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「ええじゃないか」考


 おこんばんはです。豊臣亨です。


 今日はこんな話題。時期的に。


 わたしも「ええじゃないか」は子供の頃から知ってはおりましたが、じっくりと腰をすえて考えたことはないのでこの機会に、とwiki先生に教えを請うことに。


 老荘思想家のおっさんは学びたい。


 さて、wikiを覗いてみると、




『京都の「ええじゃないか」について』  南和夫



 

 という日本史学者先生の論文がくっついていたのでそれを参考にさせていただくことに。


 それを伺いますと面白い記述が色々と見つかりました。



 そもそも「ええじゃないか」とは、慶応三年、西暦でいうと1867年、江戸時代も末期も末期。そろそろ明治の産声も聞こえてきそうな時に発生し、またたくまに東海、近畿を中心として山陽・四国から東山・関東にまで波及し、そして、数ヶ月の大騒乱を起こしたあげくに終息していったとされるもの。いわゆる、むーぶめんと。




エージャナイカ エージャナイカ エージャナイカ 踊るアホウに見るアホウ 同じアホウなら踊らにゃそんそん (以下略



 

 の文句が一番有名かと思いますがそれこそ、京都の人々が根こそぎ踊りに踊りに踊り狂った、といわれる大騒動です。


 こんな大騒動は日本史上でもそうそうないと思いますが、そんな大騒動でありながら数ヶ月で鎮火してしまった。これもまた面白いですね。


 ではそんな「ええじゃないか」はどういう風に起こったのか、を見てみましょう。




「『松代藩士山寺源太夫雑記』によると、


<今十月中頃より京都市中へ御像御札金銀数多ふらせ給う事前代未聞の事也>


 と記してある。


 また当時京都で刊行をみた、


『御世の栄』にも、


今十月中旬なかごろより、京都へ諸神仏金像・木像・土像>


 やお札が日々降ったとある」




「当時、大宮通四条大宮町(現下京区)で質屋を営んでいた高木在中(鍵屋長治朗)の日記『高木在中日記』によると、十月七日の条に、


<先達って尾州三州大和摂州その他諸々太神宮御札下る>


 とある。


『高木在中日記』によると、二十六日の条に、


<御札、日々四五軒宛天降給う。右につき市中町々大踊致し居り候事>


 とある」




 とあります。


 何故か、また、何者の企てかはさっぱりわからねど、京都の市中に、金銀もすごいことながら、金像だの、木像だの、土像だのが降ったばかりか、お札まで降った、とあります。


 すわ、ねずみ小僧の仕業か!


 と、いいたいところですが、ねずみ小僧は太閤殿下に釜茹でにされたはずなので違うでしょうね。

 

 その当時の人々も「前代未聞の事」だ! と日記に残すほど、奇妙奇天烈なことが起こった。しかも、恐ろしいほどの規模で。


「尾州三州大和摂州」とありますから、尾張(いまの愛知県西部)に三河(いまの愛知県東部)に大和(いまの奈良県)、摂津(大阪北中部と兵庫南東部)に「先達って」とあるように、こういった地方でまず起こったみたいです。


 また、こういう記述も。




「京都周辺地域での札ふりは、京都市中よりもはやく認められる。『島津家慶応雑集』は十月三日ごろの噺として<京都伏見辺の怪事>をつぎのように記している。


<京伏見の間に踊興行これ有り白旗これ十文字紋を付け白髪大明神というを書いて踊りいたし候よし又京伏見伊勢の辺りへ金銀が降り又は金の小さき短尺に伊勢大神宮という書も降り又は何方からや大判金百両包が降り誤りには人も振る様に取沙汰いたし候よし>


 同じころ南山城(いまの京都府南部)でも十月二日に札ふりがあった。


<南山城より来状之内>


<今(十月)二日朝曇りその後五時半より晴天と相成り申し候、なお小倉村忠太夫と申し方へ御祓い降り来りその外多分鳥の飛如くにて多人数拾い勝仕り候へども、忠太夫方より外へは降りもうさず、下拙も不思議に拝見仕り候>」




