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あのあと私は、何をどう答えて、どう帰って来たか覚えてない。小さい声でもにょもにょ何か喋った記憶はあるけど……、でもとりあえず「はい」って返事はしたんだと思う。
何故かというと、ビスホス侯爵家の夜会で着る衣装合わせについてフレドさんからその日のうちに連絡が来たからだ。
「フレドさんはジャケットの裾。リアナ様はスカートの縁に同じモチーフの刺繍を入れるんですね~。光の加減で見える模様なんて面白いですね。きっと素敵な衣装になりますよ! でもスカートの裾に一周となると結構大変ですねぇ。私も手伝いましょうか?」
「だ、大丈夫。自分で出来るから……」
「あらあら、そうですよね。ご自分でやりたいですよね。失礼しました」
何だかニコニコ上機嫌のアンナに、そうじゃないとか違うとか反論する言葉が咄嗟に出てこなかった。
私が顔を赤くしてる間に、アンナは鼻歌を歌いながら部屋を出て行ってしまう。刺繍の図案を考えていた私は、「手分けして刺繍するとどうしても刺し手が代わった箇所で縫い目に出るし……」なんて、やっと内心言い訳をしていた。
「琥珀も……あの、フレドさんの主催する夜会に招待されてたよね? ねぇ一緒に行かない?」
「えー。琥珀とアンナは断ったじゃろ〜」
リンデメンで表彰されたあのパーティー、あれは平民もたくさん呼ばれていたし大分フランクな形式だった。
あの時は概ね楽しかったようだが、有力者の長い話に捕まった時間もあって、あの時より堅苦しい場所はゴメン被る、と琥珀は断ってしまった。
アンナは私の侍女としてついてきてもらう予定だったのだけど……元々ミドガランドの夜会の付き人のマナーに不安があると言っていたのと、私がフレドさんと一緒に参加する事で付き人が必須でなくなったために「リアナ様の身支度に専念したいです」と辞退したのだ。
二人、って形で参加するなんて今から考えても心臓がおかしくなっちゃうのに……こうして放り出されて、私は不安で変な事ばかり頭に押し寄せてしまう。
どうしてフレドさんは私の事をパートナーに誘ったんだろう、とか……。
いや、もちろん理由には心当たりがある。クロヴィスさんが言ってた通り、人造魔石で注目されてる私に、変な縁談が舞い込まないようにしてくれてるんじゃないかな。
次期当主としてのお披露目の場で隣にいたら、周りは勝手に勘違いするだろうし。
よりによってどうしてこんな、後から訂正しづらい方法を選んだんだろう。そればっかり気になってしまう。
もちろん、私に不満はない。不満はないというか、あの……すごく、楽しみだけど。家族以外の男の人とパーティーに参加するなんて初めてだからソワソワしてしまって。そもそもクロンヘイムでは成人してなかったから夜会に出た事はないのだが。
いや、初めてだから楽しみという訳ではない。デビュタントの準備は進めていたが、別にこんなに待ち遠しさはなかった。同級生達はとても楽しみにしてたけど……。
ビスホス侯爵家の夜会、その日が来るのがちょっと怖いけど、でも楽しみだって気持ちの方が強い。どうしてこんなに心が乱されるんだろう。私は悶々とした日々を過ごす。フレドさんとその後も何度か顔を合わせたけど、その度「待ち遠しい」と「ちょっと不安」がそれぞれ強くなっていくだけで、どうしてなのか……正解は分からなかった。
「それではリアナ様、久しぶりの礼装ですね……腕が鳴ります!」
「ほ、ほどほどにね。じゃあ……お願い、アンナ」
「はい、任せてください!」
そうして悶々と日々を過ごしていたら、いつの間にか夜会当日になってしまっていた。まだ日は高いが、夜会で着るようなドレスというのはとても準備に時間がかかる。
私は主催者のフレドさんのパートナーとして参加するのもあって、こうして昼の内からやって来て侯爵家の一室をお借りして着飾っていた。
普通はこういった準備に侍女やドレスメイドが数人は必要なのだけど、アンナは全部出来るのでとてもすごいと思う。
久しぶり、でも懐かしい。湯舟の中で丸洗いされて、爪の先までピカピカに磨かれていく。この日のために半月前から「指や爪が痛む事は禁止です」と、鍛錬だけでなく水仕事や錬金術の実験もアンナに制限されていたのだが、そのかいがあっただろう。
「こうして、お嬢様のデビュタントの仕度が出来るなんて」
鏡台の前に座って、私の髪を整えながら乾かしていたアンナがぽつりと呟いた。リアナ様、ではなく家に居た時の呼び名がアンナの口から出る。
「表彰式の度私がお嬢様の身支度をさせていただきましたけど……毎回、期待して、でもどこか諦めた笑みを浮かべてましたね。でも、今日はこんなに楽しみに……嬉しそうなお顔をされたお嬢様がいる。私はその事が何より喜ばしいです」
「アンナ……」
「あらあら、瞼が腫れちゃいますよぉ」
こんなに、私の幸せを喜んでくれる友人がいて私は幸せだ。
