ここからは見えない
「リリアーヌお嬢様、おはようございます」
カーテンが開いて朝日が差し込む室内にアンナの声が明るく響く。そのほっとするような笑顔に私も自然と笑顔を浮かべていた。
「おはよう、アンナ」
そのままアンナに朝の身支度を世話されながら一旦訓練用の簡素な服に着替える。もうすぐ学園の狩猟会があるので、今朝からは剣術と時間配分を交代して攻撃魔法の軽い慣らしも始める予定だった。
勘が鈍らないように、剣術も休むわけにはいかない。ただでさえウィルフレッドお兄様に一言ですら褒めていただけるレベルに達していないのに、せめて現状維持はしないと。
……昨日はもしかして褒めていただけるんじゃないかと思っていた。女性が優勝するのはあの剣術大会の歴史上初めての事だから。
でも剣筋が雑だったと指摘されて、褒めてもらえるのではと付けあがっていた自分が恥ずかしくなった。時間が経つほど体力に差のある私は不利になると、確かに勝ちを急いでいた。ライノルド殿下に勝つためにと精密さを犠牲にして速攻をかけたあの一撃は正直指摘された通りにギリギリだった。殿下の一撃が私が知っているものより重くなっていたから、あれは運も味方した。
人と比較してどうこうではない、私はまた、期待に応えられるような事が出来なかったのだ。剣術大会だけではなく、ピアノも、仕様書に載せた魔導回路でも。
褒めてもらえるようなレベルに達していなかった、それだけ。
朝食をとったそのままアルフォンスお兄様の部屋に向かう。鍛錬の前に、先日提出した次の絵本の草稿を添削してもらった校正をいただくことになっている。
「ねぇ、リリアーヌ。この主人公は貧しい生まれながら正義感の溢れる、読者が応援したくなるような少女だって設定だよね?」
「……はい、お兄様」
「それにしては、ここの……主人公のポーラが親のいない子供に食べ物を恵むシーンで、可哀そうだと思った次の瞬間にすぐ渡しているよね」
アルフォンスお兄様の指が示した一節に私も視線を向ける。主人公の少女がつらい境遇にめげずに優しさを忘れず頑張る中で妖精と出会い、その優しさを愛した妖精が様々に力を貸してくれて周りの人も一緒に幸せになる話。その冒頭の方で主人公のポーラの貧しさとその中でも他人に向ける優しさを持った素敵な女の子だと描写するためのエピソードだった。
「自身も貧しいという苦しみと言うか、葛藤が感じられないんだよね。空腹の厳しさを知っているからこそ、我が身も案じる。しかしそれを上回る優しさがあるからこそ分け与える、そんな背景が見えないんだ。まぁ、文学に正解は無いから間違っているわけじゃないけどね。絵本だから文字数削りたかった? でも可哀そうにと感じた、だから一切躊躇なく施しを与える、これでは衣食住に苦労していないみたいだと僕は思ったんだけど、リリアーヌはどう思う?」
「……指摘されるまで思いもしませんでしたが、確かに私も、少し逡巡する様子を描いた方が貧しい境遇を考えると読む人に現実感があると思わせられるし、『それなのに見知らぬ人に食べ物を差し出せる』とポーラの優しさが際立つと感じました。文字数については本に仕立てる時のデザインにもよりますけど、ページ数的には余裕があるはずなので描写を加えたいと思います」
「そうか。うん。第二稿でどうなっているか楽しみだよ。ああ、あとここも。中盤に出てくる妖精の価値観についての描写とちょっと矛盾するよね。いやまぁ、そのくらい気まぐれなのが妖精だってことでもいいんだけど」
「いえ、ここは。あの、矛盾に今気づいたのでここも修正します」
推敲はしたつもりだったが、言われて気付くことが多すぎて情けなくなる。
昨日コーネリアお姉様に返された魔導回路も至らないところばかりだった。今指導していただいたこの次に刷る絵本の原稿も、それと同じかそれ以上に真っ赤になっている。
「ご指導いただきありがとうございました」
私は頭を下げて部屋を出ると、校正の入った原稿を部屋に置いて家族が使う鍛錬所に向かった。……と言っても利用するのはお父様とウィルフレッドお兄様だけだが。