 とあり、十月に起こるように計画されていたようです。一体、誰がそんなことを始めたのか不明ですが、とんでもない財力と労力が必要なことは確かです。これだけのことが起こっておきながら、誰が起こしたのか今もって不明なまま、というのも恐ろしいお話ですがこれだけの財力を使って何がしたかったのか、も実はいまいち不明なまま。なんじゃそりゃ。って感じですが、一応、討幕派の誰かが政情不安をもくろんで起こした、といった説もあるそうですが、お金やお札をばら撒いて政情不安を狙う、というのも斜め上を狙いすぎな気はしますね。井伊直弼を暗殺しにいくような幕末の武士がお金をばらまいて政情不安を狙う、かどうか。まあ、大金持ちの大店(おおだな)やハト派の殿様など協力者がいたのでしょうけど。


 とはいえ、お札が下るという前代未聞の事態が起こりながらも興味深いのが、十月の初旬に尾張、今の愛知県にお札が降っていたようですが、日記には「市中町々大踊致し居り候事」の記述はなく十月中旬に京都に至って大踊りが始まった模様です。何故、京都に至って「市中町々大踊致し居り候事」が起こり、それが「ええじゃないか」へと発展していったのか。


「ええじゃないか」が起こるちょっと前、お札が降るちょっと前には、こんなことが起こっており、京都の人々が踊り踊る事態が起こっていたのであります。




「八月中旬より下旬にかけて、


<二条より川向くらま口>で<今流行の踊>があり、鹿児島藩士らが見物して帰っていった。さらに米価が下落したため、人々はほっとした気持ちと嬉しさのため洛中洛外とも<人心陽気立>砂持に事よせて老若男女ともさまざまの容姿で賑々しく踊りまわっていた。


鳥取藩庁記録の九月十六日達御目付乎探索書によると、


<一洛中洛外とも米下直に相成り人心陽気立、この節もっぱら砂持に事よせさまざまの体に男女老若とも踊り廻り賑々しき事にござ候>


 とある。


「ええじゃないか」の約一ヶ月前に、洛中洛外では既にこのような状態にあったことは、注目されてよい」




「この節もっぱら砂持に事よせ」とありますが、ところで砂持、ってなんだろう、と思いましてネットで調べてみますと、砂持とはご本殿の前に敷き詰めているお砂の入れ替えをする江戸時代以来の式年造替行事、だそうな。


 新装されたご本殿を誰よりも先に間近で拝観し、清められたお砂をご本殿内院の前庭などに納める(袋からお砂を敷き詰める)もの、だそうな。


 神事ですね。


 神事ですからお祭りなわけで、広島では幕末にたった一回だけ行われたそうですが、「砂持加勢」というお祭りがあって各町で山車を作り、お囃子に、お囃子を乗せた屋台に、人々が仮想をして踊りながら練り歩いた、そうです。


 米価が下落し、生活の不安が払拭されて、人々は砂持というお祭り気分で浮かれ騒いだ、と。


 つまり、京都においては何か慶事でもあった日にはそれこそ市中こぞって踊るような情勢がすでにあった。「ええじゃないか」の機運は、すでに京都において十二分に高まっていた。すでに油はまかれて、あとは点火するだけ、という情勢だった。


 そこに、まさしく、降ってわいたようなお札騒動。


 ぶちまかれた油に点火する出来事、出来(しゅったい)せり!! といった塩梅です。


 とりあえず「ええじゃないか」が起こる下地、機運をみたところで、お札が降ったことで人々はどんな反応があったのか、そこを詳しくみてみたいと思います。今でしたら、お札が降ったところではた迷惑な、としか思えませんが、江戸の末期の信心深い日本人からすれば、朝が来てチュンチュンとすずめの鳴き声と共に家の扉を開けると、わんさとありがたいお札があった、というのですから、それはそれはありがたいことだ、と思ったようです。


