カウントダウン
(今日がラストチャンスなんだから)
佐保はシャープペンシルを握りしめて、そっと顔を上げた。
教室の前では、講師の朝日奈先生がホワイトボードに板書をしながら二次関数の問題の説明をしている。
二週間にわたる「夏の学力アップ集中講座」も今日で最後になる。
一学期の通知表を見るなり、ほとんど強引に駅前の予備校の「数学・理科特訓コース」というのの受講を決めてきた父のことを最初は恨めしく思ったものだった。
が、今はその父に感謝しかない。
(だって朝日奈先生に出会えたから!!)
佐保は予備校のクラスの担当になった、朝日奈市哉先生に初日の授業で会った瞬間からひとめ惚れをしていた。
ひとめ惚れ──というのは正しくないかもしれない。
正確には、初回のその授業で佐保が床にバラまいてしまったペンケースの中身を先生が拾ってくれたその瞬間に恋に落ちた。
「免疫なさ過ぎ。いくら女子校だからってさー」
同じ授業を取っている夏実はそう言うけれど、そうではないと佐保は思う。
免疫がないから、ペンケースを拾ってくれたくらいで恋に落ちたわけではない。
相手が朝日奈先生だったから恋に落ちたのだ。
第一印象は「大きなひと」だった。
朝日奈先生は身長が182㎝もある。
なぜ、正確な数値が分かったのかというと他校のバスケ部だという男子が
「先生、身長何センチあんのー?」
と無邪気に聞いてくれたからだ。肩幅も広くて、体つきもがっしりしている。
先生が教室の前に立つとホワイトボードが小さく見える。
朝日奈先生は、あまり授業と関係ないことは話さない。
黙々と授業をすすめて、生徒に積極的に話しかけたりもしないので女子からはあまり人気がない。
先生は「皆の今の時点での理解度を見たいから」と初回にテストを行った。
「え~!?」「いきなりかよ~!」とブーイングの声があがってもいっこうに意に介した風もなく、さっさとテスト用紙を配った。
となりの席で夏実が、「うわ、今回ハズしたかも」と呟くのが聞こえた。
夏実は春休みにも、ここの予備校の短期講習に通っていて、その時の先生は「超かっこよくて面白い」若い男性の先生だったのだそうだ。
今回もその先生のクラスにあたることを期待していたのだろう。
それにしてもクジ引きじゃあるまいし「ハズした」は失礼な言い方な気がする。
「ほら、そこ。早くテキストしまって」
ぐずぐずと文句を言っていた女子二人組を先生が注意する。
二人はあからさまに不満げな顔で、顔を見合わせながらテキストを机にしまった。
(でも確かにちょっと怖そうかな……)
一重まぶたで切れ長な目元のクールな顔立ちの先生は、黙っているだけで少し怒っているみたいに見える。
佐保がペンケースを机から落としてしまったのは、そういう感じでテストが始まって十五分くらいたった頃だった。
問題用紙のページをめくろうとして手が当たってしまったのだ。
机の端に置いていたのがいけなかった。
悪いことに、その時はたまたまファスナーを開けっぱなしにしていて中身のペンや消しゴムがあたりに散乱した。
試験中に何か落とした時は勝手に拾ってはいけない。
手を挙げて、試験監督の先生に拾って貰わなければいけないことになっている。
佐保は自分のドジさ加減を呪いながら、恐る恐る先生の方を見た。
手をあげるまでもなく、派手な物音で事態に気づいたらしい先生がこちらへ歩いてきてくれた。
「す、すみません……」
おずおずと手を挙げかける佐保を、片手で軽く制して机の下に屈みこみ散らばったものを拾ってくれる。
替えのシャープペン、色ペン、蛍光ペン、定規、消しゴム……順々に物が机の上に並べられていく。
消しゴムは奈良の観光協会のキャラクター「しかまろくん」のイラストが入ったものだった。
それを手にした時、先生がふっと笑った気がして佐保はかあっと頬を熱くした。
もっとシンプルなデザインのものにしておけば良かった。
