6話
つい、手が出てしまった事に関しては、私としても反省はしている。
しかし、言い訳をするなら私の反応は真っ当な物で、責められはしない筈だ。
恐らくは、大半の女性なら全く同じではないにしても似た様な反応をする筈。
余程、特殊な者だったり、相手に対しての何かしらの意図が無い限りは。
(そうよ!、何しろ、彼は手合わせの真っ最中に私の…その…む、むむ、胸を、わ、鷲掴みにするからっ…
仕方が無いじゃないっ!)
思い出すだけでも羞恥心で顔が、身体が熱くなる。
昨日今日と、彼と出逢って僅か二日にも満たないのに私の人生の中でも一・二を争う恥ずかしい事ばかりが続いているのは、何者かの呪いなのかと思う程。
本当に、恥ずかし過ぎる。
勿論、それを彼が態とした訳ではない事は驚いていた彼の様子からも判る。
判るけれど…それはそれ、これはこれ、である。
自分自身でも御し切れない感情による反応だから。
どうしようも無かった。
ただ、「せめて平手打ちに出来れば良かった…」と、今は冷静に考えられる。
実際には右手を握り締めた拳を彼の下顎に入れた。
恐らくは、自分の記憶でも最高と言える渾身の一撃。
それを、こんな形で放った自分に呆れるべきなのか。
その一撃自体を喜ぶべきか実に悩ましい所だ。
当の圭森はというと、私の隣で長椅子に仰向けで横に為っている。
私の一撃で気絶してしまい東屋に運んで来たのだ。
彼の部屋に運んで行く事は難しくはないのだが、運ぶ途中で誰かに見られたなら有らぬ誤解をされてしまう可能性を考慮して、此処に運ぶ事を選んだ訳だ。
それは、かなりの恩情。
状況を考えれば放置したり屋敷の外へと放り出す位は遣っても可笑しくはない。
人に因っては打ち首にする可能性だって有るもの。
けれど、そうはしなかった理由は彼が誠実だった為。
事態の状況を理解した彼は言い訳など一切せず、私の前で瞑目した。
普通なら、「今のは事故で他意は無い!」「違う!、今のは違うんだ!」という言い訳をし勝ちな状況で、彼は私の胸を触ったという事実を認め、私の気持ちを第一に考えて沈黙した。
抑、私の一撃も近接戦闘を得意とするであろう彼なら容易く避けるか、防ぐ事は出来た筈なのだから。
しかし、彼は一切逃げずに私の感情(一撃)を正面から受け止める事を選んだ。
その潔い姿勢を尊重して、私は彼の事を赦す。
正直な話、私が彼の立場で同じ状況に為ってしまえば私は言い訳をすると思う。
だって、如何に女にとって不快な事だったとしても、手を上げる事は理不尽。
本当に事故だったのだから相手の言い分も聞いた上で相手には謝罪をして貰い、それを受け入れる終わる。
そうすべきなのだけれど、やはり女性の気持ち的には簡単ではないし、男性側の自分の行為を正当化しようとする態度に腹が立つのも事実なのよ。
本当に難しい所よね。
そういう意味で言えば彼は本当に潔かったわ。
私の気持ちを考えてくれて理不尽な感情(一撃)を自ら甘んじて受け入れた。
中々出来無い事よね。
…それは兎も角として。
先程の手合わせでは素直に彼に驚かされた。
自分から言い出した位だ。
ある程度は、経験と実力は有るだろうと思っていたが想像した以上だった。
私自身、未熟ではあるが、決して弱くはない。
一対一でならば、其処等の子供の喧嘩程度の腕自慢や口先ばかりの官軍の将より遥かに増しだと言える。
だから、圭森には悪いが、負ける気はしなかった。
「彼を侮り、油断・慢心はしてはいなかったか?」と訊かれると…悩む所だ。
意識的にはしていなくとも無意識にならば、していたのかもしれない。
自覚が無いのだから。
ただ一方で仕方無い事でも有るのだとも思える。
“彼の事を知らないから”という部分も、少なからず有るのでしょうけど。
彼を見付けた時の状況──あの時の印象が強過ぎて、“そう為ってしまう程度”という彼への勝手な評価が出来てしまっていた為。