 では、お札が振ると何がすごいのか、その当時の人々はどう反応したのか、をみてみましょう。




『高木在中日記』によると、


「<十月中旬京都へ降出す。夜となく昼となく、樹の枝、柴垣、高垣、屋根先、天照皇太神宮を始として(中略)一軒に三度五度も諸々の神号をうけ、家々よろこびて、すぐ神酒をそなえ、鏡餅その他近所隣家親類よりも品々を供す>


<先一町に三軒五軒大家小屋のきらいなく、よろこびの踊り始めて、おどる程々老人男女尼法師、医も坊主も車引、唯往来の旅人も踊らにゃ通さぬ有様は、前代未聞の事とも也>


 とある」




 さらに詳しく書いてあるのが、


『御世の栄』には、




「<(慶応三年)今十月より京都へ諸神諸神仏金像・木像・土像かつ御札これ日々(にちにち)に降り給う、洛中洛外家並に降したもうことおびただし、もっともその留り給う家には表に笹を立て七五三(しめ)をはり家内に荒こもしき、その御像御札を祭り御神酒御鏡餅ならびに御膳をそなえ祝うなり、


 また町内はもちろん近辺近附の方御酒御かがみその余数々の品ものを供し、その家内もちろん丁内一統申し合わせ花麗の半天その外色々の姿になりて洛中洛外をおどり歩行(あるき)その降臨の家内(やうち)へ手おどりして祝う事、日夜市中に群集してその賑わい前代未聞の事なり、


 これ天より御世の栄えをしらしめ給う事也、もっとも三百年巳来御札天降(ふり)し事を考えるに慶長十九年・宝永二年・明和八年・天保元年にあり、是は天照皇太神宮の御札のみなりしが、今度(いま)八百万神を始め諸仏の御像御札金銀の天降り給う事和漢ためしなし、もっとも天降(ふり)給う町内またはその家には神仏守護しまししまし幸福をあたえ給うゆえ、偽疑心をおこさず鎮座を尊敬して祝し給うべし、()にも山姫の紅葉の衣ひるがえす(よそお)い、三味太鼓の音天に通じ管弦を奏して天人も天降り給うかと疑うほどのその美麗の(よそお)い、筆につくしがたき京師(みやこ)の繁栄万歳とも弥増(いやまし)に栄えるしるし>


 とある」




 なんと、金銀や各種のありがたい仏像やお札が、「おびただし」く降ったと。


 そんなことがあったものですから、人々は、えらいこっちゃあ! と狂喜乱舞して「御像御札を祭り御神酒御鏡餅ならびに御膳をそなえ祝」った。盆と正月がいっぺんにきたかのようにおみきや鏡餅をおそなえし、御膳をおそなえした、わけですね。


 さらに「鏡餅その他近所隣家親類よりも品々を供す」「町内はもちろん近辺近附の方御酒御かがみその余数々の品ものを供し」ご近所の方々や親類縁者をかき集めて祝いに祝いに祝った。さらに「丁内一統申し合わせ」丁内とは多分、一丁目、二丁目の事でしょうか。何丁目とか関係なく申し合わせて集合して「花麗の半天その外色々の姿になりて洛中洛外をおどり歩行(あるき)」花麗の半天とは、はなうららの半纏? 「日夜市中に群集してその賑わい前代未聞の事」昼となく夜となく踊りに踊った。


 また、御札が降るようなことはこの三百年間で何回かはあった模様。しかし「今度(いま)八百万神を始め諸仏の御像御札金銀の天降り給う事和漢ためしなし」お金が降ったり、神像や仏像が降るのは日本でもチャイナでもあったことはないだろうと。