最後にペンケースを手渡されて、佐保は机におでこがつく勢いで深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございました……っ」
「いいえ。どういたしまして」
その声は思いのほか優しかった。顔をあげた佐保が見上げると、
「可愛いな」
先生がぽつっと言った。
「え……っ!?」
思わず大きめの声が出てしまった。
先生はびっくりした顔をして、人差し指で佐保のペンケースを指した。
「いや、これ」
ペンケースのファスナーの金具には、佐保がつくったつまみ細工の紫陽花の飾りがついていた。
(えっ、あ、そっち……?って、そりゃそうか)
「あ、りがとうございます……」
ぼそぼそとお礼を言うと、先生はしいっと人差し指を口の前に立てるゼスチャーをしてみせてからちょっと笑った。
「あと三十分。頑張って」
その時の笑顔と、声を思い出すだけで今でも息が止まりそうになる。
あの日からずっと、佐保は朝日奈先生に恋をしている。
朝日奈先生は、アルバイト講師である。
本業は大学生で県内の大学に通う、大学二年生だ。
専攻は史学というか考古学というかいわゆる文系だけれど、中学生のクラスくらいなら全教科見られるということで今のクラスを担当している。
と、上記のことはこの二週間の間で友人たちのネットワークを駆使して調べ上げた情報である。
佐保が受講している「夏の学力アップ講座」二週間コースは今日が最終日である。
つまり、佐保が確実に、定期的に先生に会うことが出来るのも今日が最後なのだ。
今日を逃せば佐保と先生は赤の他人になってしまう。
いや、今でも十分赤の他人なのだけれど、「予備校の先生とクラスの生徒」という儚い繋がりさえ今日を境になくなってしまう。
それでもここに通ってさえいれば、よそながら先生のお姿をみつめることが出来るかもしれないと正規クラスへの申し込みも検討した。
けれど、あろうことか朝日奈先生は友人に頼まれた臨時のピンチヒッターで今回のクラスを担当していただけで、佐保たちのクラスが終わるのと同時にアルバイトも終了してしまうのだという。
つまり今日を境に、先生とは会うことが出来なくなるということだ。
それを知った時、佐保はショックを受けた。
そしてそのショックのなかで決意した。先生に告白しよう、と。
本当のことを言うとそんな怖いことはしたくない。
これからもずっと、大好きな先生を影ながらみつめながらこっそりとドキドキとときめきを楽しんでいらればそれで良かったのだ。
けれど、もう会えなくなるかもしれないと思った瞬間。
自分のなかから驚くほど強く「嫌だ」という気持ちが湧き上がって来た。
これからも先生に会いたい。ずっと見ていたい。
「赤の他人」の佐保がそれを果たすには、個人的に先生と「お知り合い」になるしかない。
佐保は先生のことが好きなのだから、この場合「彼氏」になってもらうのが一番理に適っていると思われた。
佐保はもう一度シャープペンをぎゅっと握って、そっと先生の方を伺う。
日に灼けた愛想に欠ける顔も声も、話し方も、大きな背中も、マーカーを持つごつごつした大きな手も全部好きだった。
授業が終わるまであと十分。
終業のベルが鳴って皆が立ちあがったらまっすぐ先生のところへ行こう。
「質問したいところがあります」
と言って教室に残って、それで自分の気持ちを伝えよう。
結果がどうなるか分からないけれど、でも自分が先生のことを好きだと思っていることだけは伝えよう。
「やらずに後悔するより、やって後悔した方がいい」
と以前に呼んだ自称・恋愛の神様だという小説家のエッセイにも書いてあった。
あと八分。
七分……六分。
結果がどう出るにせよ、「先生」であるあの人をこうしてみつめていられるのはあと僅かな時間なのだ。
佐保はテキストを読み上げていく先生の声を聞きながら、静かに深呼吸した。