2話
地平へと陽が沈み始め、世界を赤く染めてゆく。
そんな中、家路へと付いた人々の影が伸びてゆく。
一方に向かって長く重なる光景は“影の叢”の様。
それは実体を持たぬが故に黄昏の中に在って、一際に不気味さを感じさせる。
しかし、そんな事を人々が気にする様子は無い。
当然と言えば当然か。
ただ“生きていく”だけで必死な人々が多い世の中。
態々、死を伴う“異界”を覗き込む真似をする者など滅多に居はしない。
居るとすれば──それは、生きる事に飽きた者。
或いは、生きる事の意味を見失った者になるだろう。
そういう意味で言うのなら“此方”側を覗く事の無い人々が多いというのは存外素晴らしい事なのだろう。
尤も、その事に当の人々が気付きはしないのだが。
それはそれで構わない。
何故ならば、この様な事は“正面な人間”は知るべき事ではないのだから。
そんな黄昏に世界が浸る中──とある屋敷の一室には重苦しい雰囲気に身を置く人影が二つ。
その一つが動きを止めると静かに立ち上がった。
そして強張った面持ちで、もう一人と向き合う。
その者が緊張感の有る中で静かに口を開いて訊ねる。
「…どうなんだ?」
「はい、特に目立った傷は有りませんし、打撲の痕も見られません
呼吸が弱いのは…恐らくは身体が冷えた為かと…」
そう答えるのは初老の男。
蓄えられた白い髭鬚が口の動きに合わせて揺れる。
その言葉の後、二人の顔は互いから外れ同じ場所へと向けられた。
二人の視線の先には寝台に横たわり眠っている者。
川辺で鴉達に集られていた所を発見・保護された男の姿が其処に有った。
「…では、特に異常な点は無いんだな?」
「はい、命に別状は無いと思われます」
「そうか…」
老人の言葉に一安心してか小さく息を吐く。
折角助けて連れ帰った者が実は助からないというのは心情的に悪いだろう。
そう為る可能性が完全には消えてはいないのだが。
“手の施し様が無い”事は無いというだけで気持ちは軽くなるというもの。
楽観視した訳ではないが、その心情は汲み易い。
改めて、老人と向き合う。
「お前から見て、この者に何が起きたと思う?」
「……正直、その答えには困ります
単に外傷も無く溺れ掛けたという訳では有りません
ですが、一糸纏わずという状況ですので──可能性は追い剥ぎか泳いでいた、の二つに絞られるかと…
あの山で泳ごうと思う者は先ず居ませんので…
必然的に追い剥ぎの一択…
しかし、それでは傷の無い事が説明出来ません
仮に追い剥ぎに遭った後、逃げ出してから川に落ちたのだとしても、擦り傷位は出来るでしょうから…」
そう話しながら寝台で眠る男の顔を見る二人。
そう、小さな掠り傷一つ、この男には無かった。
その事実が事の不可解さを深め、解らなくしていた。
「発見した場所の近くにて溺れた可能性は?」
「無いとは申しませんが…
少し泳げば岸に上がれます
また、あの辺りでしたら、この者の身長ならば上流も下流も足が着きます
溺れるというのは考え難い事ではないかと…」
「酒に酔っていた、という可能性はどうだ?」
「それでしたら…無いとは申し上げられません
ですが、あの辺りには酒を売っている商家は無いので態々、自分で酒を購入して持参していた、という事に為るのですが…
ああ、勿論、近くの村邑で酒を馳走に為った、という可能性は有ると思われます
…かなり、無理矢理な話に為ってしまいますが…」
「…そうだろうな…」
老人の示した可能性を聞き小さく溜め息を吐く。
その眉根の顰め具合からも件の真相の解明の難しさが如何に高いかが窺える。
ただ、それでも言えるのは男は助かったという事。
事の真相は男が目覚めた後訊ねてみれば済む事だ。
そう割り切った様に、一つ頷いてから老人を見る。
「何か薬は必要か?」
「いいえ、現状では特には必要ではないでしょう
このまま目覚めれば温かい食事を摂れば十分かと