 大騒ぎです。


 その大騒ぎは爆発の如く波及し、


「先一町に三軒五軒大家小屋のきらいなく、よろこびの踊り始めて、おどる程々老人男女尼法師、医も坊主も車引、唯往来の旅人」京都市中の人々「大家小屋」は多分、金持ち貧乏人の区別なく、老若男女に職業を問わず、様々な格好になって洛中洛外を踊り歩いた。さらには「踊らにゃ通さぬ有様」とありますから、ふらりと立ち寄っただけの旅人も有無を言わさず狂奔の渦中に巻き込まれたのでしょう。喧騒狂乱の一端がうかがえます。


「ええじゃないか」が起こるほんのちょっと前に京都では踊りまくる事態があって、さらに、お金や神仏の像やありがたいお札が、おびただしく家々に降り注ぐ事態が起こった。それによって当たり前のように「ええじゃないか」につながって人々は熱狂し狂喜乱舞して踊りに踊った。という流れになっていったのも、何だかうなずける気が致します。


 ちなみに、当時の京都、慶応三年、西暦1867年近辺では何が起こっていたのか、をみてみましょう。




「十月十三日に岩倉具視は倒幕の密勅を大久保一蔵(利通)に手交している。しかも同三日、二条城では徳川慶喜は在京四〇藩重臣を集めて大政奉還の諮問を行い、翌十四日大政奉還の上表が朝廷に提出された」




 もう江戸幕府が三百年近い歴史に幕を閉じようとしている、まさしく、その時歴史が動いている真っ最中。ど真ん中。


 ちなみに、慶応、というのをwikiで見てみますと、慶応とは、1865年から1868年までで元年から四年までありますが期間的にはたった三年間。そのたった三年の間に起こった出来事をみてみますと、 孝明天皇が崩御遊ばされ、 五稜郭が完成し戊辰戦争や北越戦争が起こっています。


 京都は政治の中心地ですから、幕府側も新政府側も、志と正義と野心と策謀がせめぎあい、しかもすでに戦争勃発寸前。さらに新撰組の方々も当然おわしますし、西郷どんの出身、鬼島津の化け物のような薩摩武士が市中を練り歩いて、佐幕派討幕派が影に日向に活動しています。


 新撰組の近藤勇、土方歳三、沖田総司らが学んだとされる剣は、天然理心流。何でも、居合いとか柔術も含めた総合武術だそうな。勝つためには何でもやるという、いかにも幕末を体現する超実戦派の流派だそう。


 対する薩摩武士の体得した示現流とは『二の太刀いらず』ともいわれ、最初の剣に己の全身全霊を叩き込んで、チェストーッ!! の叫び声が轟いた日には、受けた侍の剣が侍の体にめり込んだ、というくらいの剛剣だったといいます。


 つまり、その時の京都は、孝明天皇が崩御遊ばされ、新撰組の侍と討幕派の侍がばったり出くわしたともあれば一瞬にしてそこは地獄絵図。血風巻き起こり、手や足が斬り飛ばされ、はらわたを撒き散らして倒れ伏す修羅の巷。物情騒然、などという言葉が生ぬるく思えてしまうほどの、とてつもない世紀末状態だったのでしょう。そんな時代に生きた人々がどんな精神状態にあったのか。想像しても想像しきれない極限状態の世界で、京都の人々は生きていた。


 しかも戊辰戦争が起こる前ですから、幕府軍と討幕軍とに別れて今にも戦争になるのでは、と人々は話し合い大変に騒々しかったとか。


 庶民にとって、政治も戦争も剣戟も佐幕も倒幕も正義も理想も野心も欲望も関係ありません。すべて、己のはるか頭上のお話です。庶民にとってはそれらは迷惑にはなりえても、プラスになることはあんまりない。そんな地獄のような鬱屈した日々に、降ってわいた金銀や神仏像や御札。