「アンナが……私の侍女で、親友でいてくれて、良かった。……ありがとう、一緒に居てくれて……」
「まぁ、そんな事言われたら私も泣いちゃいます」
鏡越しに目が合った私達は笑って、そしてちょっとだけ涙をこぼした。
「……さぁ、これで終わりですよ。もう目を開けて大丈夫です」
しばらく無言で化粧ブラシを構えていたアンナが、晴れ晴れとした顔をする。やり切った、と言うその表情に、私もつられて笑顔になった。
「ではリアナ様の準備が終わったとお伝えしてきますね」
その言葉に、途端にまたそわそわし始めてしまった。アンナが消えた後、あまりに落ち着かないので飲み物を……と思いかけて慌ててやめる。口紅が落ちちゃう。
この後は、ここにフレドさんが迎えに来て一緒に会場に向かう事になっている。他の夜会の参加者も次々と到着していて、屋敷の中は招待客を迎える使用人達の高揚感が漂っていた。窓の外には空の端にまだかすかに西日が残っている。もうそろそろ夜会が始まる時間だ。
「失礼します」
ノックの後、アンナが入室してくる。許可を求められたので私は立ち上がって軽く頷くと、大きく開いた扉からフレドさんが入って来た。
…………わ、わぁ。かっこいい人だって、知ってたけど……。フレドさんが正装した姿って初めて見るから、衝撃がすごい。
かっちりしたシルエットの、光沢のある黒いジャケット。ラフな格好の事が多いフレドさんだが、今日は首元まできっちり覆うドレスシャツも着ている。
それに、髪型が。長い前髪がセットされて、オデコと両目が見えているのだ。何だか……その姿が見慣れなさ過ぎて、とってもドキドキしてきてしまった。
急に……顔が赤くなって、フレドさんの事を直視出来ない。
パッと顔を逸らしてしまった私に、「バシン」と何かをひっぱたく音が聞こえた。顔を上げると、腕を抑えるフレドさんと、軽く睨みつけるような目を向けているエディさんが、どうやら今のはエディさんがやったらしい。
「えっと……ごめん。見惚れちゃって……あの、すごく……綺麗だし、可愛くて……。その、月並みな事しか思い浮かばないんだけど……」
「ひゃっ⁈ へ、あ、あの……私も、フレドさん……すごくカッコよくて、い、いつもと違う格好に何か……落ち着かなくなっちゃって……」
「う、うん……」
「はい…………」
お互い向かい合ったまま、視線を床に落としてもごもごしてしまう。何言ったらいいか分からないよぉ……。そんな私の耳にアンナとエディさんの大仰なため息が聞こえたかと思うと、パンパン、と手を叩く音が部屋の中に響いた。
「はいはい、フレデリック様。リアナ様も。招待状に記載された時刻が迫ってるんですよ」
「お、おう」
エディさんに急かされたフレドさんは、きりっとした顔になると私に向けて手の平を差し出した。
「えっと……リアナちゃん。エスコートさせてもらってもいいかな?」
「はい……」
手袋の布越しに、私よりも大きくて厚みのある硬い手の平の感触がした。
また変な事を考えたせいで意識してしまって、白い手袋に目を落としたまま顔が上げられなくなってしまう。
それから私は、ビスホス侯爵家のホールの隣にある控室まで、どうやって歩いて行ったか記憶がまた飛んでしまった。絨毯のせいではない、ふわふわした感覚で歩いているのをフレドさんの手が支えてくれたのは覚えているけど。
「……えっと、リアナちゃん。アンナさんから聞いたんだけど……リアナちゃんが、何か……俺が夜会のパートナーにしたの、リアナちゃんの虫よけ目的だと思ってるって……」
控室に入った後、エディさんはパーティーの最終準備にと他の使用人に指示を出しに消えてしまった。部屋の中にはフレドさんと二人きり。私は緊張して何も話せなくて……しばらく無言のまま時間が過ぎていた。ほんの短い間だったような、すごく長い時間が経ったような、私は自分の中でぐるぐる考え込んでいた意識がフレドさんの声で浮上する。
「え、違うんですか?」
「ちが……わないというか。目的の中に、『変な男がリアナちゃんに寄って来ないようにしたい』ってのがあるってだけで。……ごめん、今夜のパートナーになってもらっただけで、ハッキリ言ってなくて。リアナちゃん、」
「は、はい……」
真剣な声色のフレドさんに、私も思わずきゅっと指を握り込んだ。
「俺と……」
「フレデリック様、リアナ様。お時間です」
フレドさんの声は、ノックの音で中断された。ガバッ、と顔を上げて恨みを込めた目を向けている。
「ちょ……エディ、少し待ってくれ。今大事な話してたとこで、頼む外出て百数える間……」
「……はぁ? この期に及んでですか? 申し訳ありませんが、待てません。どんだけ時間あったと思ってるんですか」
エディさんに追い立てられるように、私達は控室を後にする事となる。
私はさっきフレドさんが何を言おうとしていたのか、緊張でぐるぐるしていた頭が余計に混乱して……これから大勢の人の前に出なくちゃならないしで、まだパーティーは始まってないというのに既に一杯一杯になってしまっていた。