一章 1話
時代という物は移ろう。
否、時代だけではない。
森羅万象、あらゆる全てが時と共に移ろいゆく。
決して、一時のままに在り続ける事を許しはしない。
何れ程に人々が望もうとも時の流れとは非情なまでに変化を強要する。
抗う事は許されない。
それは絶対の理である。
如何に望まぬ事であろうと外れる(逆らう)事は決して出来無いのだから。
だがしかし、それは一つの正しさなのだろう。
変化無くして可能性は世に生じる事は無いのだから。
可能性の為の必然だ。
喩え、その可能性が繁栄に限らず、滅亡であるのかもしれなくとも。
それは先に進み、果てへと至ってみなくては判らない事なのだから。
故に、変化とは望まずとも等しく訪れる物である。
ただ、劇的な変化を迎えるという事は稀である。
それは当然と言えば当然と言えるのかもしれない。
日々、変化が訪れようとも人々は全てを変化としては認識してはいない。
では、それらは何なのか。
“普通の(珍しくない)事”というだけの話で。
大した事ではないのだ。
身近な例を挙げるのならば髪や爪等が伸びる事も。
体重が増減する事も。
病を患ってしまう事も。
誰かの死でさえも。
人々にとっては些細な事。
しかし、劇的な変化は必ず存在する事象である。
ただそれを人々が如何様に認識するのか。
それに因るというだけで。
ただ理解出来ず、気付かず見逃してしまうだけで。
確かに存在しているのだ。
そして、人々は時として、それを此の様に呼ぶ。
転機──“運命”と。
右手で庇を作りながら、空を見上げれば白雲の海を漂う様に浮かぶ日輪。
肌を焼く様な暑さ。
しかし、それは夏としてはまだまだ序の口。
これからが本番となる。
漢の南部域に生まれ育ち、慣れてはいても平気という訳ではない。
暑いものは暑い。
だから、と言うべきか。
“南船北馬”という言葉は土地柄的な特徴を示す。
つまり、暑さを凌ぐ為にも南部域の人々は水辺に多く居住する傾向にある。
また、その様な環境が故に馬の生育が難しい事も理由の一つに挙げられる。
その結果として船を中心に置いた生活が出来上がったという訳だ。
船は我々の“揺り籠”だ。
──尤も、今の自分は船に上がる事は無い。
皮肉な事に、馬に乗る方が圧倒的に多い。
本当に……腹立たしい。
しかし、そんな感情ばかり懐いていても現状が変わる訳ではない。
何より…折角、涼を取りに遠出をしてきたのだ。
気分を害したくはない。
上げていた視線を正面へと戻せば涼やかな青が静かな音色を奏でて流れる。
それだけで、ささくれ立つ心は鎮まる。
「……………………ん?」
ゆっくりと浸ろうとした、その時だった。
何やら嫌な音が耳に付く。
正直、無視したい所だが…ゆっくりする為にも一応は確認すべきだろう。
そう考え、溜め息を吐く。
手近な木に繋いでいた馬を一瞥し、特に何も変わった様子が無い事を確認する。
こういった時、動物の持つ“野性の勘”は一つの判断材料に出来る。
怯えたり、警戒する様子を見せているならば、危険な状況に有る可能性が高い。
だから落ち着いている姿を見せているなら一安心。
勿論、気を抜いて油断する理由には為らないけれど。
川の流れに逆らう様にして上流に向けて歩き出す。
別に、水の中を進むという訳ではない。
確かに此処には涼を取りに来てはいるのだが、状況を把握し切れてもいないのに川の中に入るのは危険。
いざという時に足を取られ動きに支障が出てしまう。
その可能性を考慮出来て、態々、自ら身を危険に晒す必要は無いのだ。
当然、自分が動き易い方を選ぶべきなのだからな。
大小の石が敷き詰められて出来ている川原を見ながら少しでも高い位置を歩く。
川の中よりは川原を。
川原よりは土の上を。
万が一を考えての選択だ。
それを臆病だと言われても仕方が無いだろう。
だが、それで失態を冒し、後悔するよりは増しだ。
…そう、死んでしまっては後悔する事も出来無い。
