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此の掌に貴方を。  作者: 桜惡夢
第一章  血と泥に塗れど芽吹く
9/100

   9話


 時は変わらず流れ行き、孫権と圭森が出逢ってから一ヶ月が経っていた。

その間も続く二人の関係は良好な状態であり、周囲が当初に見せた戸惑い等全く気にしていないかの様に。

順調そのものである。


そうなる要因は何か。

互いに恥ずかしい所を見せ合ったからなのか。

二人の距離感は初対面から例外的に近かった。

勿論、圭森にしてみれば、見た事には異論は無いが、“見せた”覚えはない。

寧ろ、その点だけで見れば圭森は被害者でしかない。

相手が美女(孫権)であり、彼自身が男だから問題視をしていないというだけで。

立場が逆なら大問題だ。

ただ、孫権が自分の責任と理解している点も大きい。

身に覚えの無い事を理由に八つ当たり等をされては、堪らないだろうから。


兎に角、そういった背景が有ったにせよ、普通よりも二人の関係は気安い。

互いに、一応は“線引き”をしているのだろうが。

それでも親しいのだ。

尤も、それによって誰かが困るという訳ではない為、問題には為らない。

それ所か、二人にとっては良い方向に影響している。


姉妹に比べ、厳格さが強く印象に残る孫権に対しては近寄り難さが有る。

不機嫌な時の感じとは違う“見えない壁”の様に人を遠ざけ、拒む様な雰囲気を彼女は纏っていた。

それが圭森と出逢ってから軟化しているのだ。

勿論、孫権が腑抜けた様な意味合いではない。

常に張り詰めていた彼女の周囲の空気が穏やかさを、日溜まりの様な暖かさを、花が咲く様な朗らかさを、優しく帯びる様に為った。

それは彼女自身が精神的に余裕を持てる状態に為った事を意味している。


一方で圭森は孫権と親しいという事から、周囲からの嫉妬や悪意を受けそうだが──意外にも逆だった。

そういった感情を懐く者が居ないという訳ではないが大多数は彼に感謝を懐き、同時に尊敬も集めた。

少々不可思議ではあるが、それは孫家の体質が忠誠心溢れる物だからだろう。

そんな状況に加え彼自身の性格が基本的に誠実が故に周囲との関係は自然と良い状態を構築していた。


現状、当の二人を取り巻く環境は本人達が思う以上に良い物だったりする。

寧ろ、周囲の方が今の方が良いと支持するだろう。

それ故に、現状の要である圭森を快く思わない者など孫家には居なかった。

庶民との間も、差別せずに接する圭森は軋轢を生まず好意的に受け入れられて、慕われる様に為った。


圭森が意図した事ではない結果ではあるが、基本的に“反感を買わない様に”を第一と考える協調性体質の日本人らしい思考と言動が上手く填まった形だ。

そして、そんな雰囲気こそ“孫家の思想”を反映する日常風景でもあるのだが。

当の本人は知らない。

最も身近な孫権でさえも、まだ気付いてはない。

ただ、それを無意識にでも日常(当たり前の事)として実現出来ている。

その事実が重要であって、真相は二の次だ。




その日の天気の具合位しか目立った違いの無い朝が、いつも通りに訪れる。

既に日課と為った孫権との早朝鍛練を済ませ、朝食を摂り終えると圭森は孫権の側を離れていた。


向かった先は兵の詰所。

その扉を開け、はっきりと大き過ぎない程度の声量で挨拶をしながら中に入る。

すると、振り向いて圭森に近付いてくる男が一人。



「おっ、何だ圭森、今日は此方に来てるのか」


「ええ、そういう事なんで宜しくお願いします」


「特別扱いはしないぜ?」


「したら怒りますよ?

