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『君主論』を読む



 昨今、やほーニュースを見ても、毎日毎日、殺しただの犯しただのそんな話題ばっか。そうでなくとも、あんた、自分の面構えみてもの言ってる?w って言いたくなるような人物が跳梁跋扈する毎日。


 また、最近はアニメをみても面白いものがめっきり減りました。


 まあ、ある意味当然の帰結でして、つまらん連中が寄ってたかってアニメをつまらなくしているんだから、つまらんアニメで溢れるに決まっている。もっともそんなことは昔から言われているので、いまさらですが。


 TVも深夜のアニメ以外全然見なくなったし、見るのはようつべくらい。世の中が加速度的につまらなくなっている気がしますが、年のせいですかね。


 しかし。


 未来に向かって後ずさりする世の中とは真逆に、わたしはさらなる進化を手に入れた。


 そう。日々、んまいラーメンを求めておりましたが、ついにこれという方法を見つけました。


 それは、豚こま。



 方法は至ってシンプル。豚の細切れ、まあだいたいワンパック200円くらいのものを買ってきて、それをまずは茹でる。鍋に入れる水の量はラーメン用ドンブリよりちょっと多め。で、沸騰したらアクを捨て、温めておいたスープを入れてひと煮立ち。


 やることはこれだけ。


 たったこれだけで、市販のスープに決定的に足りなかった旨味、アブラを味わえることでしょう。さすがに行列が出来るラーメン店には遥かに及びませんが、ですが自分の家で作ったラーメンの、なんか物足りない感が相当改善されることうけあい。


 利点はこれだけにとどまらず。


 ラーメン用として市販されているものの中にはチャーシューとかがあります。ですが、基本値段が高い気がします。数枚入っているだけで350円とかはザラ。で、当然味付けがなされているわけですが、そもそも自分がこれから食べようとしているラーメンの味と一致していないことの方が多い。もっと言うなら、味が喧嘩していることも無きにしもあらず。


 しかし、豚こまにスープを加えてひと煮立ちすれば、そのスープの味に馴染むから喧嘩するなどありえません。さらに言えば、チャーシューから旨味が出ることも少ないでしょうが、豚こまなら旨味がわんさか出ております。しかも、数枚しか入っていないチャーシューと比べて、ワンパック200円でも量的には100g~200gはあって食べごたえも十分。堅固なチャーシュー派でもなければ今日から切り替えても問題はないでしょうw


 豚のU・MA・MI☆ミ を味わったら、これなしだとびっくりするほど味わいに大差が出ることに気がつくことでしょう。オメメメ(オススメの最上級。大嘘)。



 さて。おこんばんはです。豊臣亨です。


 今回読むのは、『君主論』 これも、知っている人は知っている、知らない人は知らなくても人生に何の問題もないような本。ですが、わたしは昔から何故か好きでして、何回か読んではいるのですが今回はこれを再度読んで紹介してみたいと思います。



 今回読むのは 『君主論』 マキアヴェッリ著 河島英昭訳 岩波文庫



 そもそも君主論とは何かといいますと、それは冒頭にマキャベリが申しております通り、p9




「偉大なロレンツォ・デ・メーディチ殿下に


 大方の習わしとして、君主の恩顧にあずかろうとする者たちは、おのれの所持品のなかでもひときわ貴重な、またひときわ君主に喜ばれそうな品物を携えて、拝謁を願い出るのが世の常です。


 そのため駿馬や武具、金襴緞子(きんらんどんす)(豪華な織物)、宝石その他、君主の偉大さにふさわしい装飾具の類が贈物に差し出されるのを、しばしば目にしてきました。


 そこで、私といたしましても、偉大な殿下の御前にささやかながら私の忠誠の証の品を携えて参上したいと願いはしましたが、わが家財のうちに、ことさらに貴重な品物はなく、わずかに価値あるものとして私が見出したのは、近き世の事象について積年の経験で身につけ、また遠き世の事象については不断の読書によってみずから学んだ、偉大な人物たちの行動をめぐる認識だけでした。それら古今の事蹟について長らく熟慮し検討した結果を、いま一巻の小著にまとめて、偉大な殿下に謹呈申し上げる次第です」




 ものすごく簡単ですね。


 うちには金もないし見るべき家宝も特産品もない。ただあるのは、実務経験と古今に学んだ歴史知識。これだけだ! だから雇って!


