「佐藤一斎『重職心得箇条』を読む」 の七、
もういっちょ。
「佐藤一斎『重職心得箇条』を読む」 の七、伺いまする。
「【衆人の厭服する所を心掛くべし、無利押付の事あるべからず。苛察を威厳と認め、また好む所に私するは皆小量の病なり】
「苛察」とは、いらいらとああかこうかと探索すること、うるさく立ち入ることです。
「小量」とは、度量が小さいこと、人間学、人物学で申しますと、まず元気、意気、志気、気骨というものが第一要素であります。これがあって、そこから人間の知能、見識というものが出てくる。
知識というものはごく初歩というか、一番手近なもので、知識がいくらあっても見識というものにはなりません。見識というのは判断力です。見識が立たないとどうも物事はきまらない。見識の次に実行という段になると、肝っ玉というものが必要となる。これは実行力です。これを胆識と申します。知識、見識、胆識、これが「識」というものの三つの大事なことです。
人間には骨力、気骨というものと知識、見識、それに度量というものがなければならない。重職たるはなかなか大変で、細かいことにこだわっていてはだめです」
古い話ですが、戦中では軍人がまあ幅を利かせたそうな。
ギターなんて見つけた日には、軟弱者が夷狄にかぶれおって! とぶっ壊されたそうな。愛国だの勤皇だのを隠れ蓑に、弱い者いじめをして得々としておる連中だったようです。
で、そのことを左翼なんぞは軍人だの軍国だのと口を極めて罵るわけですが、勘違いしてほしくないのですが、戦中の日本は社会主義国家であって、左翼イデオロギーにかぶれたジンゴイズム(排他的愛国者)な軍人と、進歩主義知識人だのマスコミだのは同じ穴のムジナであるということです。
こうしてみますと、こういうイデオロギーにかぶれた連中は、
「苛察を威厳と認め、また好む所に私する」
連中であることが分かるのであります。
今どきは、映画とかゲームとかのキャラクターにかみついて、性的だといちゃもんつけておりまして、白人以外ではない有色人種をヒロインにしたり、ブサイクなヒロインだしたり、誰が得するのかさっぱり分からんことに血道を上げている。
こういうポリコレ、フェミニストはすべて戦中の軍人のような存在だと言い切ってよいでしょう。
自分の好むところにだけ私し、偏し、ああしろこうしろといちゃもんつけることを威厳と錯覚しておるような異常者です。ちなみに、ポリティカル・コレクトレスをwikiで調べるとこういう文章が出てきます。
「「感作」の主目的として「従来から存在する言葉の意味を変容させ、一種のステレオタイプを大衆に刷り込む」という心理操作が含まれており、一例を挙げれば「右は悪、厄介、危険だが、左は善良、愛情があり、思いやりがある。」「明るく光沢のある派手な色彩の食材は見た目に反して味が悪く、薄暗く茶色い色調の食材は味が良い」といった、エビデンスの無い思い込みを国の東西を問わず広く大衆に植え付けていく事で、その国が従来から伝統的に持つ観念を破壊する意図が存在した」
古くからある伝統を破壊することで秩序を乱し平安を乱すのが、こういう連中の目的です。
スチュワーデス、看護婦なんて呼び方は駄目だ! なんていうのもそういう流れです。
どこぞの半島人と同様、相手にしてはいけない連中であり、徹底的に無視、排除するのが正しい姿勢であるのです。
といったところで、「佐藤一斎『重職心得箇条』を読む」 の七、はこれまで。
アニメガタリズ OPを聴きながら