俺も、勿論、仲謀も」


「まあ、そうだろうな」



互いに冗談だと判った上で軽口を叩く様に交わされる何気無い二人の会話。

特別な内容ではない。


しかし、少々可笑しな事に気付かないだろうか。

如何に一侍従とは言えど、主である孫権が対等とする圭森に対し、相手の態度は気安過ぎるという事に。

事実、圭森と初対面である詰所内の数人は顔を青くし焦りを滲ませている。

ある意味、そんな彼等こそ真っ当な反応だと言える。


ただ、これは何も可笑しい事ではないのが現実。

何方等も可笑しくはない。

何しろ、当の二人は圭森が正式に孫権の侍従と為った日からの付き合い。

孫権を除けば圭森にとって一番気心が知れた相手。

それが目の前の男。


姓名を黄範、字は叔規。

農家の三男の出で、今年で二十八歳に為る妻帯者。

四歳の一人息子が可愛くて仕方無いらしい。

愛妻家だが、愛する妻には絶対に頭が上がらない。

何しろ幼馴染みでもあり、本当に昔から世話を焼かれ迷惑・心配も掛けてきた。

愛するからこそ、彼は妻に逆らう事は出来無い。

尚、恐妻家ではない。

その辺りは似て非なる物。

一緒にしては為らない。



「昨日は確か、李覚の所に行ってたんだってな?」


「…何か言ってました?」


「ああ、「もし正式に配属されるのなら是非とも…」だってよ、この人気者」


「あははは…」



黄範の答えに苦笑を浮かべ何も言わずに誤魔化そうと圭森は視線を外した。

その辺りの話題は圭森には色々と不都合だからだが、黄範や傍観者達が知る事は先ず無いだろう。


尚、李覚とは黄範の同期で飲み仲間でも有る同い年の男性の文官である。

此方等も妻帯者で、黄範の息子と同い年の娘が居り、その娘が黄範の息子の事を気に入っている為、色々と複雑な心境だったりするが親友よりも、奥さんの方に似ている点で妥協。

