夜渡りがいく
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
はー、今日も外は40度近いんだってよ。いよいよ地球環境も人の命を奪う楽しさに目覚めてきたのか? 勘弁してほしいもんだ。
暑さで万一のことがあったら、すぐ大人のせい、管理者のせい、だろ? 気温のせいだっていくら責めてもしゃーないからな。じかに叩きのめすこともできやしない。
そうしたら簡単に殴る蹴るできる、人身御供役が必要なわけだ。叩いていいと分かれば、普段は見せない正義のパゥワ〜だかを振りかざして、完膚なきまでに打ちのめす。
おーやだやだ。俺はそんな責任あるポジション、ぜってーつきたくないわ。仕事以上にクレーマーに命取られそうだわ。どうにもならないことに対しての。
いまでこそ、こうして罪に問われるけどよ。昔はそうならないときも、多かったらしい。
旅に出ての野垂れ死にもそうだし、神隠しだってその名の通り、神様の思し召しとして、人は誰も責めはしない。その分、自分の身は自分で守るという覚悟が必要だったわけだが。
俺の聞いた、責任を追及できなかった不思議な現象のひとつ、聞いてみないか?
むかしむかし。
戦から男たちが戻ってきてみると、家族の多くが息を引き取っている現場に出くわしたんだ。
外傷はない。老若男女を問わず、屋根の下で、土の上で、いずれも驚いたかのように目を見開き、そのまま倒れていたんだ。されども、身体はまだ温かい。
しかし、村から離れて外遊びをしていた子供たちは、無事な様子で戻ってくる。そして目の前の惨状に驚き、泣き崩れんばかりだったという。
被害に遭ったのは、家々とその近辺にいる者ばかりだ。
先ほども述べたように、外から確認できる傷や絞殺の痕はない。むくみ、斑点、ジンマシンなどといった、病の兆候らしきものもない。
それこそ、文字通り「たまげる」事態にでも出くわさない限りは……。
いぶかしく思っているうち、特に目のよい数人の村人があることに気づく。
ここより見える地平のかなた。男や子供たちが歩いてきた方向より、逆の遠方にぽつんと人影がひとつ立っているんだ。
米粒ほどにしか見えない遠く。目の良いものの話では、紺色を基調にしたあわせを羽織り、こちらへ背中を向けたおかっぱ頭の女だという。しかしその背は、大人の男とそん色ないほどの高さ。
その足はまったく動いておらず、棒立ちのまま。髪や服もそよいではおらず、風を身に受けて楽しんでいるわけでもなさそうだ。なぜ腰も下ろさず、立ちんぼでいるのだろうか。
疑問の湧き出す中、皆に降り注いでいた日差しがにわかにさえぎられた。
雲。青空に浮かぶ一片の雲が、ちょうど陽にかかるところだった。握りこぶしほどの大きさしかないが、その速さは青い空の川に浮かぶ、渡し船のよう。
再び陽が差すまで、何拍と時間はかからなかった。しかしそのわずかな間で、遠方にいたあの女は姿を消してしまっていたんだ。
ずっと観察していた者によると、陽が陰ると同時に、女はすうっと遠ざかり、小さくなっていたらしかった。その間、やはり足は動かないままで、地面を滑ったかのごとく思えたそうなんだ。
そして陽が指すときにはもう、誰の目にもとまらない彼方にまで、進んでいってしまったのだとか。
似たような現象は、近隣の村々でも起こったようだった。
多くの人は夜の間に急逝してしまうが、陽が陰ってより再び指すまでの間で倒れ、息を引き取ってしまうことがあったらしいんだ。おそらく、最初の村で見られたのも後者の場合と同じと思われた。
そして、近くにいながら奇跡的に助かった者は、被害者が落命する寸前。彼らのそばを鉄砲の弾のような速さですり抜けていく、おかっぱ頭の女の姿を見たと証言する者もあったとか。
この噂はあまねく広まり、とある大きな寺の僧侶たちにも知られるところとなる。
彼らは説法のかたわら、件の女の正体について皆に伝えて回る。あれは「夜渡り」と呼ばれる存在なのだと。
古来、夜は万物の姿を隠すもの。その闇に乗じ、人の警戒しきれぬすき間へ、招かれざるものが招かれてきた。その代表的なものが「死」だ。
夜に寝入った者が、朝には冷たくなっている。その多くは夜渡りの仕業であり、寝入る者が多いからこそ、ほとんどの者の目に入らずにいた。
