「佐藤一斎『重職心得箇条』を読む」 の一、
おこんばんはです。豊臣亨です。
なんやかんやありつつも残すところパラリンピックを消化するのみ。肩の荷が下りる、とはこういうことを言うのでしょうか。
本来だったら、外国人がわんさかやってきて、観光収益でガッポガッポでウッハウハじゃ~~ ってなところでしょうが、中共肺炎のせいでウッハウハどころかお荷物状態。とはいえ、開催に向けてすでにとんでもない大金を注ぎ込んでいるので戦争状態ならともかく、いまさら開催を拒否することなどできるはずもなし、無観客だろうが無収益だろうが「2020」をやるしかない。
オリンピックは開催します。
でも、緊急事態なので不要不急の外出は控えて下さい。
「緊急事態とはいったい…………うごごごごg」
と、エクスデス様もネオ化しかねませんね。
また、アフガニスタンはテロ勢力のタリバンが掌握したとか。かつてはソ連が介入し、また、米帝が介入し、今度は中共か、と囁かれていますが、今後どうなることやら。
あんま関係ないことをいいますと日本では徳川幕府は完全な軍事政権でしたが、豊臣攻撃の後「元和偃武」で戦闘状態の終了を宣言、徳川による政権の正当性を主張しました。そしてそれからの武装蜂起はすべて幕府に対する反逆として、よい見せしめに島原の反乱は全住民の虐殺ということになりました。
軍事で政権を奪取するということは禅譲と比べますとやはり、流血が多いわけですが今後タリバンが徳川幕府のように強固な支配体制を築けるかどうか、というところでしょうか。唐の太宗も、「創業と守成いずれか難しか」と言ましたし、漢の高祖の時代では「馬上天下を取るべし、馬上天下を治むべからず」と言いまして、物事を新しく始めることと、その状況を維持するのはまた別種の才能と努力を要求されるわけで、たかが銃を乱射するしか能のないテロ勢力に治国の才能があるか否か、まあ、すぐに分かるのでしょうけど。昔は中原(中華)には手を出すな、といいましたが昨今はアフガンには手を出すな、ということなのでしょうかね。
さて。
今回はまるっと丸写しのコーナーや~。
というわけで今回読んでみるのは我らが安岡先生の書、
「佐藤一斎『重職心得箇条』を読む」 致知出版社
こちらから。ではまず、佐藤一斎とはどなたでしょうか。江戸時代は末期の安永元年。1772年に生まれたお方で、安政の大獄で有名な安政六年、1859年に没。美濃国岩村藩出身の儒学者です。また、人生を生きる上で経験したことなどを書き留めた随想録がありその名が、『言志四録』で、これは西郷隆盛公などが愛読したとされます。では早速本文に入りまして。p13
「佐藤一斎先生と申しますと、現代流に一言にしていえば幕府の大学総長であったわけです。一斎先生は美濃の岩村藩の家老の子息で、少年のころから非常によく出来た人でした。そのころ岩村藩主の御曹司で林衡(後の林述斎)という大変英邁な公子がいまして、一斎先生はその人の友として形影相従ったと申して良い人です。
この人は後に幕府の総理であった松平定信(1758~1829)に見込まれて林家を嗣ぎ、述斎と称し、皆さんもよくご承知の幕府の大学長になりましたが、一斎先生はその縁にひかれて述斎先生が亡くなった後、学頭を継承し、安政六年に、八十八歳で亡くなりました。
一斎先生は当時天下各藩の志ある者で先生の人物、学問に傾倒し教えを受けなかったものはいないといわれたほど、非常に広い感化を世に及ぼした人です。しかもこの人はいわゆる儒者、ただの学者、教育家というものといささか異なる人でありまして、非常に自由な、そして風格に富んだ文字通り碩学というべき人でした。
一斎先生には、読者の間に知られている面白い逸話、先生の風格をよく伝えたいろいろの伝説があります。
その一つを申し上げますと、先程も申しましたように、当時、諸藩の志ある人物、学問を好む人物が、多くこの一斎先生の門を叩いて教えを受けておりますが、その中に幕末の志士で不羈奔放な性格でも有名な佐久間象山がいました。
(中略)
象山とよく並び称される山田方谷という人がいます。この人は、あまり知られていません。しかしこの人は、もし大藩に出ていたらば非常に偉くて、後世にも名を残したと思う人傑ですが、今は高梁といっております備中松山というところのたった五万石の小藩板倉藩の家老でした。しかも藩公は幕末に老中をいたしまして、徳川幕府と運命を共にした人です。方谷も運命を藩公と共にして早く隠遁してしまいました。
しかしそれでもこの人の業績は、識者の間には非常によく伝わっています。
あの備中の高梁なんて本当に山の中の小さな町ですが、旅人が一度、この高梁、つまり松山藩に足を入れますと、すぐに「ああ、これは板倉藩だ」ということに気づくというほど、実によく善政の効果が見えており、その風格、流風余韻というものが永く残っていたそうです。
この藩公板倉勝静が老中をしていたある時、控えの間で老中のお供の人々が雑談にふけっておりました。段々話が微妙になり、時局論になった。その時たいていの者は、「何、我が幕府の威力をもってすれば、この時局などは問題ない」という意見だったのですが、その中で山田方谷だけは、襟を正して、