しかし、父親の心境的には引き離したいらしい。


そんな李覚が所属するのが民から上がる陳情に対して解決・対処の方法を思案・献策する部署になる。

地味だが能力が要求され、応用力が無いと直ぐに詰む軽い地獄絵図を日常とする胃腸的苦労人(強者)揃いの部署である。

軍師の様な高度な俯瞰より庶民的な感覚が物を言うが中々人材の居ない部署で、常に増員を望んでいる。




さて、何故、圭森が孫権の側を離れて違う職場に顔を出しているのか。

それは圭森が希望した事。

孫権の側に居るだけでは、見えない事が有る。

だから、孫権の侍従という立場のまま、他の部署への転属の可能性を視野に入れ色々と体験してみたい。

それが圭森の言った理由。


勿論、本命は情報収集する機会の増加と、圭森自身の情報網の構築と拡大の為。

孫権の側に居れば、重要な情報は入手し易い。

しかし、噂話の範囲の事は中々耳に入らない。

それは当然と言えば当然。

孫権の耳に下らない噂話を入れるという真似をする。

そんな事は先ずしない。

孫権は暇ではないのだから無駄は省くのが当然。

尤も、孫権(主)の方が話に興味を持って訊ねるのなら別の話なのだが。


兎に角、そういう理由から圭森は孫権に頼み、色々な部署を職場体験的な感覚で回る事が出来ているという状況だったりする。

そして今日は黄範の部署、所謂、警備部隊に来ているという訳だ。

そういった事情を知らない面々に簡単に説明し終え、圭森は黄範達と共に警邏に同行して街へと向かう。


圭森に向けられる民の目は驚きと困惑を孕む。

それも当然だろう。

基本的に黄範達は軍隊──軍属の身である為、彼等は仕事中は民から畏怖され、距離を置かれるもの。

其処に兵士でもない人物が同行していれば、真っ先に“罪人”と思うだろう。

次いで、要人である。

後者の場合、身形等からも判るのが普通だが、圭森は特に“それらしい”格好をしてはいない。

庶人と大差無い格好だ。

それに加えて、拘束された様子も無く、兵と親し気な雰囲気で歩いている。

初見では理解出来無い民が多いのは当然だと言えた。



「最近、目立った問題って何か有ったりしました?」


「んー…目立つ様な問題は特には無かったな…

まあ、酔っ払い同士の喧嘩なんかが多いが、それ位が大きな事件っていう辺り、街が平和な証拠だな」


「程度にも因りますけど」



そんな他愛無い会話。

しかし、そんな内容ですら圭森にとっては重要な物。

例え、それが僅かな変化、気にも止めない出来事でも未来(可能性)を知っている為に判断材料に為る。

漢王朝の衰退と終焉。

その先に有る群雄割拠。

そんな中を生きて行く為に圭森は足掻いている。

“時代”という大きな波に乗り立つ事は出来ずとも、飲み込まれない為に。

“小心者”らしく、圭森は慎重に歩を進める。




黄範達との警邏を終えると昼食を摂り、報告書を纏め今日の仕事を終える。

夜番の者達への引き継ぎ後黄範に食事に誘われるが、圭森は断った。


それは朝夕は孫権と一緒に食事を摂る約束が有る為。

正確には約束というよりは自然に出来た習慣だ。


元々住み込みで孫権の侍従という立場だから、一日の大半を孫権と過ごす訳で。

態々別々に食事を摂る事に理由が無かった為だ。

勿論、身分を考えたなら、可笑しいのだろうが。

当の二人が納得している為誰も何も言わない。

言う必要も無かった。

その結果が現状である。

ただ、圭森の職場体験にて昼間は別行動に為るので、昼食以外は一緒、と。

そういう訳だったりする。


そんな訳で、圭森は一人で夕焼けに染まり始める街を屋敷に向かって歩く。

その一方で考え込む。



(俺が転生──したのかは未だに不明だが、アレから既に一ヶ月が経つ…

状況は悪くはないかな…

今の問題は原作開始までの正確な時期──猶予が全く判らないという事か…)



 俺の希望が通り、色々と情報を集められはしたが、本当に欲しい情報は未だに手に入れられてはいない。

ただ、判る事も有る。

それが物語るのは、恐らく原作では一番開始の時期が早いだろう魏ルートよりも前である可能性が高い事。

その理由は“天の御遣い”関係の噂が全く無いから。

伝達速度と話題性には多少地域差が生じるにしても、全く聞かないという時点で大きな違いだ。

しかし、“天の御遣い”が存在しない世界の可能性も十分に考えられる。

だからこそ、結論を急がず焦らない様に気を付ける。



(時間は少なからず有ると思っていいだろうしな…)



それは最初の山場であり、歴史上でも重要な転換期と言える“黄巾の乱”までの時間の事だ。

だが、無限ではない。

自分の身の振り方も真剣に考えなくては為らないが、それ以上に何処まで物事に関わっていくのか。

その程度を、どうするか。

それは先伸ばしにする事の出来無い問題。

その決断が何で有ろうとも早い方が時間が多くなる。

備える為の時間が。




屋敷まで戻った所で門前に佇む人影に気付く。

だが、門兵ではない。

そして、見間違う筈の無い特徴的な美しい髪の色。

夕映えに映える姿を見て、思わず見惚れてしまう。


そんな俺の視線に気付いたのだろうか。

何かを察した様な反応で、此方へと振り向いた。



「お帰りなさい、回朋」


「ただいま、仲謀

所で、何か有ったのか?」



門前に屋敷の主人でもある彼女が立っていれば流石に何か有ると気付く。

良し悪しまでは判らずとも何かしら起きたのだと。

そんな俺の思考を察して、彼女は苦笑を浮かべる。



「ええ、それが珍しい事に厨師長が体調を崩したの

それで、今日の夕餉は外で食べる事に為ったわ」


「厨師長って…え?、あの楊彦さんが?」


「その楊彦が、よ」



呆れている様子は無い。

ただ本当に珍しい事だから困惑はしている様だ。

──と言うか、付き合いが一ヶ月と浅い俺でも驚く。

楊彦、字は公聞。

四十二歳で、厨師長として既に十年の実績を持つ男。

自己管理にも徹底している人だけに、考え難い。



「夕餉を外で食べる事なら俺は構わないけど…

楊彦さんは大丈夫か?」


「心配は要らないわ

新しい食材を使った料理を試して“少し中っただけ”らしいから…」


「あー…らしいって言えばらしいのかもな…」



そう俺が言うと彼女の方も同意見だったらしく小さく頷いて肯定した。


腕も勿論凄いが、それより探求心の強さが凄い。

だから、こういう事自体は昔は日常茶飯事だった事を本人から聞いていた。

ただ厨師長に為ってからは味見は新米に頼んでいる、と言っていたから珍しい。


二人して、楊彦の家の方に顔を向けると、奥さんから説教をされている彼の姿を想像してしまったのを肴に並んで街へと歩き出した。




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