何も見えてない
彼らが溺愛している、末娘のリリアーヌが忽然と姿を消した。
意識を失っていた末娘が目覚めるまで葬式のように悲愴な空気の満ちていたアジェット公爵家は、一度回復に沸いた反動でより深い絶望の底に叩き落されている。
いくつかの不運も重なったが、リリアーヌの専属侍女のアンナが「お嬢様はまだ眠っておいでです」とやんわり遠ざけていたため発覚が昼も過ぎた頃まで遅れたのも大きく、公爵家の全力をもって調査に当たっているが未だ足跡すら辿れていなかった。
リリアーヌが意識を失ったまま屋敷に運び込まれた日は朝まで付き添い眠れぬ日を過ごしここ数日もまともに眠れていなかったアジェット夫人は、この事件を受けてとうとう倒れてしまい、夕刻までベッドから起き上がれなかった。
リリアーヌが残した家族に宛てたあまりにも短く事務的な内容の手紙も、末娘の突然の家出に動揺する彼らの心を苛んでいた。
嘆いてうずくまる前に行方の分からなくなったリリアーヌを探すのが先だと家族全員が動いたものの、一日が終わろうとしている今でも、誰も何の成果も持ち帰れていない。
名高い錬金術師のコーネリア自身が作って屋敷に設置した結界・警報装置をガードの甘い内側から一か所、ほんの一瞬穴をあけるように空白が生じた形跡。たったそれだけ。「これが出来る心当たりがリリくらいしかいない」と製作者が断言したそこから出た後、リリアーヌの足取りは一切掴めていない。
足取りを掴めるような、魔力や痕跡の残る魔法が使われておらず、人の目や証言を辿るしかないのだがそこから手詰まりになっていた。
家の魔導車を動かすようなことはしていなかったが、貴族令嬢が真っ先に思いつきそうな移動手段である運転手付き魔導車の手配所も、王都と各都市を結んで一日数度往復する相乗り魔導車の停留所、ほか移動手段として考えつくものには全て捜査の手を入れていると言うのに。
もちろん徒歩移動も捜査範囲に入れた。しかし、ならば当然出るはずの目撃者もいない。リリアーヌの事は伏せたが、近隣の街と王都に置いた公爵家の検問からは変装を考慮に入れても「それらしき人物」すら報告に上がってこない。
屋敷を出た後まるで突然消えてしまったかのようにリリアーヌはいなくなったのだ。
今にも自分自身が王都中、国中すべてを駆け回ってリリアーヌを探しに行きたい。そう思っているのが見て取れる表情を彼らは浮かべていた。手は尽くしたが何も得られず、焦燥感だけ膨らむ。この場にいないアンジェリカも同じだろう。
未成年とは言え書置きが残されていたため事件性はないと初動が遅れたことを周囲は悔やんでいた。自発的な家出であるとはいえ、いつ事件性のある失踪に発展するか、誰もが不安に押しつぶされそうになっていた。
「ああ……悪かった、リリアーヌ……私が、プレッシャーをかけすぎたからに違いない」
「どういう事だ?」
ソファにうなだれて座ったまま、膝に肘をついて両手で顔を覆った当主の声にウィルフレッドが反応した。自戒するようにぽつぽつと語り始めた言葉に、他の家族が反応する。
「狩猟会の前に、魔法の鍛錬をしていたリリに声をかけた事がプレッシャーになったのかもしれない。……怪我をしないようにと思ってだったが、期待に応えないとと考えたのか。それがあそこまで大きな事件になって、いたたまれなくなってしまったのでは」
公爵は「無様を見せるな」という言葉を使った事は伏せて、自分の責任として嘆いた。
「いいえ……わたくしがリリにニナの事を伝えていなかったのが悪かったの。突然義妹ができるなんて話、ずっと末っ子で家族に溺愛されて育ったリリにとって面白くないだろうと思ったら伝えづらくて。音楽祭の準備に忙しくしていたらいつの間にかもう伝えたものと思い込んでしまったわたくしが……きっと、リリはわたくしからないがしろにされたと感じてとても傷ついたのだと思うの」
儚げにハラハラと涙をこぼしながらアジェット夫人はリリアーヌへの謝罪を口にする。
「誰よりもリリアーヌの味方でいないとならない母親のわたくしが、突然養子にした娘にかかりきりになっていたから、きっと思いつめてしまったのね……ごめんなさい、リリアーヌ」
「いいや、俺こそ。リリが事情を聞かされてないなんて知らずにニナへの対応を責めてしまった。俺が傷付けてしまったんだ」
「アルフォンス……」
彼らが口にする心当たりはどれも愛情に満ち溢れていて、そのすべてが見当はずれでいた。書置きの手紙を突き合わせて改めて推測を交換し合うも、内容は事務的な上に短すぎて何も読み取れない。