ただ、水に浸かっていた為身体が冷えていましたから熱が出る可能性が高い事が懸念でしょうか…
今は特に見られませんが、判り難いですから
その場合、風邪の可能性も有り得ますので…」
「判った、その様な兆候が有れば近付かぬ様にする」
「仮に熱が出る様でしたら早めに御呼び下さい」
「ああ、御苦労だったな
下がって休んでくれ」
「はい、失礼致します」
労いの言葉を受け、老人は深く一礼すると傍らに有る手荷物を持って退室する。
扉の閉じる音が響く静かな部屋に一人。
余韻に浸る様に佇みながら遠退いてゆく足音が十分に小さくなってから、深々と溜め息を吐いた。
静かな寝息だけが響く。
同じ様に呼吸しているのに意識の有る自分の呼吸よりはっきりと聞こえるのは、不思議だけれど面白い。
そんな風に思うと、自然と気持ちも口元も緩む。
寝台の側に椅子を置くと、顔を見る様にして座る。
自分が死に掛けていた事を知らない様に、穏やかに。
その寝顔は綺麗なままだ。
何事も無く、平穏な日々を送っているかの様に。
「……貴方は何者なの?」
そう呟きながら、男の顔に右手を伸ばし、額に掛かる前髪を指先にて掬い上げて手前に退けてみる。
その上質な絹糸を思わせる手触りに少なからず驚く。
生来の物かもしれない。
しかし、それでも維持するだけでも大変だろう。
それ故に更に謎が増える。
ただ、同時に嫉妬も懐く。
それは仕方無い事だろう。
それ程の髪なのだから。
「…………っ……んぅ…」
「──っ!?」
眠っている筈の男の唇から小さく漏れたに我に返り、同時に気付いてしまう。
時間が経つのも忘れ、つい髪を弄る事に夢中になってしまっていた事に。
誰に見られた訳でもなく、当の男も眠っている。
そう、自分以外には事実を知る者は存在しない。
だから、大丈夫だ。
そう自らに言い聞かせる割には羞恥心に耳まで赤くしてしまっているのだが。
本人は気付きはしない。
実は本人が思う以上に隠し事が下手だという事にも。
気付かれない様に慎重にゆっくりと深呼吸。
動揺を忘れる様に、自分に言い聞かせる様に。
冷静さを装おう事により、無理矢理に意識を変える。
既に陽は沈んでいる。
その為、部屋を照らすのは盞一つ分の灯火だけ。
就寝する際ならば特に困る事は無いのだが。
相手が居る状況となると、それは変わってくる。
但し、今に限って言うなら良い方に働いている。
然程明るくはないが故に、表情の変化も悟られ難い。
尤も、互いに初対面だ。
普段との違いを比べる事は出来無いのだが。
それはそれ、という事だ。
そんな此方等の事情を全く知らない男は寝返りを打つ様に身を捩らせると左腕を布団から抜き出し、額へと腕を乗せてる。
そして、ゆっくりと目蓋を開いてゆく。
それを見詰めながら出来る限り自然に。
しかし、自分からは直ぐに声を掛けない様にする。
驚かせたり、警戒させない様にする為にも。
意識がはっきりとするのを様子を窺いながら待つ。
「……………………?…………………??……………………此処、何処だ?…」
何度か瞬きをした後、男は左腕を退かして天井を見て静かに呟いた。
意識はしっかりしている。
呟きを聞き、そう判断して一呼吸置いて話し掛ける。
「目が覚めたか」
「…………………誰?…」
声に反応し、此方等へ顔を向けた男は瞬きしてから、そう訊ねてきた。
やはり、状況を理解してはいないのかもしれないな。
だが、その割りには意外と落ち着いている様に見える辺りは悪くない。
慌てられても困るからな。
「先ず自己紹介をしよう
私は孫権、字を仲謀と言う
お前は何という名だ?」
「……俺は…ケイ、シン…
…土が二つ重ねの“圭”に“森”で、“圭森”だ…」
「そうか…圭森、だな」
そう男の名を口にしながら記憶の糸を手繰る。
だが、聞き慣れない姓だ。
少なくとも、この辺りには同じ姓の豪族や有力者等は居ないだろう。
