「佐藤一斎『重職心得箇条』を読む」 の六、
では続きまして、「佐藤一斎『重職心得箇条』を読む」 の六、始まり始まり。
「【公平を失ふては、善き事も行はれず。およそ物事の内に入りては、大体の中すみ見へず、姑く引除て活眼にて惣体の体面を視て中を取るべし】
「公平を失ふては、善き事も行はれず」
いろいろのことを行う、特に政治を行うときに公平ということを失えば良いことも行えない。
「およそ物事の内に入りては、大体の中すみ見へず」
「大体の中すみ」の「すみ」とは一隅の隅ですね。物事にとらわれてしまうと全体が見えない。
「姑く引除て」
女偏に古いと書いてしばらくという意味に使うのは文字学からいうと、大変面白いですね。
女が古くなると、まあまあと何でも妥協的になる。テキパキやらないでそのままにしておく。若い時にキビキビしていた人でも倅に嫁をとって自分は姑になる。そういうころには、しきたり、仕癖ですますようになる。というので姑という字を「しばらく」と読むのであります。
これを息という字をつけて姑息、しばらくやすむということ、つまり、まあまあといって何もしないということです。
「引除て」そういう問題にこだわらないで、
「活眼にて惣体の体面を視て中を取るべし」
眼の届かないところがないように全体を観察して、そしてその真中をとるのがよろしい。
問題の中に入って、すみずみが見えなくなってしまうと危ういということです」
けっこう前ですが、芸能人の不倫から、不祥事に対してパンピー(一般人)が非常に厳しく目を光らすようになりましたね。わたしは度々、しょせん芸能人ごときに倫理を問うこと自体に疑問を感じておる次第でありまして。
芸能人なんて、そもそも、濡れ手に粟で金儲けできればそれでいいや、っていう、ただパンピーよりも顔がいいとか体が綺麗とか歌がうまいとか、その程度の存在であって、別に正義を体現するとか倫理を世に問うような存在ではありません。
警官が飲酒運転したとか、政治家が汚職した、の方がよっぽど問題なのに、そっちよりはるかに芸能人のスキャンダルにかみついて得々としておることに異常性しか感じませんね。
結局、いじめと一緒で、反撃しにくい相手を攻撃して得々としておるのがほとんどであって、本当に倫理とか正義とかを問題にしているのがどれほどいるのやら。
テレビでの場でいられなくなって、しょうがないからようつべあー(ユーチューバー)にならざるを得なくなって、そこで多少は糊口をしのごうとも、切磋琢磨がやりづらくなるから先細りしてゆく。
アニメが好きな人間なら、声優さんがどれほど厳しい世界で生きているか知っている人も多いでしょう。
例えば、ルパン役で有名な山田康雄さんも、最初は声優の仕事なんて、声だけの仕事だからとテキトーでも大したことない、となめてかかって痛い目にあってそれ以降ド真剣になって仕事に取り組んで、本番でミスはなかったそうな。今はどうか知りませんが一昔前の声優さんは、恐ろしいまでのプロ根性の権化の様な方々がひしめき合って、日々切磋琢磨されていたとか。
やはり、現場ならではの空気、プロならではのやり取りがあるわけで、そこだからこそ得られるもの、磨かれるものがあるのであって、ようつべあー単体では限界があるとわたしは思いますね。
さらに、これから世にいでようと思っている芸人も、叩かれることを恐れて萎縮して、芸の幅も狭まってゆく。結局の所、誰も得しない、弱い者いじめをする下衆を大量生産するだけのことなんですが、
「姑く引除て活眼にて惣体の体面を視て中を取るべし」
まあまあ、と物事を長い目で見ようなんて人間は、現代にはあんまりいないのでしょうね。せっかく、どこぞの半島人という最高の反面教師があるのに、その鏡を見て我がふり直す、という人がどれほどおわすか。
といったところで、「佐藤一斎『重職心得箇条』を読む」 の六、はここまで。