5.砂斑夜行(2)
「あれが鶯です。ナカメ、貴方は密告者を連れて安全な場所へ避難してください」
「やだ! 私も一緒に戦う……うわっ!?」
空間に直線を引くように、放たれた何百もの細い針がナカメ達へと襲いかかった。逃げることもできず、ナカメは咄嗟に頭を抱えてしゃがみ込む。
「足手まといです」
ナカメが顔をあげると、巨大な傘のように広がった木の壁が、ナカメ達を守るように全ての針を防いでいた。
「この程度であれば、私一人でも十分に倒せる敵です」
「四家だからって、舐めるなよッ!」
耳をつんざく怒声が、空気を震わせた。
鶯の全身が弾けるように跳ね上がり、まるで獣が飛びかかるように、デジ子へと一気に距離を詰める。瞳は血走り、理性の欠片すらも感じられなかった。
「お前らのせいだ!お前らみたいな奴らのせいで!夜行様はッ!」
足元を砕くほどの踏み込みとともに、鶯の針に覆われた拳が、殺意を纏ってデジ子の顔面へと迫る。
早い。
怒りに任せた一撃。だが、その軌道は正確無比。
「夜行様を……貶めるなぁぁぁッ!」
あまりの移動速度に避けきれなかったデジ子の体が、コンテナを破壊しながら数十メートル先へと吹っ飛ぶ。
「デジ子!」
やっぱり、化け物だ。
ナカメのすぐ目の前に立つ鶯は、先ほどよりもひと回り大きな姿に成長しているように見える。見間違いだろうか。いや、そんなことを考えている場合じゃない。
「お前が、夜行様を売ったのか……?」
鶯が睨むように、密告者の男を見る。
――まずい。
「死ね!」
「ひ、ひいっ」
鶯の指先から伸びた針が、男の目玉を突き刺すように迫る。
守らなきゃ、あの人を。咄嗟に庇うように覆い被さったナカメの肩に、鶯の針が突き刺さる。
「ぐあああああっ!」
痛い痛い痛い。焼け付くような痛みに、歯を食いしばる。デジ子に肝臓を突き刺されたときとは比べ物にならない激痛だった。
「お前は弱いな」
「ぐ、うッ!」
鶯が、ナカメの肩に突き刺さった針を容赦なく引き抜いた。ズルリと肉を裂く感触。喉奥まで込み上げる叫びを飲み込む。痛みで呼吸が乱れ、足元がぐらつく。
役に立て、私は誰かの役に立つためにここにいるんだ。まずは、デジ子に命じられた。この砂淵繭を守るんだ。
「お前、まさかただの人間か? 虫ケラが、なんでこんなところにいる。死ににきたのか?」
「違う、任務に来たんだ! お前たちが、人身売買をしていると聞いた!」
「はははっ!人間を売り買いして何が悪い。私たちは人間じゃない。お前のような人間の常識も倫理も、夜行様には何の価値もない」
「ぐ、あっ!?」
鶯の針が、アスファルトに縫い付けるように、ナカメの太ももを穿つ。
「夜行様は、本当は人間ごときが触れていい存在じゃないんだ。崇めろ、跪け……夜行様を忘れた人間どもが」
鶯の瞳には、焼きつくような憎悪が渦巻いていた。
まるで、全てを呪い、全てを拒絶するかのような。怒りや悲しみを通り越した、純粋な負の感情。
「人間を、恨んでいるのっ……?」
「恨む? 恨むとすれば、自分の弱さだ。私がもっと強ければ、夜行様は神薙にいられた。人間から、その恐ろしさを忘れられることもなかった。あの方は、こんなに薄暗い場所にいるべき御人じゃないんだ」
鶯が呟く。憎しみに染まっていた瞳は一瞬切なそうに揺らぎ、遠くの何かを見るような眼差しだった。
「だが、神薙は夜行様を見捨てた! 神薙も、お前ら人間も! 散々夜行様に助けられたはずなのに……!」
鶯の針が、怯えて腰を抜かしている密告者の男を刺し殺そうと、再び迫る。
「危ない!避けてください!」
