「佐藤一斎『重職心得箇条』を読む」 の十二、
おこんばんはです。豊臣亨です。
さっこん地震がとみに活発になっておりますね。
特に富士山周辺で頻発しておるようで、なので当然富士山噴火が懸念されておるようです。一応、さっこん頻発する地震と、富士山噴火の因果関係はないとされていますが、こうも体感地震が毎日のように起こりますと不安が増大する今日この頃です。
富士山が噴火するとその直下の地域に甚大な被害を及ぼしますが、火山灰が首都圏にやってきて2cm積もっただけでも車、電車が動けなくなるほどの被害が出るそうな。空路、陸路の流通網は寸断されるわけで、まあ、想像もできない大混乱を巻き起こすでしょうね。
なので首都機能移転はどうか、と考える人もいるそうな。
wikiによりますと、
「古くは1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって東京市(当時)が甚大な被害を受けた後に、大阪遷都が報じられた背景もあり、9月12日に大正天皇が詔書の中で「都タルノ地位ヲ失ワス」と明確に遷都(または奠都)を否定したことがある」
とあり、関東大震災の頃からその案はなくはなかったそうですね。さらに、バブルで地価が高騰したときにも、阪神淡路大震災、東日本大震災が発生したときにも、首都機能麻痺による混乱を避けるためにも首都機能移転は考えられてきましたが、なら、ではどこに移すのか、を検討する段階になりますと具体的にどこ、といえる場所がなく話は立ち消えになるそうな。
アメリカみたいにバカでかい国土を有する国ならともかく、そうでなくても有効利用できる土地が少ない国土でひしめき合って暮らしてきた日本に、じゃあ次はそこ、といえる場所などそうそう簡単にあろうはずもないでしょうね。まあ、京都市などは皇族には京都にお戻りいただいて、という案も出しているそうで、そう言われて連想しますと、京都から東京に遷都して果たして日本史的に良かったのか悪かったのか、と思ってしまいますね。
明治から日本は未曾有の世界規模の戦争に突入し、ボロボロの敗戦を経験し、高度経済成長を遂げたものの、骨粗鬆症を起こして金儲けに邁進するしか能がない中身の空虚な、すっかすかな人間が多くなる始末。明治から戦中の日本人だったら決していなかったであろう破廉恥漢が大増殖しておる昨今。考えさせられます。
とはいえ、東京に遷都したからこうなったのだ、などと気軽に言えるはずもありませんが、なら天皇陛下をはじめ皇族の方々に京都にお戻りいただいたら日本史はどういう結果になるのか、ちょっと気になるところです。
前置きはさておき、「佐藤一斎『重職心得箇条』を読む」 の十二、伺ってみましょう。
「【大臣たるもの胸中に定見ありて、見込みたる事を貫き通すべき元よりなり。しかれどもまた虚懐公平にして人言を採り、沛然と一時に転化すべき事もあり。この虚懐転化なきは我意の弊を免れがたし。よくよく視察あるべし】
「胸中に定見ありて」
ちゃんとした一定の見識というものがあって、
「虚懐公平にして人言を採り」
心に先入主、偏見を持たないで人の言うことを採用する。
「沛然と一時に転化すべき事もあり」
「沛然と」つまり夕立ち、大雨が降ってくるように、大変な勢いで、からりと転化しなければならないこともある。仕来り、仕癖というものは、あるにはあって、これも軽んずるわけにはいかないが、ある時期、ある必要な時には、今まで晴れておったのに、おやっというふうに雲が出てきてドーッと雨が降るように、一時に転化することが必要な時もある、ということです。
「この虚懐転化なきは我意の弊を免れがたし」
己を空しうしていろいろな問題にこだわらず、一転するときは思い切って転ずる、化することが必要だが、自分に私心、私欲があるとそれができない。我意にとらわれるわけですね。
「よくよく視察あるべし」
これは人の事、世の事をよく観察して会得しなければならないということです」
虚懐は、虚心坦懐、ですね。
論語にも、
【意なく、必なく、固なく、我なし】
と孔子様もおっしゃっています。
「意」 主観だけで独善する。
「必」 自分の思い通りに無理押しする。
「固」 なにかにこだわり、執着してしまう。なずむ。
「我」 てめえさえ良ければ良い。
とかく、明治以降の日本人には、この我、を薄め、虚心坦懐に物事を判断する人間が少なくなってしまったような気がします。
首都機能移転にしても、我欲むき出しの政治屋がおらが町におらが町にと主張を続けて結局台無しにしてしまったこともないのではないでしょうか。
また、岸田首相が今回の、18歳以下の子供に10万円相当を給付する話で、5万円分のクーポンで、という話でしたがクーポンで給付するという、それだけで900億円規模の事務費用が発生するとのことで、クーポンはやめて一括現金給付にする決断を下した、ということです。
「沛然と一時に転化」
した、と言えないこともなさそうです。ただ、
「大臣たるもの胸中に定見ありて、見込みたる事を貫き通すべき元よりなり」
そもそもとして、どこまで胸中に定見があったのか、見識、胆識があったのか、考えるところもなくはないですね。まあもっとも、戦後の日本の政治家で「胸中に定見」ある人がどれほどいたのか。それこそ風見鶏、洞ヶ峠を決め込んで、その場その場で軽々に米国になびき、中共になびき、といった人間ばっかな気もしますが、そうではなく、高市さんには今から、自分が総理になったらこうする、ああする、といった定見を胸中に蓄えていただきたいものであります。
といったところで、「佐藤一斎『重職心得箇条』を読む」 の十二、はここまで。