彼らは、リリアーヌを探すために動くことを優先して出奔を隠蔽するという多少の事情を知っていそうな様子を見せておきながら、口を一切割ろうとしなかった専属侍女のアンナに改めて聴取を行う事にした。短い書置きの中にはアンナがこの出奔に無関係であると明言されていたが、その理由に心当たりはあるだろう。
逃亡を防ぐ目的もあって本人の使用人部屋ではなく、古い家具の保管に使っているかつての反省室で謹慎させていたアンナを連れてくるようにと公爵は家令に鍵を渡した。
「どうか、お願いします! お嬢様をこのままそっとしておいて差し上げてください……」
嫁いだ長女以外の当主一家の前に連れてこられたアンナは、家令の指示に従い部屋に入ったとたんに彼らの前で絨毯の上に這いつくばってそう願った。
震えて、声には涙が滲み、主人一家に逆らう事がどんなに大それたことか理解した上で彼らの意に逆らってリリアーヌの出奔を隠蔽したのだと、その行動が語っている。
「あなたは、リリがなぜこんなことをしたのか知っているの……? 何か知っているならどんなにささいな事でもいいの、教えてちょうだい!」
「家族として案じる心があるなら、どうして……っ、どうか、もうリリアーヌお嬢様を解放してください……!」
娘を思う母の悲痛な叫びに、一瞬泣きそうに顔を歪めるがアンナは口を閉じる。昼は頑として何も話そうとしていなかったが、やはり何か知っていたのだと確信したリリアーヌの家族たちは、口々に自分達がどんなにリリアーヌの失踪に心を痛め、その身を案じているかを語って聞かせた。
解放とは何から、可愛い娘が、最愛の妹が、彼女はとても有能で魔法も剣も使えるがもしものことがあったら心配だ、いくら強くて賢いと言っても十五歳の女の子なんだと。今ばかりは使用人と主人一家ではなく、教えてもらえるなら何も咎めたりしないからと懇願する。
最初はいぶかしげだったアンナの顔は、その言葉を聞いていくうちにどんどん蒼白になっていった。
「何のことですか……? 一体何を言ってるんですか……?」
アンナはずっとリリアーヌの後ろにいて、リリアーヌと同じ光景しか見たことがない。
彼女は理解できないとばかりに首をゆるゆると横に振った。目の前の人たちが何について話しているのかわからない。それは彼らも同じようで、アンナが何故自分たちの「リリアーヌへの愛情」を疑うような態度を取るのか分からなかった。
「どうして。どうしてですか。……何故、リリアーヌお嬢様の事をそんなに自慢に思っていたなら、そう伝えてさしあげなかったんですか」
「君こそ何を言っているんだ。専門家としてリリアーヌの事を誰よりも評価していたのは私達ではないか」
「むしろ、わたくし達家族の愛情も称賛も一身に受けていたじゃないの」
そうだろう、と公爵が同意を求め家令を含めた使用人に視線を向けた先で、当然だと言うように頷く家令やそれぞれの専属執事・侍女達。もしかして自分は主人のリリアーヌが正当に評価されている、違う世界に迷い込んでしまったのではとすらアンナは感じた。
「評価も称賛も、公爵様達は一度もお嬢様に与えたことはありません」
「バカな。そんなはずはない」
「いいえ! 皆様はいつもいつも、リリアーヌお嬢様がどんなに頑張っても、どんな成果を上げても、ほんのささいな事を指摘するばかりで……! それとも、あれが褒めていたとでも言うんですか?!」
アンナの涙混じりの悲鳴が部屋に反響した後、アジェット夫人は心外だとでも言うように反論した。
「アンナ、あなた何の話をしているの? それではまるでわたくし達がリリを一切褒めたことがないみたいではないの」
「実際に、そうではありませんか。私は、皆様全員がリリアーヌお嬢様がどんな成果を出してもそれを一切褒めずにほんの少しのミスを責めてらっしゃる所しか見たことがありません……」
「そんなわけが……皆リリの事を溺愛して、いつもいつも、さすがに欲目が入っているのではと思うほど言葉を尽くして……」
「私は。……私と、あとお嬢様も。ご家族の皆様がリリアーヌお嬢様を褒めているところを一度も見たことがございません。一言でも、リリアーヌお嬢様本人を前にお褒めになった事はありますか……?! 無いでしょう……?」
「嘘よ……だって、あなたも、アンジェリカもジェルマンもコーネリアもウィルフレッドもアルフォンスも、いつもリリアーヌを溺愛ばかりして。だからわたくしは、わたくしだけは厳しいことも言ってあげなくちゃって、ずっと……」