練習とはいえ攻撃魔法を使うのに、引きずって気がそぞろになってはいけない。頭を切り替えないと。
「今日はリリアーヌも魔術訓練をするのか」
「はい。学園の狩猟会が控えていますので」
王都のタウンハウスで魔術訓練を行うため、城で使われているのと同じ、お父様の構築した結界が張られている訓練用のスペースで攻撃魔法のコントロールを確認するために軽い威力のものをいくつか撃っているとお父様がやってきた。出仕用の、魔導士塔のローブを着ているのでお仕事前なのだろう。
今は冬の前だから、各地の魔物の活動が活発化しているのでお顔を見たのは数日ぶりだった。学園の狩猟会も魔物の討伐を兼ねている、そのくらい魔物を減らす手がこの時期は必要とされている。
お父様のような本職の方達しか倒せないような魔物に専念していただくために、雑魚の数を減らすのも重要だ。人里に出たら低級の魔物も十分脅威になる。
「久しぶりに訓練を付けてやろう。……実際の魔物と想定してやってみなさい」
「かしこまりました」
お父様が指で指し示した鍛錬所の端に、的としてだろう、小さな光が浮かんだ。
狩猟は、向かい合って審判の合図で始める対人戦とは根本から違う。気配を絶って自分の間合いまで近づいて、獲物の意識の外から一撃で刈り取る。
気付かれて魔物と戦うような失態は命取りだ。よほどの使い手でも、あえて魔物と対峙して戦うような愚かな真似は普通しない。
魔法も使う対人の試合では魔法の展開速度が何より大事になる。フェイントなどの頭脳戦も必要だが。
対魔物で必要なのは急所を狙う精密操作と、魔物を仕留めるための威力。狩猟を想定しての事なら獲物をなるべく綺麗に残す事も考えないとならない。もちろん安全に仕留める事が最優先なので通常はどこに当たっても大体致命傷になる胴体を狙う事が多いが、お父様の出したあの的の大きさを考えると眼球か首を想定しているのだろう。
内臓と同じく、いやそれ以上に眼球も錬金術の素材としては貴重品として扱われるので、ならば首と想定した一撃を放とう。
自分の中の魔力が周囲に漏れて獲物に気付かれないように体内に圧縮する。限界まで力を込めて練った魔術をお父様の浮かべた的の中心に向ける。
警戒心の強い魔物ですら気付けないと自信を持って言える魔力を消した隠密状態から、自分の最大威力を込めた会心の一撃を私は放つ。芯を捉えた。
……が、狙いは外れていなかったけれど当たる直前で減衰して的を揺らす事すらできなかった。
「あ……」
「本物の魔物と想定してと言っただろう。足元に魔物の根を想定した魔力を巡らせていたのに気付かなかったようだな」
言われてから、地面の下に魔力探知を行った。……っ、……あの的の真下を中心に張り巡らされている。確かに。
……本物の魔物を想定したと言うなら……狩猟会を行う森に発生する可能性のある魔物を考えると、ドライアドだろう。
ドライアドならば獲物の首を狙うつもりで私が放った、一般的に使われる風属性の攻撃魔法はほとんど役に立たない。私の一撃も、魔力で硬化した樹皮に阻まれて確かに届かなかっただろう。
それにドライアドならば、あれは的じゃなくて「核」を模していたのだ。魔物植物の希少素材にあたる……的として狙うのではなくて、あの的を抉り出すように、ドライアドの魔力で硬化した樹皮を貫ける火属性の攻撃魔法を使って的の周囲を破壊するのが正解だった。
私は自分の失敗を悟って拳を握りしめる。
「気付いたようだな。……ドライアドは確かにレーメンの森に出現するのは稀な魔物だが、一切考慮せずとも良いほどではない。実際の狩猟会ではゆめゆめ油断しないように」
「はい……申し訳ございません、気を引き締めます」
「アジェットの者として、怪我を負うような無様な真似はしてくれるなよ」
「承知しました」
悔しい、情けない。また満足していただけるような姿を何もお見せ出来なかった。
頭を下げてご指導いただいた事に感謝を告げると、お父様は出仕の時間になったと城へ向かった。