 と言っているわけです。


 簡単です。


『君主論』とは、恐ろしく簡素に言ってしまえば自薦の書、なわけです。


 では、この君主論を書き上げたニッコロ・マキャベリとは何者なのか。簡単にwikiを見てみますと、15世紀、イタリアはフィレンツェ共和国に生を受けた、貴族かどうかはよくわからないけれども、為政者一族であった。


 内政と軍事を司る「第2書記局長」に就任、その後「「自由と平和のための十人委員会」秘書官に任命され」ピサ侵攻に深く携わり、時には傭兵隊長と、時にはフランス王国とも折衝し、その実務上の経験から傭兵も外国の援軍もまったく当てにならない、それどころか実害にしかならない、という結論に至った模様。


 そしてフィレンツェを統治するメディチ家に関する陰謀に巻き込まれ投獄され、拷問も味わい職を失った。しかし、上記のようにロレンツォ・デ・メディチの治下に謁見の機会を得て『君主論』を進呈。やがてメディチ家で信任を得るもメディチ家が没落するに合わせて追放、そして急死。


 職務上は非常に有能な人物であったけれども、運命は彼に非常に過酷な道を用意していたようです。ですが、彼は隠遁生活においては近隣の農民相手に賭け事をして遊び、陽気でおしゃべり好き。良き夫で良き父であった、とか。


 面白い人物です。


 また、重要なのが、この当時のイタリアというのは小国が乱立し、諸外国の外圧に木の葉のように不安動揺が収まらないことからそれを鎮定しうる人物として、自分が実際に折衝し目の当たりにしたチェーザレ・ボルジアという豪傑に、非常な興味関心を寄せていた。その当時のイタリアを救うに値する人物は、チェーザレ・ボルジアのようでなければならない、としてこの人を基準に為政者の有り様、というのを考えています。


 つまり、『君主論』とは、そのロレンツォ・デ・メディチに、立派な為政者とはなにか? をマキャベリの実務能力と古今の歴史書などから得た経験と学問に裏打ちされたノウハウを教授する書、なわけです。


 だから、こういう面白い人物から生み出された本書も実に面白い。ですが、内容が非常に明快でわかりやすかったが故に、昔から毀誉褒貶が激しかった。古来、この君主論の内容をふまえマキャベリの考えをマキャベリズムと言い、「目的のためなら手段を問わぬ」という冷酷非情の代名詞、みたいに言われることもあります。


 事実、マキャベリは端的にこう言います。これは、占領地におけるそこの旧住民への対処として。p22




「ここで注意しておくべきは、人民は優しく手なずけるか、さもなければ抹殺してしまうかだ」




 何故そうするか、続けてこう言う。




「なぜならば、軽く傷つければ復讐してくるが、重ければそれができないから」




 簡単ですw


 君主論を読むとわかりますが、実にこういった直截(ちょくせつ)的な、簡単な記述が目につくと思います。ある意味、この簡単さ、平易さこそが『君主論』の魅力でもあり、それが癇に障る人間にとって気に食わない部分でもあるわけですね。


 しかしながら、『君主論』の内容としましては、マキャベリが学んだ歴史認識や、実際上の統治に関する考えがほとんどなので、現代に生きる我々にはまったく関係のないものばかりです。たとえば、ハンニバル・バルカの評価でマキャベリはこういうわけです。p128




「ハンニバルの赫々(かくかく)たる数多の行動のなかで、特筆すべきは、あれほど膨大な軍勢を率いて、そのなかに無数の人種を混在させながら、異郷にあって作戦を展開したにもかかわらず、順境のさいと同様、逆境にあっても、部下のあいだで、また君主に対して、一度として不和の生じたためしがなかった点である。


 このような事態は彼のあの非人間的な冷酷さから以外には生み出されたはずがない。この冷酷さが、無数の彼の力量と相まって、彼の兵士たちの目には尊敬すべきと同時に恐るべき人物として映ったのであった。そしてあの冷酷さがなければ、彼の力量が他にいくらあっても、あのような効果を生み出すには足りなかった」




 ハンニバルの成功の最大要素は非人間的で冷酷だったからだ! って断言しているのですがそれが正鵠を射ているのか、まったく分からないし、「非人間的な冷酷さから以外には生み出されたはずがない」などと断言していいのかどうか、ちょっと軽々に判断しかねます。


 たとえば、信長公も非人間的で冷酷であったことは周知ですが、しかし、それ以外にも家臣の家族に対し実にきめ細やかな配慮もされるし、仲間と認識すれば結構甘やかすし、敵国領を統治するにしたって、手懐けるかまたは皆殺し、などと極端な統治をしていないことは事実なわけで、冷酷さだけであれだけの偉人になれるかどうか、など迂闊には言えません。もっとも、ハンニバルと信長公では残された文献の数が全然違うでしょうけど、少ないからといって臆断はできません。


