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「おかえりなさい、リリアーヌ」

「お母さま。……ただ今帰りました」


 剣術大会のトロフィーを侍従に預けたリリアーヌの元に、玄関ホールで自分を見下ろすアジェット公爵夫人、ジョセフィーヌが現れる。子供が六人いるとは思えない、若々しく美しい華のような人がそこにいた。社交界のボスとも呼ばれるが、かつて伯爵令嬢だった時は歌姫として国外でも活躍していた。音楽の庭の神が嫉妬する才能だと言われた歌はこの年でも衰えることなく、むしろ艶が出て魅力が増したという声すらある。

 リリアーヌとは姉と妹でも通用しそうなジョセフィーヌは、しかし公爵夫人らしい威厳をまとって末娘を出迎えた。


 母親に向けるにしては礼儀作法に則りすぎた完璧な淑女としての挨拶であったが、騎士服に身を包んでいるためスカートをつまんだカーテシーではないのにその完璧な笑顔と優雅なふるまいは凛々しい装いなのに誰よりも淑女らしい。

 ふわりとかぐわしい香りがしそうな空気にホールで出迎えていた使用人達は内心で小さくため息を漏らしていた。


「また男性に交じって大会に出ていたそうね?」

「はい」

「リリアーヌは女の子なのに、困ったわねぇ」

「申し訳ありません」


 剣術大会で優勝するだけの者なら、じゃあこれを命令したウィルフレッド本人にそう言ってくれと反論でもしそうなものだが、リリアーヌは粛々と頭を下げる。優勝したのだと成果を誇ることもなく、指南役であるウィルフレッドがそう指示したからだと弁明をすることもない。

 トロフィーを受け取った、リリアーヌ付きの侍女のアンナがぐっと息を呑む。


「乱暴な事ばかりじゃなくて、ピアノの練習もちゃんとしてるの?」

「はい、お母さま」

「んーん、ダメよ。昨日サロンで弾いていたけど運指に気を取られていて情感を込めるべきところでもたついてたわ。音楽には毎日触れないとダメよ?」

「かしこまりました。……ウィルフレッドお兄様の帰宅後にご指南いただくことになっているので、それまでピアノに向かいます」

「まぁ、まだ剣を振るの……? はぁ……傷が残るようなことはやめて頂戴ね」

「かしこまりました」


 けだるげな空気を醸し出しながら、美しいかんばせに憂いを滲ませたジョセフィーヌはゆったりした足取りで玄関ホールを後にした。

 傷が残るかどうかは武術の指南役のウィルフレッド次第なのだが、事実だとしてもそう伝える事をしなかったリリアーヌは頭を下げてそれを見送る事しかしない。



「リリアーヌ、おかえり」

「……コーネリアお姉さま、ただ今戻りました」


 ピアノに向かう前に一度騎士服を着替えようと自室に戻るところだったリリアーヌは、アジェット家の次女、コーネリアに呼び止められて足を止めた。

 その手には、昨日リリアーヌがコーネリアに提出した魔道具の仕様書がある。常に眠そうな目をしているこの少女はリリアーヌと並ぶと姉と妹を間違えそうな小柄な女性だが、この若さで国外でも有名になっている数々の発明をした、稀代の魔女と名高い錬金術の天才だ。


「これ。仕様書通りに動かしたいなら魔導回路の設計が甘い。理想環境でしかこの数字出ないから」

「はい、申し訳ありません」

「もう少し実際に使えるもの作ろうか、リリアーヌ」


 たとえばここ、と立ったまま解説を始めたコーネリアの手元を真剣な目で覗き込む。特徴的で、天才ゆえに感覚的な話し方をする、常人では理解が難しいコーネリアの言葉に、まだ学園では習っていない高度な内容の次元でリリアーヌは食らいつくように付いていっていた。



「再提出は今週中に」

「かしこまりました、コーネリアお姉さま」


 仕様への書き込みで真っ赤になった書面を受け取ったリリアーヌは、自室の机にそれを置くと騎士服を着替えるのを諦めてサロンに向かった。ウィルフレッドが勤務を終えて帰宅するまでと考えると練習時間はあまり残っていないと判断したためだったが、騎士の姿のままピアノを奏でていたのをジョセフィーヌに見咎められ、また注意を受けてしまうのだった。




「リリアーヌはもう寝てしまったのか?」


 プライベートフロアのサロンにやってきたアジェット家の主、公爵が長男のジェルマンに声をかけた。王太子の執務室で側近を務める息子が、自分よりほんの少しだけ早く帰宅していたのを知っていたからだ。


「私が帰宅した時にはもう明かりが落ちていたからとっくに寝てると思いますよ」


 残念そうにそう告げるジェルマンに、公爵も眉を下げる。公爵は、宰相として城で過ごす部屋を与えられてるというのに家族の顔を見るために出来るだけ家に帰りたがる愛妻家で子煩悩な御仁だと有名だった。

