3.東京の隅
石造りの壁はひび割れ、そこかしこに血のような黒い染みがこびりついていた。
薄暗い牢。鉄格子の向こうに灯る青白い光が、揺らめきながら、その中を淡く照らす。
牢にいたのは、人間に似て非なる者。
一見すると若く美しい男性の容姿だが、肌は薄緑色がかり、皮膚というよりも粘土めいた質感を帯びている。骨ばった指先を膝に乗せ、悠然と腰を掛ける姿は、まるで王座に座る王。しかし、その「椅子」は人の骨。折れ曲がった肋骨、砕かれた頭蓋、無数の指骨が積み重なった山。男はその頂点にあぐらをかき、薄く笑みを浮かべていた。
「――ようやく目覚めたか、私の片割れよ」
細い指が骨の山を撫でる。指先に触れた骨はたちまち砂と化し、風に消えた。
「愛おしい人間たちのもとへ、会いにゆこうではないか。久方ぶりの再会を、どう祝うべきだろうな?」
闇の中、歪んだ微笑みが静かに浮かんでいた。
***
玄月の車で連れてこられたのは、東京都心。中央区と江東区の間の埋立地にある、無骨な四角いコンクリートの建物だった。
「ここが玄月の本部。寝泊りもしているから、アジトみたいなものだね」
殺風景な内装を想像する。ギャングのアジトみたいに、武器とかがずらりと並んだ部屋。だが、地下の駐車場から昇るエレベーターが開くと、目の前には大正時代の西洋風の館のような、不思議な空間が広がっていた。
「……これって玄月さんの趣味ですか?」
「デジ子だよ。彼女、岩崎邸とか好きだからさ。大正ロマンっていうのかな?」
ナカメが、隣を歩く玄月の横顔をこっそりと横目で伺う。
照明の下で見る玄月は、人間離れした雰囲気を纏っていた。身長はナカメよりもひと回り高く、肌は月のように白い。そして、天狗を前に一瞬見えた赤色の刀は、いつの間にか消えていた。
「ここがナカメの部屋。なかなか綺麗でしょ。好きに使ってくれていいよ。あ、そうだデジ子」
玄月が呼ぶと、音もなくピンク髪の女、デジ子が隣に現れた。どんな仕組みなんだろうか。
「ナカメに説明よろしく。私はお上に報告があるから」
「承知しました」
それだけ言うと、玄月はデジ子とナカメを残して立ち去った。
「えっと、デジ子さん……?」
「本名は翠蓮ですが、デジ子で構いません。はぁ……本当にこの人を連れてきたんですね、玄月様」
デジ子が呆れた顔でナカメを見る。
「あの、ずっと気になってたんですけど、デジ子さんとか玄月さんは、魔法が使えるんですか?」
「玄月様と呼んでください」
デジ子に睨まれる。
「すいません……」
「まぁいいです。魔法とは、こういうものですか?」
デジ子が、人差し指を立てる。その先端はキラキラとした粒子になって、風に流されるように消えていった。
まるで、タンポポの綿毛だ。
「魔法に見えますか……これは、私の木子の力です。ドライアドの方が親しみやすい呼び名ですが」
「ドライアド?」
「順を追って説明します。部屋に入りましょう」
ナカメが部屋のベッドに腰掛けると、デジ子も椅子に座った。
「まず、私たちのいる神薙という組織について説明します。神薙は平安時代の神祇官を祖に作られた、治安維持のための組織です」
「六波羅探題、みたいな?」
「それは承久の頃の別組織です」
平安時代。神祇官に、治安維持。デジ子の言っていることは、さっぱり分からなかった。ひとまず、神薙とは昔の時代にできた秘密の組織なんだと理解する。
「四家と、その下に着いているのが、東の黎明二十家、西の護法二十五家。それらをあわせた、四十九の家によって成される組織が、神の薙と書いて神薙四十九家です」
「しじゅう、きゅう……」
名前のとおり、四十九個の家があるということだろうか。田中さん家に、佐藤さん家に、小林さん家、みたいな。
それに、東と西。まるで都道府県みたいだ。
「四家ってなんですか?」
「家にも上下があり、東西の四十五家を束ねているのが、四つの家なのです。そのうちの一つが、玄月様。玄月の家です」
四十五個の家があり、その上位に君臨する家として、玄月様を含めた更に四つの家がある。あの人、やっぱり凄い人なんだ。