勿論、それ自体は事実には全く関係無い評価だけど、判らないが故に“勝手に”想像して補ってしまった。
その結果、生じた無意識の彼への評価を基準に置き、私は彼と対峙していた。
だから、負けてしまった事自体は納得している。
厳密に言うのなら、勝敗は有耶無耶に為ってしまったのかもしれないけど。
私としては、敗北した。
そう認識している。
……押し倒された時点で、実戦であれば私は死に体と言えるでしょう。
勿論、その部分に関しては彼にしても不本意…いえ、意図した事ではない以上は勝敗・評価に加える真似は望まないでしょうね。
ただ、その直前までで既に勝敗は決していた。
実戦であれば、死に体には為っていないのだから私の負けとは言えない。
飽く迄も、実戦であれば。
今回は手合わせだったから内容で評価し、決するなら間違い無く彼の勝利。
彼が腑に落ちなくてもね。
「……だけど、その所為で益々、貴男に対する興味と謎が深まったわね…」
気絶している圭森を見て、私は静かに苦笑する。
あれだけの実力者。
それなのに“何も覚えてはいない様な状態で見知らぬ場所に放置されていた”。
推測ですら困難だわ。
でも、彼自身も状況を全て理解してはいない。
“だから、彼は記憶喪失と言って隠している”。
きっと、どう説明するのが正しいのか判らないから。
私を信じる信じないより、信じて貰えるか、否か。
確証が得られない以上は、迂闊には話せない。
話すべきではない。
(……ええ、そうよね…
私が貴男の立場だったら、同じ様に考えるわ…)
そう考えて、当然。
見知らぬ地、見知らぬ人、訳も判らない状況。
理不尽に飲み込まれそうな異常な状況に居れば。
先ず、身の安全──自身の潔白さを示すでしょう。
その事に気付けたの多分、彼が誠実な人柄だから。
私に対して隠し事をする。
その事実が彼に“逃げる”という選択肢を拒絶させ、必要以上に潔く為る。
隠し事以外の全てに、彼は裏表無く有ろうとする。
それがきっと、彼の中では私に対しての彼なりの誠意なのでしょう。
…私が言うのも何だけど、不器用な人だわ。
でも、だからかしらね。
急速に彼に対して親近感を持ってきている。
勿論、それだけではなく、彼自身の人柄には個人的に好感を持てるのよね。
「………ぅっ……んぅ…」
「気が付いた?」
小さく開いた唇から漏れる呻き声の様な吐息。
ゆっくりと開かれる目蓋を確認しながら声を掛ける。
何度か瞬きした後、静かに右手を動かし自分の顔──私が殴った顎を触る。
そのまま口を半開きにして左右に動かしている。
……大丈夫、な筈よ。
ええ、外れてはいないわ。
それを確かめ終えると彼は身体を起こし──そのまま倒れそうになる。
反射的に手を伸ばし、彼の身体を支えた。
左右に頭を振った後、彼は「…大丈夫、有難う…」と言って、深呼吸をする。
不安に為るけど、今の彼の様子を見守るしかない。
私は医者ではない。
だから、先程の彼の反応が異常なのか判らないから。
暫くして彼は右手を握って自分の顎に軽く当てながら私を見て苦笑した。
「…あの状況で、あんなに良い一撃を貰うとはな…」
「………御免なさい…」
「いや、俺も悪かった
済まなかった、孫権
ただ…その…態とじゃない事は信じて欲しい…」
「ええ、判っているわ」
「…有難う」
「私の方こそ…っ…」
罪悪感から何度も謝りたく為ってしまう私の唇を彼の右手の人差し指が遮る。
触れる事はしないけれど、「もう十分だよ、だから、気にするな」と重なり合う眼差しが伝えてくる。
そして小さく口角を上げて笑って見せる彼に応えて、私も笑みを浮かべて頷く。
まるで物語の中の主人公と恋人の交わす一場面を見るかの様な遣り取りだけど、そういった事を、お互いに意識してはいない。
流れで、そう為っただけ。
其処に深い意味は無い。
ただ、それでも心の種は静かに萌ゆる。
じんわりと、胸の奥が熱を帯びて温かくなってゆく。