「いや、方今、この徳川将軍の治世というものは、荒い波濤(風が荒れ、波が高い)に竿さしている舟のようなもので、非常に危うい、この時局と幕府というものをたとえて考えてみるならば、衣服のようなものである。
家康神君が仕立てられた衣服を家光将軍、綱吉将軍、代々の将軍が洗い張り、湯のしをし、仕立直しをいくども試みて今日に至った。率直にいうともう仕立て直しがきかんくらいに弱っておる。これは大変なことだ。我々はちょうど波濤に竿さす扁舟(一葉の舟。小舟)のようなものだ」と非常にきつい言葉で評しました。
一座の者は、かたちを改め、色を失ったという話があります。山田方谷という人は、そういう見識の高い、そしてまた、非常に気概のある珍しい人傑でした。
その人がやはり一時、佐藤一斎の門下におりまして、たまたま佐久間象山と一緒でした。
実は塾の中に寄宿舎がありまして、そこに他の塾生と一緒に象山と方谷も泊まっていたのですが、毎晩夜が更けますと、象山と方谷が議論を始める。段々議論が激しくなって、やかましくて仕様がない。
そこで他の塾生が迷惑がり、代表者が一斎先生のところへまかり出て、
「実は毎晩夜が更け、我々が寝ようと思うころになると、やかましく激論をする奴がいて困ります。先生から一つお叱りを願いたい」と申し出たそうです。そうすると一斎先生は、「何者か」「方谷と象山であります」「そうか」としばらく考えておられて、「あの二人がやるなら、お前達はがまんせい」と言われたので、皆しゅんとなってしまった。
これは大変面白い逸話であります。たいていなら、「それはけしからん、私から言うてやる」といわれるところなんですが、象山と方谷の議論ならがまんせいと言ったところなどは、一斎先生もただ者ではない、なかなか線の太い、豪邁な人であることをよくあらわしている話だと思います。
この一斎先生は、そういうわけですから人物、風格、学識(学問、見識)、をもってその及ぼした感化というものは、今日、静かに検討してみますと、驚くべきものがあります。
その一斎先生が自分の出身の岩村藩のために選定しました藩の十七条憲法、これが「重職心得箇条」です。
これは、段々有名になりまして、伝え聞く諸藩が続々と使いを派遣してこの憲法を写させて貰ったということです。
それがどうしましたか、明治以来すっかり世に忘れられてしまいまして、自然、「重職心得箇条」というものの原稿の所在も不明になっていました。確か大正になりまして、ふとしたことから東京帝大の図書館の蔵書の中から発見され、改めて識者の間に注意を引くようになったという歴史があります。
これを読んでみますと実に淡々として少しもこだわらず極めて平明に重職の心得べき憲法を叙述しています。聖徳太子の十七条憲法なども非常に優れたものですが、この心得箇条も非常にくだけた文章で、しかも高い見識のもとに、国政にあずかる重要な職務にあたるものはかくしなければならんということを、実に要領よく把握している名作だと思います。
先程申しましたように、全然わからずになっていたものが、大正になって初めて世に出て参りまして、終戦前、私も大分紹介いたしまして東京でも大阪でも志ある人々に知られるようになりました。
これは現在でも大変参考になるものです。
皆さんは会社の重職でありますから(この講義は昭和五十四年四月、住友生命支社長会議の席上での講義筆録)、皆さんの為に大いに参考になるだろうと思い、この「重職心得箇条」をご紹介する次第です。p23
一、【重職と申すは、家國の大事を取り扱うべき職にして、この重の字を取り失ひ、軽々しきはあしく候。大事に油断ありては、その職を得ずと申すべく候。先づ挙動言語より厚重にいたし、威厳を養ふべし。
重職は君に代わるべき大臣なれば、大臣重ふして百事挙るべく、物を鎮定する所ありて、人心をしつむべし、この如くにして重職の名に叶ふべし。また小事に区々たれば、大事に手抜きあるもの、瑣末を省く時は、自然と大事抜け目あるべからず。この如くして大臣の名に叶ふべし。およそ政事名を正すより始まる。今先づ重職大臣の名を正すを本始となすのみ】
「重職と申すは……軽々しきはあしく候」
つまり重職、重役というものは、重役らしくどっしりとしておらなければいかんということです。軽々しい、軽薄だということはよくない。この重職というのは「重」の字が大事である。それを取り失って、軽々しい軽役、軽職であってはいけません。
「大事に油断ありては、その職を得ずと申すべく候」
大いなる問題に油断があってはならない。大事な問題に油断があるのでは「その職を得ず」つまり、重役、重職たるに値しない。その職務や職責にふさわしくないという意味です。
「先づ挙動言語より厚重にいたし、威厳を養ふべし」
こういうようなことを言われると何だかとってつけたというか、窮屈なというか、そういう誤解もあり、気障な言葉のように聞こえるかもしれません。しかし、この言葉は実は東洋に人物学というものと大変深い関連を有するものです。