だが、いまや死は大いに広がった。戦の広がりとともにだ。
明るいうちから、異様なほどの命が絶たれる。そのことの積み重ねが、本来は目に留まらない彼女たちを、光のもとへ引き出したのだろう、と。
「だが、居るだけと居ながら動くとでは、話が違うようでな。光が弱まる時でなくては彼女らは動く力を持てない。やはり夜に慣れていたためじゃろうな。
ああ、武器でどうにかしようと思わない方がいい。彼女らはいわば死の化身。偽りの死をほどこし、我ら生者の目をあざむくなどお手のものだ。
ただ異常を覚えたならば、遠ざかるよりない。それも、できるものなら……」
そうして、奇妙な夜渡りの警戒が行われた。
太平の世になるころにはほとんど姿を見せなくなったというが、その目撃された末期のできごとはこのようなものだった。
戦地から遠ざかって久しいその地域は、すでにのちの江戸時代に近いたたずまいをしていたという。
その青年が歩いていたのは日暮れ間近の村はずれ。想像以上に近い、カラスの羽音にびくついて、肩をいからせていたところだった。
ふと、強い風が吹くとともに、陽がわずかにかげる。ほんの数拍の短い間だったが、青年の目は急に現れた、遠くの人影を目に留める。
すでに陽の光は戻っていた。
遠く、米粒のような大きさに見える人影は、紺色の服を着ていることくらいしか分からない。
またも風。今度はそばに立つ柳の枝葉が大きく舞い上がり、空の陽をかすかに陰らせる。
青年は目を見張った。ほんの今まで広げた指の間くらいの大きさしかなかった人影が、糸に引かれたように、立ちんぼの姿勢でぐんと近寄ってきたからだ。
いまや女が長く垂らした前髪に顔を隠し、着ているあわせのところどころはほつれ、素足で土の上に立っていることがはっきりわかるほどの距離にいる。
両足にはひとつも爪がなく、代わりに赤黒いものがかすかに溜まっているのみだ。はがれてさほど時間が経っていないだろうに、目の前の女はいささかも動じる気配がない。
これが夜渡りか。
直感した青年は、すぐ踵を返した。夜渡りはほんの数拍の暗闇でもって、5間あまりの間を詰めてきたように感じたからだ。
もう一度、同じ距離を詰められたら、自分へ触れるほどになってもおかしくない。
青年が走りつつ振り返るが、話に聞いていた通り、夜渡りは遠ざかる青年を前に反応を見せずにいる。明るいところにいる限りは。
それが、屋根の影だろうとかすかな闇を通れば大変だ。
足がかすかに浮くと、やはり糸に引かれるがままの姿勢で、間合いを詰めてくる。青年の走りより数割増しの速さで。
建物に入るなど論外。その他の影もできる限り避けねばいけない。
冬の押し付けるように伸びる影たちの間を、青年は駆けては飛び、数少ない日なたをたどって、どんどんと夜渡りとの差を開いていく。
どこまでいけばいいのか? それも分からないまま走る青年の足元を、不意に影が横切った。
カラスだ。先ほど飛び立ったのと同じように、無数の黒い羽を広げて彼らは空を飛ぼうとしていたんだ。
だが、位置が悪い。彼らの飛ぶのは青年の頭上。寄せ合う体が大きな遮蔽を生み、陽光ことごとくを完全に隠したんだ。
振り返ったときには、もう視界の奥に世渡りの姿が見えている。
カラスの身体も、寄せ合ったすき間はいくつかあった。わずかでも陽がのぞくたび、夜渡りの動きは止まるが、覆われればまた動き出す。
将棋の駒のようだった。香車のように縦一線。盤面を端から端まで動いたうえで、何度も打たれているかのごとき動き。
だが現実の盤面に、限りはない。
先行はすれど、歩のごとき歩みで青年が開けた差は、ぐんぐん縮まっていく。
ついにあわせの縞模様まで見える位置まで来て、触れられるのも間もないと思ったとき。
町の矢倉台から、鉄砲の音が聞こえた。それも数丁分。
直後、陽を隠しかけていたカラスの最後尾の数羽が、次々と墜落し、陰りはいっぺんに吹き飛んでしまったんだ。
夜渡りの足が、ぴたりととまった。そればかりか、急に照った陽が彼女の黒髪に明かりを差させると、次の瞬間にはもはや姿は見えなくなっていたという。
矢倉の見張りたちが青年の安否を気遣う。これよりのち、夜渡りが表立って姿を見せることはなかったが、致死率の高い病がはやると、人々はときおりその存在を気にかけたとか。