優しい、春先の日溜まりの中に居るかの様に。
胸に穏やかな、柔らかな、心臓とは違う小さな鼓動が脈動し始めている。
気付かぬ程、密やかに。
圭森の御願い──それは、孫権との手合わせだった。
其処には圭森なりの二つの意図が有った。
一つは孫権が察した様に、孫権に対して自分の価値を直に示す事で、信じて貰うという事だ。
付け加えるなら「側付きに為れれば…」という狙いも有ったりする。
だが、此方等は孫権の方が保護する旨を告げた時点で建前と化していた。
本命は、もう一つの方。
圭森は知りたかった。
この“今の自分”の実力が何れ位なのかを。
どの程度通用するのかを。
圭森は確かめたかった。
どうしても確かめなくては為らなかった。
それは生きていく上で必要不可欠な要素だからだ。
“原作(この世界)”を知る圭森にとって、今の時代に安穏と戦乱と全く無関係で暮らして行ける様な場所は何処にも無いという事実は確定している。
勿論、自分の考え過ぎなら万万歳なのだが。
その様な都合の良い期待を信じて生きる事は危険だと圭森は理解している。
だから圭森は生きる為に、知る必要が有った。
それも、孫権という乱世・群雄割拠の時代に、中心に立つ英傑の一人を相手に。
それ自体に意味が有る。
ある意味では彼女達こそが圭森の基準と為るからだ。
圭森は孫権から視線を外し静かに戦いを回想する。
(…集中してたから細かい部分は判らないけど…
全く何も通用しないって訳じゃないみたいだな…)
そう結論付けて、胸中で安堵の溜め息を吐く。
原作では実力格差が酷い。
ゲーム(そういう物)だから仕方が無い事なんだけど。
それが現実に為った場合は笑っては居られない。
彼女達寄りなら良いけど、一般人寄りなら絶望的だ。
その場合は、一番避けたい文官側に進むしかないが、其方等側は目には見えない殺り取りが有る。
その恐怖感は一般兵として戦場に立つよりも上回る。
だから、こうして通用する事が判ったのは大きい。
自分の右手を見詰めながら数度握る・開くを繰り返し──実感と共に笑む。
「──ちょっ!?、あ、ああああっ、貴男ねえっ?!」
「──へ?」
急に声を上げた孫権の方に弾かれた様に顔を向けた。
其処には両腕で自分の胸を隠して遠ざける様に身体を捻っている孫権が居る。
“あの時”みたいに孫権の顔は真っ赤だ。
…先程よりも数歩、距離が開いている気がするな。
「──って、違っ、いや、そういう風に見えない事も無いから勘違いされるのは仕方が無いけど!
俺はただ自分に出来る事が確かめられたのが嬉しくて遣ってただけで──いや、うん、俺が悪かった
孫権の好きにしてくれ」
俺は喋るのを止め、地面に正座して目蓋を閉じる。
全てを孫権に委ねて。
「切腹する心境ってのは、こんな感じかもな…」とか考えながら沙汰を待つ。
「誤解だ」と幾ら言おうがセクハラは被害者主観。
ならば、俺は加害者として甘んじて裁かれなくては。
例え理不尽だとしても。
「男は女に潔く在れ!」が死んだ祖父の教えだ。
──が、幾ら待っていてもビンタの一つも来ない。
放置プレイを疑う──が、側に息遣いは感じる。
孫権は其処に居る…筈。
自分から訊ねるのも変だし目を開けるのも不誠実。
ただただ姿勢を正したまま待ち続けるしかなかった。
──と、そんな中だった。
クスクス…と可笑しそうに笑う声が聞こえてくる。
“誰の物か”なんて考える必要さえ無かった。
此処には孫権しか居ない。
俺と孫権の二人だけだ。
他の可能性は無い。
その抑え、潜める様に笑う声からは怒りは感じない。
何方等かと言えば和やかな雰囲気が滲んでいる。
しかしだ、だからと言って俺から動くのは駄目だ。
仮に、孫権に揶揄われたのだとしても過失は事実。
絶対に覆りはしない。
だから、孫権からの赦しが出るまで只管に待つ。
……慣れない服に靴だから足の痺れ方が…エグい。
尋常じゃないが、耐える。
此処は男を見せる時だ。