 今まで積もりに積もった、ためにためたエネルギーが、特異点を超えて沸騰するが如く大爆発したのも、むべなるかな。


「ええじゃないか」とは、そんな時代のうねりに流れに流された庶民の、やり場のないエネルギーの大暴走だった。


 では、続きましてそんな庶民の大爆発、大暴走の「ええじゃないか」とは、を伺ってみましょう。




「中旬より始まった「ええじゃないか」の盛行は、札ふりとともに二十五日ごろより一段と激しさを加えている。『御世の栄』の末尾に記されてある『御降臨鎮座名所付』によると、約四五〇ヶ所にものぼる。降った神仏の札や像も多種多様であった。


 一町内に神仏の札が五軒七軒、あるいは十軒余にも降ると、男女老幼の別なく華美な衣装をととのえ、親子兄弟ともども鐘や鼓を打ち鳴らし、美しく飾った(はた)や幟を立て往来を縦横に踊りまくった。狂乱の踊りは夜の十二時から午前二時まで続き、その騒々しい音声はやむことがなかった。


 家の中では連日身のほどをこえた酒肴を用意し、往来を通行するものは士農工商の区別なく押しとどめ、一踊りしなければ通行を許さないほどの狂態ぶりであった。


 町中は軒なみに商売を休んで日々踊り狂い、酒肴・衣類の美麗に出費するのが当然の勤めであるかのごとき気運のみなぎった世情であった。


 男は女装し、女は男装し、老若男女を問わず、夜は行燈に蝋燭をともして頭にしばりつけ「よいじゃないか、えいじゃないか」と踊り狂い、京都市中の人々は発狂したかと思うほどの人気であった。

 

 なかでも人物の札や像の降った家々は軒下に縄飾りをし、社壇をもうけて供物・燈明をし、色絵の大提灯をさげ幕を張って美々しく飾り付けた。この狂乱は洛中から洛外にもおよび<都鄙しきりに狂舞す、途上踊らざれば往還することならぬよう>な有様となり、水戸藩士綿引泰は夜間岐路の途中、狂人のように踊る人々の一段に行きあい、ともに踊って疲れたと日記に記している」




「十一月四日、水戸藩士綿引泰の日記には、


<錦をまとい綾をかさねて踊り歩行中にも中京十五町一致して武蔵組と唱しおよそ二三千人計も同じ以上に出立て、その町その町の心々に屋体をしつらい花を飾りて神いさめの祇園囃子は降臨の神々神々も(とも)に浮き立ち給うべし>


 との記述もあり、まさに<洛中乱の如く>であった。


 踊りの盛んなさまの一例として、臨月の妊婦までもが出て踊りに加わり、また踊りに出ないものは相応の金銭を出して断ったとある」




 一読するだにすさまじいですね。読むだけでその熱狂が、伝わってくるようです。

 

 中でも面白いのが、


「水戸藩士綿引泰は夜間岐路の途中、狂人のように踊る人々の一段に行きあい、ともに踊って疲れたと日記に記している」


 侍だろうが関係ねぇ! 踊れ! 踊らにゃ帰さねぇ!! と駆り立てたのであろう、と想像するのもまた楽しい。しかしすごいのが、水戸藩士綿引泰という人がどれほどの殺人マシーンかは知りませんが、一緒に踊って疲れた、と言っているわけですから庶民のエネルギーの無尽蔵なこと、彼らに戦してもらったほうがいいんじゃないか、と思うほどです。


「狂乱の踊りは夜の十二時から午前二時まで続き、その騒々しい音声はやむことがなかった」


「連日身のほどをこえた酒肴を用意し」


「男は女装し、女は男装し、老若男女を問わず、夜は行燈に蝋燭をともして頭にしばりつけ」


 今でしたら夜中であろうと気にせず電気使いまくってますけど、その当時は油ですから当然結構なお金がかかったのでは? それが夜中の二時まで踊りに踊った、しかも身のほどをこえた酒肴を用意し、さらに近隣に配ったわけですから、そこに費やされたエネルギーもさることながら金銭的にも恐ろしいことになっていたでしょうね。