 ましてや15世紀のイタリアのより詳しい歴史なんてそこまで興味ないw


 なので、わたしとしましてはこの本書の中にあるマキャベリの記述の面白さ、を中心に見てみたいと思うわけであります。p65




「第八章 極悪非道によって君主の座に達した者たちについて


 だが、私人から成り上がるのに、さらに二つの方法があり、そのいずれもが運命にも力量にも全面的には帰せしめられないがゆえに、私としては触れないで済ませるわけにはいかない。


 ただし、そのうちの一つについては、共和政体を扱う場所でさらに広く論ずるであろう。二つの方法というのは、極悪非道な何らかのみちを通って君主の座に昇った者の場合と、市井の一私人が自分の同胞である市民たちの好意によって祖国の君主になった者の場合である。そこで第一の方法を語るにあたり、古いものと新しいものと、二つの実例を示すだけにして、この部分に関してはそれ以上の功罪にまでは踏み込まないでおこう。


 なぜならば、是非にも真似をしたがる人にはこれらの実例を示すだけで十分であろう、と私は判断するから。シチリアのアガートクレ(wikiではアガトクレス。紀元前361年~紀元前289年)は、単に私人からだけでなく最底辺の下賤の身から、シラクーザの王に成り上がった。


 この人物は、陶工の家に生まれ、年齢の段階を重ねる度に、変わりなく極悪非道の生き方を貫いた。しかも彼の極悪非道ぶりには盛んな気力と体力とが伴っていたので、ひとたび軍隊に入るや、次々に階級を昇りつめて、シラクーザの軍事司令官となった。


 その地位が不動のものに固まると、君主に成り上がるための準備を整え、それまでは合意によって譲渡されてきたものであったのに、他人から受けた恩義を棄て去り、暴力によってこれを維持するための準備を抜かりなく整え終わるや、彼のそういう目論見をカルタゴのハミルカレ(wikiではハミルカル。ハンニバルの父。 紀元前275年頃~紀元前228年)しめし合わせたうえで――そのとき相手はシチリアに軍を進めてきていた――ある朝、あたかも共和政に関する事項を議さねばならないといわんかのごとくに、シラクーザの民衆と元老院とを招集した。


 そしてあらかじめ定めておいた合図と共に、配下の兵士たちに、元老院議員や最も裕福な民衆たちを、一人残らず殺害させた。殺し終わると、市民たちの誰一人反対するはずなく、彼はこの都市の君主の座を奪ってこれに就いた。


 そしてカルタゴ軍を相手に二度までも打ち破られ、挙句の果てに包囲までされたのに、自分の都市を守り抜くことができたばかりか、さらには、配下の兵員の一部を敵の包囲の防御に当たらせたまま、残る兵を率いてアフリカを攻撃し、短期間のうちにシラクーザを包囲網から解放して、カルタゴ軍を窮地へと落とし入れた。


 そこで相手は彼と協定を結ばざるを得なくなり、相手はアフリカの領有だけで満足するしかなくなり、またシチリアのことはアガートクレに委ねざるを得なくなった。


 ところで、この男の行動や生き方を熟慮してみる人は、運命に帰せしめられるような出来事が見当たらないか、あるいはほとんど見つけられないことに、気づくだろう。なぜならば、すでに述べたごとく、誰かの好意を得たためではなく、軍隊の階級を昇りつめただけのために、しかもその過程で千もの難儀と危険を乗り越えつつ、一つ一つを身につけていって、ついに君主の座へ到達したのであるから。


 それでもなお、自分の同胞である市民を殺害し、友人を裏切り、信義を欠き、慈悲心を欠き、宗教心を欠いた行動を、力量と呼ぶわけにはいかない。そのような方法によって権力を獲得することができても、栄光は獲得できない。


 なぜならば、危険のなかに跳び込みそこから脱出してくるときのアガートクレの力量と、逆境に耐えてそれを克服するときの彼の精神力の偉大さとを、もしも熟慮してみるならば、卓抜ないかなる武将と比べても彼を劣るべきものと判断する理由は見当たらないが、にもかかわらず、数限りない極悪非道によって示された彼の野蛮な残酷さと非人間性とは、卓越した偉人たちの列に彼が加わることを容認しないから。