昔から日本や中国を通ずる東洋の人物学というもの、これは非常に面白い学問です。人物とはどういう者をいうかというようなことを研究する人物学と題した権威ある倫理学、人間学、道徳学、これはあってよい学問の一つです。
人物を申しますと、文字そのものは人と物ですけれども、用語としては、「出来た人間」、片々たる軽薄な人間ではない、しっかりとした人間、これを人物という言葉で表現するわけです。
それでは世にいう人物というものにはどういう条件があるかということが問題となるのですが、そういう人物学を考え始めると、際限のない問題となります。
そこで、皆さんのご参考になろうと思うことを一つ、しかも古来の学問中で非常に重んじられている解釈、説明の一例を申し上げます。
人物の優れた段階といいますと「深沈厚重」人間がどこか深みがあって落ち着いている。厚み、重みがある。これを東洋人物学では第一等にあげております。成程、いわれてみるとわかりますね。
それでは、その次は何かと申しますと、これは一寸、普通の人には考えつかないことですが、「磊落豪雄」と申しております。磊落、例えば大きな石がごろごろしている線の太い、貫禄、つまり重み、厚みがある人です。これが「深沈厚重」、偉大な人物、立派な人物の次にくる人物の内容である。
それから第三に、初めて皆がよく知っている言葉が出てきます。「聡明才弁」、頭が良くて、才があって、弁舌が立つ、これは人物の第三等である。
この「深沈厚重」「磊落豪雄」「聡明才弁」の三つが人物というものを観察、表現、解釈する古来からの専門家に知られている一つの立派な基準です。いわれてみると成程と思います。普通なら頭がいい、才がある、弁が立つ、なんていうことは誰にでもわかる大変いいこと、優れたことでありますが、人物学という鑑識、評価からいうとそれは第三等なのであります。
一斎先生はやはり常にこれを考えておられたようです。
本文にもどりまして「威厳を養ふべし」威厳を取ってつけたような威厳ではなくて、そこから自然に出てくるような威厳でなければならない。
「大臣重ふして百事挙るべく」
大臣がどっしりしておって初めていろいろの仕事、成績があがる。
「物を鎮定する所ありて、人心をしつむべし」
物を鎮め定める、その人の手にかければ、いろいろ厄介な問題も自然に落ち着く。「人心をしつむべし」静む、鎮定する、人心、民衆の心を落ち着かせる。
「この如くにして重職の名に叶ふべし」
これは、明治、大正、昭和と、国政の衝にあたった人達を順々に考えて参りましてもわかります。やはり西郷とか大久保とか、ああいう人々がおった時は、何ということなく、人心がどっしりと落ち着いている。それから後世になると段々軽くなる。軽くなるというと争いが始まり、浮調子になる。
重職というものは、何となくどっしりとして重みがあり、その人がおると人々が落ち着くというふうでなければならない。
「また小事に区々たれば、大事に手抜きあるもの、瑣末を省く時は、自然と大事抜け目あるべからず」
「瑣末」とは、こせこせとしたこと。つまりこせこせ枝葉末節に走るというとつい大事なことに手抜かりが出来て落ち着かない。つまらないことは省いて大きな問題について抜け目なく、どっしりとして安定感をもたせる、というようであって、初めて大物大臣の名にかなうものである。
「およそ政事名を正すより始まる」
大義名分、たてまえ、これをいい加減にするというと何が何やらわからないものになる。
「今先づ重職大臣の名を正すを本始となすのみ」
重職大臣というものは、まず第一に「その名を正す」、つまり、重職、大臣の名のとおり、まちがいのないようにするのが根本であり、始めである。くだらない枝葉末節に走らず、自然と肝腎大事なところはしっかりと握るということから始めなければならない。これはまことにそのとおりです」
その一はここまで。
重々しい人物。
最近はこういう人物評価はさっぱり聞きませんねぇ。
昨今は政治家とか、論語にいう、聞人、有名人などの発言をやほーとかで伺いますが、自滅的な軽々な発言が多いですね。もっというなら「聡明才弁」その能力すら疑わしい人物すらうようよいる始末。
論語にこういう言葉がありますね。
【君子、重からざれば則ち威あらず】
君子は、どっしりとした重みがなければ威厳はない。
だからバカにされ、軽んぜられるわけですね。
そのくせ、昨今は軽々しいくせに、妙に攻撃的といいますか、排他的で夜郎自大的なものが多い。もう、そういう時代だと諦めるしかないのでしょう。まあそもそも、やほーとかで、大したことでもないことで針小棒大に取り上げてわきゃわきゃ騒いでいる事自体が人間の軽さの証明なのですが。
せめて、自分はそうならないように学ぶほか、それ以外にはない。
といったところで今回はこれまで。したらば。
紅殻のパンドラのOP・EDを聴きながら。
「ここにキマシタワーを建てよう」