 当然、それだけの大消費が行われたわけですから、売れに売れまくったお店もありますし、閑古鳥が鳴いたお店もあるそう。




「呉服や、もちや、酒屋、提灯屋、足袋屋、手拭屋、すし屋、蒲鉾屋、こんぶや、下駄屋、ぞうりや、紙屋、水引屋、かづらやその他かし物屋等」




 が繁盛したそうな。祭りに直結する品々ばかりですね。


 中には、そういった繁盛を願ったのか、




「<多くは皆黄金家に計降候由>とあって、その人為であることを明瞭に示している」




 とあるそうで、札が降ったと偽装したのでしょうかね。お金を出してでもお札を家の軒先にばら撒いてどんちゃん騒ぎがしたかったのでしょうか。お札が降ればそれこそ吉事ですから、お札が振ることを祈った人もいたそうな。


 とはいえ、これがすべてがすべていいことでも幸せなことでも、ありがたいことでもなかったそうで、




「札ふりは庶民にとってめでたいことであっても、大勢の人々が「ええじゃないか」と家の中に踊りこまれるのは迷惑でもあった。畳は土足で踏みにじられ、家財道具は台なしにされ、時には品物が紛失することもあったと思われる。そのため毎朝非常に早く起きて、御札がふってなければよいと、戦々恐々として戸をあけたという。


 もしお札がふっていたら、そっと隣りのかど口に持って行ったという老人の直話が伝えられている」




 そうな。


 当時の書には、お札降りに対して批判的、疑問視する人々もいたそうで「札ふりをあざけった夫婦の家に大僧が現れて女房を叩いた」などという、その当時でも冷笑的な人がけっこういたことを示しているのだそうです。


 また、こういった乱痴気騒ぎに時の識者は、




「識者のなかには札ふりにともなう「ええじゃないか」の現象をもって「凶徴」とみなし、あるいはかつて六角佐々木氏滅亡のおりに、提灯踊りといって頭上に提灯をつけて市街を踊りまわった故事を想起し、


<幕府末造の機すでにこの現象を呈せり>と、「ええじゃないか」踊りをもって幕府倒壊の前兆とみるものもあった」




 とあります。


 六角佐々木氏滅亡にそんなお話があったのか、って感じですが、過去にもそんなことはあったのですね。


 また、




「土御門晴雄は十一月一日内儀より、札降りについて吉凶を占うよう命じられた。翌二日、彼はつぎのように上申している。


<(前略)自天上猥守札降候道理これ無く、全邪法邪行の者の所為これ有りと存じ候、吉凶の有無者、何もこれ無く存じ候>


 即ち、札降りはまったく邪法邪行の者の所為であるから、吉凶とは何の関係もないと明確に断じているのである」




 あまりの驚天動地の騒動に、天皇陛下の宸襟を煩わせてしまい、お公家様に占うようにお命じになったようです。


 このように十月中旬には「ええじゃないか」が大発生したようですが、さすがのあまりの大騒ぎに、十一月も中旬になるとさすがにお奉行様から、




「<異形の風体に大勢つれ立ち、町々踊歩行、座敷内まで土足のまま深更に至って踊り騒ぎ、理不尽の仕方追々増長いたし、産業の差し支えに相成り、迷惑の者もこれ有りのよし相い聞こえ、以っての外の事に候>」




 といった塩梅で、祝い酒を振舞うくらいならともかく人の家に土足で踏み込んでなど、やりすぎじゃぼけ。以ての外じゃい。といった塩梅で禁止令が出されたようです。


 とはいえ、それではいそうですか、すいませんねぇ、で収まるほど庶民パワーは並みではなかったようです。とはいえ、ひと月もどんちゃん騒ぎの馬鹿騒ぎをやったので、さすがに金銭的にも体力的にも限界を迎えたのか、十一月の終わりともなればさすがに勢いを失いつつあったそうな。とはいえ、