 かくして、運命にも力量にも関係なく彼によって達成されたことを、そのいずれにも帰せしめるわけにはいかない」




 マキャベリははっきり言うわけです。


 マキャベリズムを認めるわけにはいかないと。


 君主にとって必要な資質のなかに、敵や、敵として認識した民衆を殺すことにいささかの躊躇もあってはならないが、だがしかし、そのすべてを薄汚い姦計と裏切りと暴力のみによって成り上がったものを、偉人として認めるわけにはいかない、というわけです。


 何故ならば、そんな方法で獲得した君主の座など、転げ落ちるのもあっという間であるから。どんな方法であろうと目的のためなら手段を問わぬ、などと、正気か、と。極悪非道によってなされた行為など、そんなものは認めるわけにはいかないと。マキャベリははっきり言うわけです。


 彼はこの中で、アガトクレスの行為を力量、と認められない、というわけですが、ちょっと力量という語感と合わないから、この場合は、人格、と解釈すべきでしょうか。斎藤道三公を、一代(または二代?)で成り上がった力量や才覚ある人物として見ることはあっても、やはり人格者として認めることはない、みたいな。


 なんでもやりゃ~いい、なんて、マキャベリは一言も言っていないわけですね。悪いものは悪い! とはっきりいっているわけです。


 ですが、まあ、『君主論』のそもそもの主眼が、政権や王朝の長期維持が目的なので、最初っから下剋上をあんまり意識していないのもあるんですけどね。p131




「第十八章 どのようにして君主は信義を守るべきか


 君主が信義を守り狡猾に立ち回らずに言行一致を宗とするならば、いかに讃えられるべきか、それぐらいのことは誰にでもわかる。だがしかし、経験によって私たちの世に見えてきたのは、偉業を成し遂げた君主が、信義などほとんど考えにも入れないで、人間たちの頭脳を狡猾に欺くすべを知る者たちであったことである。そして結局、彼らが誠意を宗とした者たちに立ち優ったのであった。


 あなた方は、したがって、闘うには二種類があることを、知らねばならない。一つは法に拠り、いま一つは力に拠るものである。


 第一は人間に固有のものであり、第二は野獣のものである。だが、第一のものでは非常にしばしば足りないがために、第二のものにも訴えねばならない。そこで君主たる者には、野獣と人間とを巧みに使い分けることが、必要になる」




 法に従うこと、約束を守ること、思いやりをもつこと、これらが人間にとって重要なことは子供でも分かる。


 しかしながら、歴史をみれば常に、この法を守らず、約束を守らず、人を殺し屈服させてきた野獣の要素こそが世を切り従えてきたことが事実なのだ、とマキャベリは言うわけです。


 まさしくその通りですね。


 ただ、現代を生きる東洋人として理解すべきは、西洋と東洋では、そもそもの為政に関する考え方が根幹から違っているということを知っておいた方がいいです。


 東洋では、古来、まつりごとの最重要課題とは、いかに民衆を安楽に治めるかこそがもっとも重視されてきたのであって、だから孔子様も論語のなかで、




「己を脩めて以て百姓(ひゃくせい)を安すんずるは、(ぎょう)(しゅん)もそれなおこれを病めり」




 とおっしゃるように、ただの政治ではなく、仁政を行うことこそが、為政者にとっての最重要課題であり、そもそも為政者とは、民草を安心させることが存在意義だと考えているわけです。


 だから、東洋人にとって、一番大事なところが天であって、その天地から我々は生まれてきたのであるから、天にこそ、我々人間が目指すべき徳の根本が、中心があるのだ、と考える。


 だから、その天の徳を一身に受けた存在を、天の子、天子と呼ぶわけで、だからこそ、いくら天子と言えどその天の徳を失ったものは易姓革命によって入れ替えを行わければならない、という王朝交替の概念が起こるわけです。


 東洋では、大昔から、そもそも国家が生まれた直後から徳、という概念が発生したのに対し、多分、西洋では現在に至るもそんな概念など存在していない。


『社会契約論』などで、国家という組織と、人民一人ひとりが契約することで、様々な社会におけるサービスやら権利やらを保護するのだ、という考え方を見るように、マキャベリの言うような実に現実的で、即物的で、弱肉強食的な概念だけで社会が成り立っているわけです。だから、人間として約束を守ることも確かに大事だが、いざとなれば野獣となって敵を滅ぼしてその肉を食らうこと、まずもって生存することが、最大級求められることなのだ、となるわけです。