「全ての家には、玄月様のような玉と呼ばれる主がいます。彼らは私と同じ、人間ではありません。玉となる者はすべからく、神祇官によって封じされた魔物の交配物。いわゆる、魔そものとの混血です」
「半魔ってやつ?」
「はい。先ほど説明した四十九家、全てに半魔である玉がいます。狼人間、龍、不死体、河童、牛鬼……挙げればきりがありません」
つまり、目の前で説明をしてくれているデジ子は、木子と呼ばれる存在との混血なのだろうか。先ほどの、植物の胞子のように指の先を消してみせたデジ子の姿を思い出す。
「ちなみに私は、混血ではありません。ただ気が向いて、玄月様におともしているだけです」
「ややこしい……」
すでに頭はパンク寸前だった。
「とにかく、私たち神薙四十九家はその力を持って、魔物から人間たちを守る盾。そして各家を束ねる玉は、そのためにつくられた半魔ということです」
「あの、神薙は魔物を倒すためなら、人間も殺しますか? 私、玄月様に会う前にほかの神薙の人と会ったんです。黒髪の、片目の」
「ワダツミ様ですね。ワダツミ様に限らず、必要な殺しであれば神薙は躊躇せず人を殺すでしょう。私たちは人間ではありませんから」
「だけど、人間を守っているんですよね?だったらどうして……」
「つまらない質問ですね。本当に、つまらないことを考える」
デジ子の手のひらが、ナカメに向けられる。すると突然、その白い肌からメキメキと木の枝が突き出した。
それはナカメのみぞおち辺りを抉るように突き刺した。衝撃で、ナカメの体が浮く。
「ぐ、うっ……!?」
「肝臓を刺しました。人間の急所です」
淡々と告げるデジ子の声。
「あっ、あ…………!」
熱いものが体内で弾ける感覚が走る。鋭く、重く、鈍い痛み。内臓の奥底が、焼かれるようだった。指先が震え、足元がふらつく。
「神薙へ来たからには、甘い考えは捨ててください。私たちは、ただの人助け集団ではありません。魔物の力は強大で、ときには千人、一万人の命がかかっている。それを、わずか数人のために、足を止めることはできません。トロッコ問題と言えばわかるでしょうか」
「が、ああぁっ…………!」
痛い。激痛が腹の奥から全身を貫く。痛みに遠のく意識の中で、自分の体が冷たくなっていくのを感じた。
三度目の死。
「――本当に貴方は死なないんですね。超再生でもない」
「へ、えっ……?」
気絶していた。
起き上がると、みぞおちに突き刺さっていたデジ子の枝はなく、破れた洋服の下の皮膚には、傷ひとつない。
本当に私、不死の体になっちゃったんだ……。と、今更ながら感慨に浸る。
「魔物はずる賢く、残忍です。人間を平気で盾にする。そのとき迷っているようでは、あなたは役に立ちません」
デジ子の言いたいことはわかる。
「いずれにせよ、善悪を考える必要はありません。貴方に求められているのは、玄月様の犬として役に立つこと」
玄月様は言っていた。私は神薙に飼われる身。何も考えず、犬のように誠心誠意、玄月様に奉仕するのは当然だろう。
――だけど。
「嫌だ!」
「はぁ!?」
デジ子の怒りを現すように、メキメキとデジ子の両肩から太い幹が伸びた。筋肉のように隆起する枝。
「善悪くらい、自分で判断します!」
思考を停止すれば、それこそ犬に成り下がったのも同然だ。私が求めているのは、飼い主なんかじゃない。私を必要として、求めてくれる誰か。
「人間ごときが生意気な!ここで木屑にしてやる!」
「やっばっ……!」
デジ子の全身から生えた枝は腕のようにしなり、さながら阿修羅像のようだった。
「逃げろ逃げろ!」
デジ子に殺される。もう一度。
ナカメがダッシュで部屋から転がり出ると、目の前には玄月が立っていた。
「おっ、二人とも随分仲良くなったね。やっぱりここは若い人たちだけで――」
仲良いなんて、冗談じゃない。デジ子は化け物だ。こちらは必死なのだ。
突き刺すように伸びる枝をなんとか避けながら、玄月様に縋る。
「玄月様、助けてください!」
「逃げるな!……あ、玄月様。お早かったですね」
急に澄ました態度をとるデジ子に、玄月が告げた。
「二人とも、次の仕事だ。行き先は鉄のベッドタウン、川崎だよ」