「『岩倉公実記』は


<十二月九日王政復古発布の時に至って止む>


 とある。


『徳川慶喜公伝』は


<十二月に渉りて神符降下の奇瑞あり>


 とあって「ええじゃないか」の踊りは、禁令にもかかわらず直ちに止むこともなく、少なくとも十二月中ごろではいまだ続いていたようである」




 つまり、二ヶ月程度はまだまだ踊っていたし、御札も降っていたようです。


 ちなみに、新撰組はこの十一月に内ゲバやってます。方や踊り狂って、方や殺しあって。おっかないですね。


 しかし、二ヶ月近くも狂奔する、とか、すさまじいですね。だいたい、一時間も踊っただけで現代人ならへばってしまうでしょうし、少なくともわたしなら30分も踊り狂えば胃の内容物を大地に返上つかまつること間違いなしであります。翌日はともかく、二~三日後には動けなくなることも、間違いありません。


 そう考えますと、彼らは本当に、一日中、夜中の二時ごろまで踊ったあげく、また次の日もそのまた次の日も、と二ヶ月近くも踊れるものなのでしょうかね。しかもその間、お店も仕事も休んで踊りに参加していた、ということですし、そりゃお奉行様も産業に差支えがある、と怒り出すわけです。幕末の都に住む庶民のどこにそんなエネルギーが眠っていたのか。


 一方では大政奉還だ、王政復古だ、元治元年(1864年)には蛤御門(はまぐりごもん)の変だ、と武士たちが己の手で、歴史を作っていっている、歴史が目の前で動いているという大変な時代であり、一方では庶民たちの底知れぬエネルギーの奔流。


 漫画的に表現するなら、支配者と、被支配者のエネルギーが京都を中心に充満し、特異点を超えて濁流となってほとばしった、わけです。激変する時代のど真ん中にあって、持てるエネルギーを大爆発させたのがこの「ええじゃないか」です。


 自分たちの頭上で、武士たちが歴史を作っているのに、庶民はただ、それを仰ぎ見るのみ。ただ、それをこうむるのみ。


 士農工商による、冷然とした身分差別によって庶民には政治に参加するなど、ありえない時代。それどころか、戦いの場にだって参加できないし、ましてや公家の住む世界は雲上の世界です。


 しかし、その士農工商によって武士たちは、何と、大政奉還をなしとげ、王政復古の大号令までなしとげ、さらにさらに、明治に至っては廃刀令、廃藩置県、支配者が支配者をやめた、世界でも唯一の成功例を成し遂げたという大奇跡をやってのけたのです。すべて、武士がなしとげたのです。庶民ではありません。


 そんな時代の下部にあって、抑圧された鬱憤を爆発させて、二ヶ月にもわたる狂奔を演じた庶民。そう考えますと、実はこれこそが日本の革命のエネルギーだったのかもしれませんね。西洋ではバスティーユ牢獄襲撃になるような大爆発となり、日本では「ええじゃないか」となった、というと暴論にすぎるでしょうけど、しかし、庶民のエネルギーの爆発、では通底しているような気もします。そう言い切ってしまうと、日本は平和だなぁ。


 現代、民主主義にいたっては、庶民であっても政治にも参画できますし、希望者は自衛隊にも入れます。しかし、冷然たるかつての身分差別が厳乎たる時代だからこそ、鬱屈したまりにたまってマグマのように力を蓄えたエネルギーというものも、確かにあった。厳乎たる時代だったからこそ、武士たちは正しい国のありようを必死になって模索し、成功裏に導いた。


 現代の日本人は、ただとある場所に集まって、仮装するくらいしかできないのでしょうか。


 現代の為政者に、正しく国を導くなどということができるのでしょうか。


 最後に、現代の識者が現代の「ええじゃないか」の吉凶を占ったとき、そこに何をみるのでしょうね。


 といったところで「ええじゃないか」を楽しく学んだのでこれにて終わりにしたいと思います。


 

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