死なない為に慎重(臆病)な事も時には必要なのだ。
脳裏に浮かんだ苦い記憶を振り払う様に頭を振って、目の前の事に意識を戻す。
──と、その時だった。
左右に振った視界の中に、不自然な存在を見付けた。
…いや、ある意味で言えば自然な光景なのだろう。
弱肉強食の世界ならば。
「………あれは…鴉か?」
何か、川原──水際に有る黒い塊が蠢いている。
翼を閉じ群がっている姿は子供程の大きさの黒い獣。
翼を広げた事で鳥と判り、鴉だろうと推測出来た。
それが無ければ難しい。
──と、そんな下らない事は置いておくとして。
今、鴉が群がっているのは恐らくは屍だろう。
餌として屍肉を啄む。
そう、よく有る光景だ。
あの鴉達も生きていく為に必死なのだからな。
「──向こうへ行けっ!」
但し──そんな鴉達の黒の隙間から、“人間の手”が見えた事を除けば。
それを見た瞬間に屈み込み足元に有った小石を右手で拾い上げて、投げていた。
追い払う様に声を上げて。
其処に一々理由を望む様な思考は介在しない。
人としての反応だから。
ただ、その一方で思う。
自分でも御節介なのだと。
行き倒れや溺死した人間は決して珍しくはない。
寧ろ、日々大陸の何処かで確実に起きている事。
有り触れた死(悲劇)だ。
だから、本来ならば今も尚生きている鴉達の餌として喰わせてやるべきだ。
そう出来無いのは…多分、自分の甘さなのだろう。
“無駄な事だ”と割り切り切り捨てられない。
自分の偽善(弱さ)なのだと頭では判っている。
判ってはいるのだが…結局そうする事は出来無い己の未熟さに苛立ちを覚える。
抗議する様に鳴き声を上げ散ってゆく鴉達が此方へと攻撃して来ない様に威嚇しながら駆け寄ってゆく。
だが、必要以上に攻撃する様な真似はしない。
何故なら、これは偽善だが最終決定(答え)ではない。
先ず、一応は確認をして、件の屍が“無辜の民”なら自分なりに弔って遣る。
だが、賊徒の類いの様なら鴉達にくれてやる。
弔う理由が無いからな。
その判断をする為に、一旦鴉達を追い払った。
ただそれだけなのだから。
無意味に傷付けはしない。
側に行き、状況を見る。
倒木が枯れ、流れていたのだろうか。
それに掴まった格好のまま上半身だけが水から覗く。
その為、背丈は判らない。
ただ、それでも自分よりは高い事は間違い無い。
それなりにしっかりとした身体付きの男だ。
「……まだ若そうだな…」
飽く迄も見た目の印象。
水に濡れている黒髪は追い払った鴉達の羽よりも黒く艶やかな光沢を纏う。
それだけでも若さを感じる要因に為るのだが。
それ以上に、それなりには正面な暮らしをしていたと考える事が出来る。
酷い話だが、今の時代なら一日に一度でも食事を摂る事が出来るのであれば──“最底辺”とは言わない。
その内容が如何に粗末でも“食べられるだけで増し”というのが最底辺だ。
それを考えても、この男の髪の状態は良好だ。
髪に気を使う女から見ても綺麗だと言えるだろう。
それだけに奇妙でもある。
恐らくは裕福な身分。
上半身裸という所を見れば賊徒に遭遇し、身ぐるみを剥がされて殺された。
そして、川に棄てられた。
そう考えるのが妥当だ。
だが、パッと見た限りでは身体に目立った外傷は無く状態から日が経った様にも見えない事から死後一日と経過していないだろう。
鴉達だけではなく、屍肉を貪る獣や虫は多い。
加えて今の時期ならば直ぐ暑さで腐ってしまう。
そう為っていない事からも長く見ても、恐らく昨日の日没辺りだと言える。
この辺りに街は無い。
有っても村や邑が幾つか。
到底、裕福な身分の人物が居る場所ではない。
況してや、若い男が一人で出歩く様な場所でもない。
仮に何かしらの用が有って来ていたのだとしても。
居なくなれば騒ぎに為る。
為らない筈が無い。
拐われたのだとすれば何か情報が耳に入る筈だ。
しかし、それも無かった。
