6.砂斑夜行(3)
湿った土の匂い。
草木のざわめきに混じるのは、どこか懐かしい声。
「どこまでもお供します。夜行様」
かすかな声が耳に残った。
忘れるはずのない、その言葉。 ただ一人、自分を慕い、誰よりも深く愛してくれた、あの少女。
彼女との出会いは、文中の頃だっただろうか。まだ、半蛇の名に畏れと敬意が宿っていた頃だった。
あたしが住んでいたのは、小さな里。鍛治で栄えていたその村には、人間がカンカンと鉄を打ち鳴らす音が絶えなかった。
神薙としての仕事の傍ら、屋敷でその音に耳を澄ませるのは、何よりも心地よい時間だった。
里の人間たちは、半蛇の力を借りれば良き刃が生まれるという噂が流れているらしい。人々は競うようにあたしに貢ぎ物を持ち寄り、尊び、崇めた。
そんなある日、ふいに戸を開く小さな音がした。私の住む屋敷には、祭りの時でさえ人が踏み入ることはない。
だが近づく足音は、怯えるようにゆっくりと。それでも真っ直ぐに、あたしのいる部屋へ向かってきた。
現れたのは、まだ幼さの残る少女。年は十にも満たないだろう。震える膝を必死に押さえつけるように握りしめ、小さな身体で懸命に立っていた。
「あなたが……半蛇様、ですか?」
言葉を発した声は、人間らしいか弱い声だった。だがそれでも、少女は目を逸らすこともなく、じっとあたしを見上げていた。
「そうだけど、何の用?」
いつもなら、ここで睨みつけるだけで人は逃げる。異形への恐れ、畏怖、そして偏見。そんなものを、幾度も見てきた。
だが、この少女の瞳にはそれがない。あるのは、ほんの少しの緊張と――純粋な憧れ。
「村の大人たちは、半蛇様は恐ろしい方だって言います。でも……私はそうは思いません」
少女は胸元から、小さな包みを取り出した。ぎゅっと握りしめていたせいで少し皺になった布を広げると、中には不格好な草花の首飾りが入っていた。
「これ……作りました。半蛇様に、お礼がしたくて……村が飢饉で困っていた時、半蛇様が雨を降らせてくださったんだって、おばあちゃんが教えてくれたから」
そんな些細なことのために来たのか。雨乞いをしたのはほんの気まぐれ。それも、昔のことだ。そんなことを、今も誰かが覚えているというのか。
少女はさらに一歩、勇気を振り絞るように、あたしに近づいた。恐る恐る、震える手で。鱗に覆われたあたしの冷たい腕に、花の首飾りをそっとかける。小さな手のひらの温もり。
「ずっと、お礼が言いたかったんです。ありがとうございます、半蛇様」
あまりにも純粋で、あまりにも真っ直ぐな言葉だった。胸の奥に、知らない何かが灯ったような気がした。
「雨くらい、いつでも降らせてやろう」
照れ隠しのようにぶっきらぼうに告げると、少女は嬉しそうに笑った。
それから、少女は毎日のように屋敷に現れるようになった。
花を持ってきたり、火吹き棒という金具を持ってきたり。何の役にも立たぬのに、ただそこにいるだけで。あたしはいつしか、その存在を当たり前のものとして受け入れていた。
「お前、あたしの依代になるか?」
少女が持ってきた不格好な花飾りは、とっくに枯れ果てていた。だが心に灯った何かは、消えることはなかった。玉は不老だ。だけど、人間は違う。この少女も、いつかこの花のように枯れてしまうのなら。
あたしの言葉に、聞き返すこともなく。少女は頷いた。
それから、時代は変わった。異形を崇める声は次第に消え、畏怖と嫌悪がその隙間を埋めた。
鉄を打つ音は止み、屋敷には誰も寄り付かなくなった。
貢ぎ物も絶え、やがて住まいとしていた屋敷ですら「不気味だ」と噂され、追われるようになった。
――気がつくと、あたしは何もかもを失っていた。
力を示せば恐れられ、力を隠せば忘れ去られる。そのどちらにも堪えきれず、ただ冷たい山の土の上に横たわり、夜の闇に紛れて息を潜める日々。
そんな中で、ただひとり。人間の娘だけは、変わらず自分を「半蛇様」と呼んだ。
「どこまでもお供します。半蛇様」
ふとした時に告げられる、その言葉。彼女の言葉だけが荒れ果てた胸を、いつも不思議なほど穏やかに撫でていった。
「お前に名をやろう。お前の名は、鶯だ」
お前にぴったりの名前だろう。春を告げる鳥のように、お前はあたしの心を、穏やかにしてくれた。 あたしの言葉に目を輝かせ、憧れをその瞳に宿して。他の人間が怯え、避ける存在を、何よりも美しいと信じて疑わなかった鶯よ。
だからこそ、決めたのだ。あたしは、強くあらねばならない。
鶯の誇りを裏切らない存在であり続けるために。鶯の崇める「半蛇様」は、誰よりも恐ろしく、誰よりも美しくなければならない。例え、この身が化け物と呼ばれようとも。
それは、取るに足りない記憶。時代の遠い彼方へと消えていった、小さな欠片だった。
「半蛇と言えば、美しいと謳われた存在だろうに」
玄月が、地面に倒れた夜行の上半身を見下ろす。切り離された胴の断面からは、灰色の血が広がっていた。
「お前に……!私たちの、何がわかる…………!」
血を吐き出しながら、夜行が両腕で地面を這う。
「死んでも、お前のガキどもの命は貰ってやるっ……!」
夜行の憎しみのこもった叫び。同時に、玄月の周りを囲うように、黒く粘つく靄が広がった。
「……蛇哭ノ牢か」
玄月が、辺りを取り囲む靄に指先を掠める。触れた指の腹はまるで、どこか別の空間に隔絶されたように、感覚を失った。
「お前の大事なガキは、鶯に殺されるのさっ!お前の目の前でな……!」
夜行の言葉の通り、爆風が周囲を吹き荒れた。誘き寄せるように夜空へ跳躍する鶯。その体を、巨大な木の幹が、獲物に飛びかかる鯱のように追いかける。
それは、正しくデジ子が鶯と戦っているところだった。
「復讐だ! あたし達を捨てた、お前ら神薙へのッ!」
夜行の慟哭。玄月は動揺した素振りもなく、淡々と答える。
「最初からお前は私をここに閉じ込めて、デジ子が殺されるのを見せたかったの? 趣味わるいね」
夜の帳を引き裂く、鶯とデジ子の激しい攻防。それとは正反対の静けさで、玄月は埠頭の係船柱に腰掛けた。
「生憎だね。最近うちにも、威勢のいいのが一匹入ったんだ──私の子たちは負けないよ」
玄月は、まるで辺りを包む半蛇の呪いが嘘のように、軽やかに笑った。