出勤前の貴重なお時間をいただいたのに……きっとお父様は私があの的がドライアドを想定しているのに気付いて、相応しい対処が出来ると期待してくださっていたのに。私はそれに応えられなかった。
お父様のいなくなった鍛錬所の隅で、汗を拭うためのタオルに水を滲ませて顔を覆った。不甲斐ない自分の悔し涙が誰にも見られないように。
「お嬢様……どうか、そんなにご自分を追い詰めないでください。絵本のために書いていたお話だってアルフォンス様がご指摘される前から十分主人公のポーラが優しい事は伝わりましたし、今だって、実際は目で見てドライアドか血の通う魔物か分かった上で魔法を使うのですから、ドライアドに風属性の魔法を使う事など無いではありませんか……」
けど、気遣わしげに声をかけてきたアンナの声に、彼女にはバレているのがわかってしまった。そう指摘せずにただ寄り添って、慰めの言葉をかけてくれる優しさに何度救われただろう。
「いいえ、でも、実際の魔物と想定して探知魔法を使っていたら気付けていたわ」
「そんな……!」
アンナの言いたいことは分かる。いくら実践を想定したと言っても鍛錬の場でまで探知魔法を使う人はいない。普通は。
私だって、ここが実際に狩猟会の森だったら足を踏み入れる最初から探知魔法を常に発動させていただろう。
けど全て終わった後から言っても仕方がない。
「私は、出来なきゃいけなかったの。家族の誰にも褒めてもらえないのも、当然ね……」
「そんな事、ないです……リリアーヌお嬢様は私の知ってる人の中で、一番すごい人です!」
「でもお父様やお母様や、お兄様やお姉様達が私の歳の時にはもっと上にいたわ」
「お嬢様は、それだけじゃなくて色々な分野で成果を出しているじゃないですか! 私は……お嬢様はすでに十分に頑張ってらっしゃるし、実際成果も出してると思います……!」
「うん、ありがとうアンナ……」
じわりとにじむ程度で堪えていたのに、アンナの声に涙が混じったせいで私も決壊したようにこぼれてしまいそうだった。
アンナが私の家族に、私の知らないところで「リリアーヌお嬢様にどうか、何かたたえるお言葉をかけていただけませんか」と訴え出てくれていたのを知っている。
貴族家の出とはいえ、男爵家の4女で10歳からずっと奉公している家に……彼女がどんなに勇気を出してくれただろう。
もちろん私もただ悲しんで「いつか認めてくれるはず」と嘆くだけではなく、「一言でいいから褒めて欲しい」と願った事がある。いや10歳頃から毎年誕生日、家族に何が欲しいと聞かれてそのたびに物はいらないからと私を褒める言葉をねだっていた。
一年に一度だけ、今年はこんなに頑張ったからこの一年分を褒めて欲しい、と。
けどアンナの懇願も、私のお願いも叶わなかった。認めるような成果があったら考えようとその度に、家族皆にそれぞれ言われて、現に褒めていただけない私はそれに値するような成果が出せていないのだろう。
仕方ない……仕方ないのだ、私が期待に応えられないから、これは仕方がない事なんだ。
物心ついてから今まで、お母様にもお父様にも、お兄様とお姉様達にも褒めてもらった事がないのは私が至らないせい。
自分の家族が皆互いに讃えあっているのをどんなに羨ましく見てきただろう。私だけ、私だけ褒めてもらえない。でも私が悪いの、褒めてもらえないのは私のせい。まだ足りない。
だから、これはきっと、「私だから褒めてもらえない」わけじゃない。違う、私は家族に嫌われてなんかいない。
「褒めて……褒めてよぉ、私こんなに、頑張ってるのに……一番になったのに、……どうして」
こんな醜い私欲から出た言葉なんてアンナにも聞かせられない。顔に押し付けたタオルの中に溶かし込むように、ほんの小声で呟いた。
「何故……なんで、ご家族の皆様はリリアーヌお嬢様だけに厳しいんですか……っ! 私じゃ、私の言葉じゃ足りない……届かないのに、どうして……」
嗚咽を我慢している私の耳には、同じように声を堪えて歯を食いしばるアンナの嘆きは届かなかった。