揺れていた。
けれど、妹の方は違った。
赤子だったその子は、山で育ったようなもの。私の腕を母のように掴み、懐いて離れなかった。やがて、ふらついていた足取りはしっかりと地を踏みしめ。小さな口から幼い声がこぼれるようになった。
いつからか、私のことは「山神さま」でもなく、「ねえね」と呼ぶようになった。
夜、眠る前には必ず私の手を探し、小さな手のひらを重ねて安心したように目を閉じる。幼いころは私の後ろをついてくるばかりだった姿も、今では私の隣を歩き、時には山道を先に駆けていく。木の実の名前を覚え、鳥たちに声をかけ、木漏れ日の下で無邪気に笑う姿は、まるで最初からこの山に生まれた精霊のようだった。
「ねえね、今日も山が笑っているね」
その言葉に、私はいつも返事をせず、ただ頷くことしかできなかった。
この子は、いつか山を下りる。
そう知りながら、柔らかな日差しの下、小さな手を握って歩くこの時だけは、私の中に確かに存在していた。
さらに時は流れ、兄が十二になったある日、「里へ下りる」と言った。一度捨てられた身でも、この歳で村に戻れば、畑仕事ができるだろうと。
小猿のようだった姿は、いつの間にか逞しい少年になっていた。妹は泣いてすがったが、兄はその手を振り払い、強く言った。
「俺たちは、人間として生きる」
「…………そう」
いつかこうなると、分かっていたことだ。私に、引き止める理由はなかった。
翌朝、何度もこちらを振り返る妹の手を引いて、兄は山を下りていった。
──それからの日々は、静かなものだった。
動物たちのさえずりも、風の音も変わらない。だけど、心のどこかに穴が空いたように。冷たい風が吹き抜けていた。
たかが七年。私の悠久の時に比べれば、ほんの一瞬の戯れ。それでも、気が付けば何度も人里の方を見てしまう。あの兄妹は、無事に村へ辿り着いただろうか。村の人間は、彼らを受け入れただろうか。
思い巡らすうちに、五つの夏が過ぎた。その夏の日。懐かしい足音が山に響いた。
背丈は伸び、頬はこけ、瞳には淀んだ光。松明を握る手は、かつて私が狩りを教えた小さな手と、同じものだった。
間違いない。あの兄だ。
山が騒めく。禍々しい気が、鳥たちを羽ばたかせた。
「──この山をよこせ」
その一言と共に、何十人もの人間の男たちが、山に踏み込んできた。その容貌は皆、飢えに追われ、骨と皮ばかりの男たち。今にも倒れそうな目をして、それでも貪るように木の実をかき集め、鳥を追い、兎を仕留めた。
芽吹く前の実を奪えば、次の年は何も生えない。小さな獣が消えれば、山の命の循環は崩れてしまう。
「やめて!」
私は風に乗るように山を下り、兄に向かって叫んだ。
「山が死んでしまう!」
「うるさい! 化け物が!」
振り返った兄の顔には、かつての面影はなかった。険しく歪んだ目が、私を睨みつける。
「飢饉なんだ! もう何日も雨が降っていない! 奪わなきゃ、俺たちが死ぬ!」
嵐のように、悲痛な叫び。そんな兄の向こうで、ひとりの男が木の実を貪るのに気を取られ、掴んでいた松明を落とした。
乾ききった大地に、火が走る。たちまち燃え広がる炎。
「まずい! 逃げろ!」
悲鳴を上げて逃げ去る男たち。その背を追うように、怒れる山の炎が、唸るように燃え広がった。
「みんな、逃げてっ……!」
獣たちの鳴き声が悲鳴のように響き、逃げ惑う影が炎に飲まれては消えていく。広がる熱で葉は燃え尽き、幹が崩れ、山全体が軋む音を立てた。
長い年月をかけて生きてきた緑が、わずかな時間で灰へと変わる。
けれど、この山から離れることなんてできなかった。私もまた、山の一部なのだから。燃え盛る炎が、私を包んだ。皮膚を成していた樹皮が裂け、瞬く間に炭と化していく。