つまり、状況的に納得する説明が出来無いのだ。
奇妙としか言えない。
これは、そういう状況だ。
顔を上げると視線を男から川を辿る様に上流に向けて移動させてゆく。
今、自分が立っているのは川幅・深さ・流れの何れも子供でも対岸へ泳いで渡る事が出来る程度だ。
勿論、ある程度は泳ぐ事に慣れている必要は有るが。
それでも、初めてだろうと然程難しくはない。
そういう場所だ。
故に、此処では溺れる事は先ず無いと言える。
但し、それは事故や病気、“犯罪”でなければ、だ。
「……確か…この先は…」
視界に映る聳える山。
過去一度だけ、入った事が有るので少しは判る。
川幅や深さは変わらないが川自体が急流に為る。
その上、両側は崖であり、川にも巨大な岩が散乱し、蛇の様に蛇行している。
はっきり言ってしまうなら上流で落ちれば死亡確実。
それ位に危険である。
そんな場所に態々入るとは普通は思えない。
それが裕福な身分の者なら尚更に有り得ない。
何かしらの理由が有っても人を雇って行かせる。
それが普通だ。
また、賊徒が上流で棄てる理由も無いだろう。
態々川に棄てなくとも山に放置するなり、埋めておくだけで十分なのだから。
この状況は考え難い。
「………そう言えば、確か昨夜の事だったな…」
不意に、山を見詰めていて思い出した事が有った。
昨夜は寝付きが悪く、一度涼みに庭に出た。
その時、何気無く見上げた夜空を一筋の流星が横切り──消えていった。
その流星の消えた先が──確か、この山だった筈だ。
「……馬鹿馬鹿しい…」
──流星に撃たれた。
そんな事を考えてしまった自分の愚かさに苦笑する。
“星読み”では英雄を星に例える事が有り、その星が落ちると死を意味する様に言われる事が有る。
物語等でも使われるな。
だが、実際には無い。
英雄が生まれれば、黒天に新たな星が生まれる筈。
しかし、そんな事は起きず星が流れる事は有る。
けれど、星が流れた後でも落ちた筈の星は輝く。
その事を考えるなら流星と星とは別物なのだろうな。
尤も、そういう“神秘”を人々は好む物だ。
だから生まれたのだろう。
星と英雄、死の繋がりは。
下らない思考を嘲笑う様に苦笑を浮かべながら、男に視線を戻す。
色々と奇妙ではある男だが“悪人”だと断定出来無い以上は弔って遣ろう。
それが、せめてもの──
「──っ!?、まさかっ!?」
直ぐ様屈み込み、男の顔に耳を近付ける。
すると、微かにでは有るが呼吸をしているのが判る。
直ぐに首に右手を当てれば弱くは有るが脈を感じる。
つまり、生きているのだ。
正直、驚くしかない。
何が、どう為れば、生きて流れ着けるのか。
“豪運”とでも言うのか。
「…いや、そんな事は今はどうでも良い事だ」
生きているのなら助ける。
それ以外の選択肢は無い。
この男が誰でもあろうと、放置する事は出来無い。
命は、戻らないのだから。
無造作に投げ出されている男の左腕を掴み上げると、その下に身体を滑り込ませ担ぎ上げる様にする。
身長差は有るのだろうが、其処までではないと思う。
多少引き摺る事には為るが其処は仕方が無い。
自分まで濡れてしまう事も気にせず男を右肩から背に背負う様に持ち上げる。
意識の無い人間というのは子供一人でも重い。
何故、その様に為るのかは知りはしないが。
兎に角、重くなるのだ。
だが、大人の男一人位なら問題無く担ぎ上げられる。
余程の巨漢でもないのなら然程難しい事ではない。
ただ、慣れない事だ。
その為か、手際良く背負う事は出来ず、右腕を使って男の身体を下から掬う様に持ち上げようとした。
その時だった。
「────え?」
落ちない様にと握る右手に布地とは異なる感触。
妙に柔らかな、けれど何か奥に固さも有る感触。
“それ”が何なのか。
理解してしまった。
小さな悲鳴の様な呼吸の直後、山々に谺する絶叫が響き渡った。
羞恥心を孕んで忘れられぬ始まりを刻んで。