ナカメが、急いで太ももに突き刺さった針を引き抜く。だが、引きずる足では男のもとには間に合わない。
男へと差し迫る針が、スローモーションのように映った。
最悪だ。鶯を倒すどころか、密告者の身を守ることすらできない。何のために自分はここにいるんだ。何のために玄月様について来たんだ。
自分の体が例え不死身であっても、誰かを守れるほど強くなれるわけじゃない。そう簡単に、人は変われない。私じゃダメなんだ。
――――助けて、誰か。
「ずいぶん、ぶっ飛ばしてくれましたね」
顔をあげると、そこにはアスファルトから根が生えるように、デジ子が立っていた。
「デジ子っ……!」
「まだこんな所にいたんですか。さっさとその人を連れて逃げてって言ったのに」
倒れ伏した男を守るように覆った枝が、メキメキとデジ子の腕に戻っていく。
「思い出しました。貴方の玉、砂淵夜行は半人半蛇。磯姫の魔人ですね」
「そうだ! 夜行様は麗しき半蛇の御方。お前らのような矮小な存在、触れることすら叶うまい!」
鶯は叫ぶように吠えると、デジ子へと殴りかかった。突き出した拳の指先から、何本もの針が弾け飛ぶ。
デジ子を狙って炸裂する針はまるで、空中で煌めく無数の刃のようだった。
* * *
「久しいな、砂淵夜行」
玄月は、貨物船の荷揚げ場に立っていた。船はおらず、運河の向こうには鉄と光の工場夜景が広がっている。
「クロ、ツキ…………」
玄月の前に立った夜行の姿は、まさに半蛇。裾の長い衣は地を引きずり、その奥から覗く足は、爪先まで青黒い鱗に覆われている。
海風が鉄を撫でる。規則的に並んだ巨大タンクは月明かりを跳ね返し、光沢のない赤銅色に光った。
「夜行。君が四十九家から下りて、もう何十年も経った。まだ強さに囚われているのか」
「戯けたことを! こんな姿で人にもなれず、神にもなれない私たちに、どう生きろと言うのだ!? あたしに強さを求めたのは、お前らの方だろう!」
怒りに震えるように、夜行の鱗が逆立った。
「あたしだって帝の役に立つ! 金だって集めた! 人間の肉も、魔物の肉だって、大勢食らってやった! だから戻せ! 私を、神薙にッ!」
夜行の姿が脈動した。下半身が膨れ上がり、巨大な蛇の姿となる。しゅるしゅると低く、唸るような呼吸音が夜気を揺らし、土を這う蛇の尾がアスファルトを叩き割った。
「砂淵は神薙だ!あたしを認めろッ――!」
夜行の半蛇の尾が、怒りに突き動かされるように玄月へと振り下ろされる。
「……憐れだな」
「強さも美しさも手に入れたお前に、あたし達の何がわかる……!」
「お前がじゃないよ、夜行」
縦横無尽に叩きつけられる、大蛇の尾。それらを指先で払うように、玄月は受け流した。
「鶯が憐れだと言ったんだ。お前を一番に慕っていたのは彼女なのに。お前はそれを裏切った」
「裏切ってなどいない! あたしは、強さをっ! すべてを砂淵のために!」
夜行の尾の軌道を見届けるように、玄月の銀の髪が揺れる。
「魔物を食らっただって? 魔物を食らえば、確かに力が手に入るが、見た目も変わる。それなのに、お前の姿は半蛇のままじゃないか。魔物の肉を食らったのはお前じゃなく、鶯なんだろ」
「黙れ! あたしはっ!」
玄月が、いつの間にか夜行の背後に立つ。
「大きすぎる魔物の力を飲み込めば、例え玉でも命に関わる」
玄月の手のひらに浮かび上がる、無数の赤い粒。それは水滴のようにくっついて、巨大な鎌の形となった。
「お前は逃げたんだよ。依代を残してね」
玄月の握った鎌の刃が、夜行の胴を真っ二つに引き裂いた。