 繁忙期となっているせいで二日ぶりの帰宅になったが、どうやら一番の目的は叶わなかったらしいと察した家令が気の毒そうに壁際で控えたまま苦笑いをする。


「また今日もうちのお姫様にはおやすみすら言えなかった」


 大げさに、がっくり肩を落として見せた父の姿に、ジェルマンを含めたその場にいた家族は笑った。


「私ももう三日もリリと会話ができていません。王太子の付き添いの剣術大会で、あの凛々しくも可愛い姿を遠目に見ただけで」

「私に比べればまだマシだろう。陛下がこき使うせいで毎日家に帰る事すらできないなんて」


 末娘に会えないと嘆く二人を前に、ジョセフィーヌはその社交界の華と呼ばれる見惚れるような笑顔を向ける。


「可哀そうだわぁ、二人とも。夜が遅いせいで、まだリリの練習を聞けないなんて」

「母上、うらやましくなるので自慢はおやめください」

「最近また腕を上げたのよ! あの年であの譜面をあそこまで正確に奏でられる奏者なんて他にいないんじゃないかしら。あそこにさらに情感が込められたら……ああ! 年末の感謝祭が楽しみだわ」

「自慢はやめてくださいと言ったじゃないですか!」

「兄さん、元気出して」

「コーネリア……」

「まぁ、私はリリと魔道具の設計について有意義な時間を過ごしたけど」

「お前も自慢か」


 やれやれと言ったようにジェルマンは首を振る。


「ここのところ剣術大会前の追い込みだと言ってリリはウィルフレッドに独占されてたと思ったら、開発中の魔道具のブラッシュアップでコーネリアに取られそうだな」

「無駄に独り占め、してるわけじゃない。必要な事。リリがせっかく開発する魔道具に、ケチつける奴が絶対出て欲しくないだけ」

「そんなこと言って、開発会議だって口実にリリとお茶でも飲みながら楽しい時間を過ごしてるんじゃないか?」

「そんなことしてない。厳しくしてるもん。リリが店を出すときに経営で口出してた自分の自己紹介? 兄さんこそ経済の講義だって言いつつ、甘やかしてるんじゃないの?」

「私は甘やかしてなんかいない」


 にらみ合ったままバチバチと火花を散らすニ番目と三番目に、あらあらと困った顔をしたジョセフィーヌが仲裁する。


「二人とも、リリの取り合いをしないの」

「俺は母さんこそリリを甘やかしてそうで心配だが」

「あら、私は音楽に関しては身内びいきはしないと決めてるのよ!」

「兄弟の中で唯一音楽の才能があるからと、リリをいつもベタ褒めしてる方の言葉ですからね……いまひとつ信憑性が」

「ウィルフレッドこそ、少しでも一緒に過ごす時間を作りたいからって、いい加減リリに武術を仕込むのはやめなさい。護身ならもう十分でしょう、リリが怪我したらどうするの」

「俺が教えるときは十分に注意してますし、何よりあの才能なんですよ? 性別を理由に取り上げるなんて時代遅れだ」

「じゃあ他の人が教えるんでもいいのかしら?」

「ダメだそんな! ……いや、俺が教えたいからではなくて、可愛いリリに騎士とはいえ男を近づけるのは……」


 言い訳をするウィルフレッドの姿に、兄姉は「仕方がない奴め」という顔をする。


「アルフォンス、昼夜逆転してるお前はリリと生活サイクルがずれてるくせに余裕だな。お前もリリとしばらく口を利いてないんじゃないのか?」

「ん? 俺はね、明日の朝にリリの新作を添削指導することになってるから。その時たっぷりリリを摂取できるからいいんだよ」

「まったく、お前も自慢か……稀代の小説家A・Aが手ずから文章を指導するなんて、お前のファンが聞いたら嫉妬の嵐が吹き荒れるな」

「いやいや、アネット・Jのファンとしてこれは俺の趣味でやってるんだよ」

「それよりも、お前がリリの起床時間に合わせて起きられるのか?」

「大丈夫、実はさっき起きたところでね。このまま朝まで執筆と、リリの新作を読んで校正も入れるつもりだから」

「不健康な奴め」


 長男が嫉妬半分で弟をいじる横で、国内で最強の魔導士と呼ばれる公爵閣下は寂しそうに、「リリが魔法の指南を受けたがるような用事は何かないか?」と家令に確認をしていた。


「まぁでもアンジェリカよりは恵まれてるだろう。なんたって私は同じ屋敷で暮らしているわけだからな……」

「いや、アンジェリカは王太子妃としてリリにまた肖像画の依頼を出してたからしばらく定期的にリリを独り占めするんじゃないかな」

「なんだって? そんなもの、リリに会う口実じゃないかどう見ても! おのれ職権乱用しおって……」

「まぁでも、リリは実際あの年で王宮のお抱え絵師に並ぶような絵が描けるんだからすごいよ」

「いいや、それもあるが口実に決まってるだろう! 第一絵ならアンジェリカが自分で描けばいいじゃないか! もちろんリリの描いた絵はアンジェリカの作品にも迫るような素晴らしいものだが……」

「それはそうだけど」


 画家として、海外にも出店する大人気ブランドを立ち上げたデザイナーとして有名な王太子妃。その長女と勝るとも劣らないと言葉を尽くして賛辞を贈り、盛大に末っ子を可愛がる父の言葉に、その妻と子供たちは微笑ましいものを見る目を向けた。


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