「なんてことだ……ジョセフィーヌも……だと……?」
「親父とお袋も?」
「嘘、ウィルフレッドも?」
父と母のその言葉に続けた二人の顔は真っ青になっていた。それを聞いていたジェルマンとアルフォンスも、言葉は発していないが今にも倒れそうなほど血の気が引いている。
「私は、ずっとお嬢様が不憫でなりませんでした。あんなに素晴らしい成果を上げ続けているのにたった一言すら家族に褒めてもらえず。でも自分がまだ至らないからだ、きっと認めてもらえることが出来たら褒めてくれるからと頑張り続けていたお嬢様が……」
「なんてことだ……リリアーヌも。リリも同じように勘違いしていたのか?!」
「勘違いも何も。リリアーヌお嬢様は接していた通りに事実を認識しただけですよ……どんなに頑張っても、誰も一言も褒めてくれないご家族だと……。なのにその皆様が、ニナ様の事はささいな事も拾い上げてお褒めになるのを見て、どんなに悲しまれたか」
アンナが恨みをぶつけるように、隠したまま存在すら知らせていなかった自分宛の手紙を持ち出して公爵に突き付けた。各々が語ってるように「自分には特に懐いていたリリアーヌを傷付けてしまった」事が原因ではない。いくら頑張っても誰も褒めてくれない家族が、ニナには目の前で惜しみない称賛を与える。事件についてのリリアーヌの言い分も聞き入れられずにニナの言葉を信じた。それに耐え切れずに心が折れたのだと真実を語って聞かせた。
自分達へのものと違う、何枚にもわたる便箋でつづられた「手紙」を見て身勝手にも傷付く彼らは、アンナの手からひったくるようにそれを奪うとリリアーヌが泣きながらペンを走らせた文字を追って「違うんだ」「どうしてこんな思い違いを」「自慢の娘だと思って、そう口にしていたのに」と後悔を口にしている。
「こんな事……違うわ……ニナの事を全面的に信用したわけじゃなくて、言い分が違うのは、一度調べてから対処しようと……リリだけでなくニナも錯乱してたでしょうし、意識も記憶も確かではなさそうだからと思って……」
「確かに、奥様はそうおっしゃっていましたが、それをあの後お嬢様に伝えましたか……?」
「それは……!! だってあの場では、話を聞くよりもまず休ませてあげたくて……!」
「そんな、そんな……私がリリの事を褒めたことが無かっただなんて、嘘だろう?! なぁ、セバスチャン! お前はいつも親バカだと私に呆れていたじゃないか!」
「か、閣下はリリアーヌ様の魔法を、確かに、いつもおそばにいる私が呆れるほど褒めていました……けれど……リリアーヌ様の前でその称賛を口にしているところは……今考えると、無かったような……」
「嘘だろう?!」
「人前では厳しいことも口にするけれど、私どものいない場で……家族だけの団欒や二人きりの時などにお褒めになっていると、そう思っていました……」
彼らは段々と、「周りの家族は甘やかしてばかりだろうから自分くらいはリリアーヌに厳しくしないと」と全員が考えて、全員がリリアーヌに必要以上に厳しく接して、実際は誰も褒めた事すら無かったのに今初めて気が付いた。
リリアーヌからは、家族の愛情は見えなかったのだと知って全員血の気が引いて、女性二人は立っている事すら出来なくなって、それぞれ慌てて使用人に支えられていた。
「お前達はリリを甘やかすことしかしていないから、私は心を鬼にして厳しいことを言っていただけなのに」
「あなたこそ、優秀なリリは鍛錬もほどほどでいいなんて言って。だから、魔術鍛錬の時間もきっと遊び半分だろうから、わたくしくらいはとあえて厳しく教えてたのよ、なのに……!」
最愛のはずのリリアーヌになんてつらい境遇を強いていたのだろうとやっと自覚に至った彼らは思い思いに嘆いた。
その声を聞いて、自分の敬愛している主人の成果を何故ご家族は認めてくださらないのかとずっと気にかけていたアンナは、その理由のあまりの身勝手さに呆れて、今更悲しんで見せる彼らを冷めた目で見つめた。
愛しているが故に厳しくしていたのに、それが伝わっていなかったなんてと、自分を憐れんでいるようにしか聞こえない。
「こんなくだらない理由で、リリアーヌお嬢様が一度も褒めてもらえず悲しんでおられたなんて」
不満をぶつけることもなく、ただ家族に褒めて欲しいとずっと努力していたリリアーヌを思うとあまりにも切なくて、アンナは泣きはらした目でまた一筋涙をこぼした。