…まあ、自分の記憶に無いというだけで有って実際は“絶対に居ない”とまでは言えないのだが。
それでも珍しいという事に間違いは無い。
「圭森、幾つか訊きたいが構わないか?」
目を見ながら訊ねる。
“自分が助けた”、という事実を告げて問う事は可能だが遣りたくはない。
だから、少しだけ真剣さを感じさせる様に強い視線を向けておく。
その効果が有ったのかは、正確には判らないが。
圭森は理解を瞳に宿した。
「…俺で判る事なら」
「ああ、それで構わない
では先ず、お前は何故一人あの様な場所に居た?」
「…えっと……何処に?」
意図的に情報を隠して訊き反応を窺ってみたのだが…嘘を吐いているという様な印象は受けなかった。
冷静ではあるが、置かれた状況が理解出来ていない。
そういう感じに見える。
勿論、その反応が意図的な演技でなければ、だが。
…悪人には見えないがな。
「川原だ、お前を見付けた場所は流れ自体は緩やかで川幅も広くはないが深さは有ったので溺れる可能性は十分に考えられる所だ」
「……………溺れてた?」
其処に引っ掛かったらしく表情が強張っている。
予想していなかった状況に理解した途端に恐怖が追い付いたのだろう。
その様子を見るからに彼は意識が有る内に川に落ちたという訳ではなさそうだ。
そうなると、自殺や事故の可能性は低くなり、残った事件絡みの可能性──特に追い剥ぎに遭った可能性が高く為ったと言える。
「実際は溺れていたという訳ではなく、川岸で流木に掴まった状態で上半身だけ水から出ていた所を発見し連れ帰った訳だ」
「…え?、いや…それって運が悪かったら溺れてた…かもしれないって事に…」
可能性を口にする彼の目を見ていられず、思わず顔を逸らしてしまった。
悪気は無いのだが…自分の反応を悔やんでしまう。
「……あ〜…うん…その、助けてくれてありがとう」
此方等の心中を察してか、気不味い雰囲気を嫌ってか彼は感謝を口にする事で、話を終わらせてくれる。
その気遣いに感謝しつつ、自身の未熟さに呆れる。
しかし、今考えるべき事は彼の事なのだから、それは置いておく事にする。
しっかりと切り替えて私は彼の方に向き直る。
……コホンッ…と一つだけ咳払いをして再開する。
「発見した状況が状況の為最初は屍かと思った
何しろ、鴉達が屍肉を啄む為に集っていたからな」
「………笑えないって…」
「だから、生きている事が判った時は驚いた
だが、同時に判らない事が幾つも出来てしまった
状況から見て発見場所より上流で川に落ちたと考えた訳だが…お前は無傷だった
掠り傷一つ無かった
それは有り得ない事だ
川の流れは速く蛇行もし、岩も散乱している
そんな場所を無傷で流れ、漂着するという事は…
正直、考えられない」
「……確かに、俺も聞いた限りで想像しても、普通は有り得ない事だな…」
此方等の説明が嘘とは全く思っていないのか。
彼は腕組みをしながら頷き納得している様子。
…やはり、演技をする様な人物ではないようだ。
「それだけでも不思議だが……その、だな…何だ…」
「………?…」
言い淀む私を見詰めながら彼は小首を傾げる。
その様子から彼の認識では“起きてはいない事”だと理解出来てしまった。
出来てしまったのだが──訊かずに誤魔化すには少々難しい様に感じる。
…いや、先程の自分がした反応が躊躇わせる。
(でも脳裏に浮かんで──ちちちち違う違う違う違う違うの!、違うからっ!、そうじゃないのっ!
──そうじゃなくてっ!、それは忘れなさいっ!)
深淵から──否、密林から姿を見せ掛けてくる猛獣を幻視させる記憶を奥底へと深く、深く、深く、深く。
厳重に、厳重に押し込めて封印してしまう。
そんな葛藤を抱えている孫権の事を心配しながらも理解出来ずに小首を傾げ、孫権の発言を待つ圭森。
暫しの間、沈黙と共に微妙な雰囲気が続いた。