ここで、終わる。この野山とともに。
そう思った時だった。乾いた土をバタバタと踏みしめる足音。違っていてほしい。ああ、そんなに急いだら、転んでしまう。
湧き出す、そんな感情とともに振り向いた先にいたのは――あの妹だった。
「逃げなさい! こんなところにいたら、お前まで死んでしまう!」
そう怒鳴っても、必死の形相で駆けてくる妹は、泣きながら私の身体にすがりついた。そして、燃える私の体を素手で叩き、必死に火を消そうとする。その姿はあまりにも愚かしく。そして、愛おしかった。
――死ぬな。お前だけは。
私は木樹の子として、残る力を振り絞った。山の力を集め、妹を覆うように何重もの木の層を作り上げる。柔らかな枝に包まれた妹は、涙の跡を頬に残したまま、眠るように気を失った。
それが私にできる、最後の祈り。
山火事が去った後、焼け落ちた炭のような私の腕に、かろうじて息をする妹が抱かれていた。
「――これが木子の残子か」
誰かの声がした。
「祟りの火事だと聞いていたけど、にしては随分と貧弱だね」
近づいてくる、人間ではない何か。私は枯れた声を絞り出した。
「この子を……助けてっ…………」
「へぇ。人の子を抱いているのか、珍しいね」
腕に抱いた妹の頬に、白い手が触れる。すると苦し気に喘いでいた妹の息は、すぐに落ち着いた。
「君、人間は好きかい?」
答えの代わりに、涙が頬を伝う。差し伸ばされる手のひら。揺れる銀の影。
「それなら、私と一緒においで」
人間との記憶。それは、翠蓮という名の木子の精の、玄月との出会いの記憶だった。
荒れる熱風に、意識が朦朧とする。
だが、私はまだ死んではいないようだ。ぼたぼたと体に降りかかる水滴が、なんとか私の生を保っていた。
「デジ子の力が、必要なんだ……!」
見上げる。そこには、デジ子に覆い被さるようにして、ナカメがいた。その左胸には、両手に握られた木片が突き刺さり、血が溢れ出している。
「私は弱いからっ、死ぬことしかできないからっ……!」
ナカメは自分で左胸を突いたのだろう。血で、私の火を消すために。
「お願いっ……死なないで!」
血を吐きながら、ナカメが倒れ伏す。吹き出す鮮血が、私の全身を濡らしていた。
この量、ナカメが死んだのは一度や二度ではないのだろう。私が意識を取り戻すまで、何度も自死を繰り返したというのか。
「……どうして、人間はみんな言うことを聞かないのでしょうか」
だけど、私は知っている。必死に火を消し、私を呼ぶその顔を。伸びていく枝葉のように、紡がれた記憶が、今の私へと深く。根を張っていた。
「助かりました、ナカメ」
なるべく火の粉を被らない様に、起き上がる。そして倒れるナカメの体を抱えると、宙へ飛びあがった。
「デジ、子…………」
「やっと生き返りましたか。本当にあなたは……私が死んでいたら、あなたはずっと火に焼かれていたのですよ」
デジ子の背から、巨大な木の翼が生える。それはひと振りで、はるか上空へデジ子たちを持ち上げた。
「私の体は、光と水さえあれば何度でも蘇ります」
鳳凰のように、木翼が羽ばたく。
――まるで、君の力は不死鳥だな。
笑う玄月の姿を思い出していた。
――デジ子の力は誰かを守る。きっとそれは、人間だろうね。君は心優しい、山神の遣いなのだから。
私は任務だから戦うのではない。玄月様の命令だからという理由でもない。玄月様は教えてくれた。神薙とは弱いものを守るために、その力を振るうのだと。
哀れなほど愚かで、弱く脆い人間を。ただ守りたいのだ。そんな簡単なことを、いつからか私は大義に目をくらませ、忘れてしまっていた。