 そして、今の中共もそうだし今の日本も、この西洋イデオロギーに脳みそ毒されて、マキャベリのような社会を構築しているのが世界の現状なわけですね。


 だから、今の東洋に、仁政とか、徳、などというものは存在しないし、だから、万世一系、などといって皇室を称えながらも一方では税金で食わせてもらっている半乞食、みたいな見方もしている。実に中途半端な状態なわけですが、しかし、そのことに違和感を覚え、東洋古来の思想に帰ろう、などという人間は、西郷隆盛公が亡ぼされてからはほとんど現れたことがない。わずかに、安岡先生のような古今まれな、山鹿素行の言う「天縦(てんしょう)の神聖(天がほしいままにさせる程の能力)」くらいの人しか現れたことがない。しかし、多くの日本人にとってはもはや無関係な思想であるから、省みるものはもはやいない。


 話を戻しますと、西洋では、そもそも孔子様のような儒者が現れたこともなければ、仁政、などという学問も概念も現れたこともないし、国王とはただの支配者であって、徳を一身に浴びる存在などと考えたことすらない。今もってそんな考えはない。


 西洋にあるのは『王権神授説』で、デウスによって無制限の、すべてを超越した権利を認められるというものだけ。そしてそれを授ける教権は、「神の代理人」「神罰の地上代行者」となるわけですから、コワイものなどあるはずがない。よって、こんな世界で生きる民草は、家畜と同然に見られるのもうなずけます。はっきり言うと、デウスによって王はすべての権利を授けられるのだ、と考えられる白色人種のノーテンキさには驚愕を禁じえませんが、残念ながらこれが西欧です。


 マキャベリは、西欧における現実を論じているだけであって、まずもって重要なのは支配者が強大であることで、それによる人民の多少の被害など、さほど歯牙にもかけないわけです。何故なら、国家が強大で王朝が長期に維持できれば、そこに暮らす民衆はその恩恵を被れるはずで、国家が萎靡沈滞しておっては、そもそも民衆がそこで生きられるはずがない、ということですね。何もこれは、マキャベリが悪辣なわけではなく、これが西欧の歴史なわけです。


 マキャベリは、何も変なことも言っていないし、冷酷なことも言っていません。西欧に普遍的、歴史的に横たわる現実についてもの言っているだけです。よって、実は東洋ならともかく、西洋人が『君主論』について文句を言うのは、天に唾吐く行為に等しい。


 例えば、プロイセン王フリードリヒ2世は『君主論』に反発して「『マキャヴェリ駁論』、あるいは『反マキャヴェリ論』を書き上げた」しかし、実際の行動は、まさしくマキャベリズムであった。


 さらに、教会なども『君主論』を悪書扱いした。しかし、隣人を愛せよ、といいながら、その隣人は魔女であるから火炙りにせよ、と放言した。


 つまり、歯に衣着せぬ、マキャベリの物言いは、実に端的で裏表なく物事の本質を指摘してるだけなのであって、それに反発するような人間は、裏表の激しい、人間として破綻をきたした存在なのだ、ということを明らかにするわけです。例えば、平和が一番! 憲法九条死守! と言っている連中の腹の中がどうなっているかは、さすがに多くの日本人に理解できてきたでしょう。


 裏表が激しく、結局人間としては大したことのない人間が、こういう『君主論』のような直截ちょくせつ的な、歯に衣着せぬ物言いをするものに古来、噛み付いてきたのであり、それはつまるところ、こういう書を読んで素直に面白いと思えるか、反発するか、でその人間をまるで試験紙のように判別するのである、という一面が確かに本書にはあるのだ、ということでしょう。


 といったところで、最後にマキャベリの指摘は現代においても決して他人事ではない部分もありますので、それを伺って見ましょう。p109




「第十四章 軍隊のために君主は何をなすべきか


 君主たるものは、したがって、戦争と軍制と軍事訓練のほかには何の目的も何の考えも抱いてはならない、また他のいかなることをも自分の業務としてはならない。なぜならば、それこそは命令を下す者がなすべき唯一の業務であり、それこそは力量の大きさによって、単に君主の身に生まれついた者たちにその座を保持させるばかりか、私人の身分に生まれ落ちた人間をしばしばあの地位にまで昇らせることさえあるのだから。そして逆に、君主たちが軍備よりも甘美な生活のほうを重んじたとき、彼らが政体を失ってきたことは、現に見られるとおりだ」




 大概の国家においてもそうであるように、創業の偉人はある意味当然、戦って新境地を切り開かねばならなかったので、尚武の精神に溢れていたが、その二代、三代と下るにつれて尚武の精神もいよいよ衰え、華美浮薄に流れ、衰亡に瀕していったのはマキャベリの申し通りです。


 日本も、かつての悲惨な戦争からまったく戦争経験のない、平和で享楽に満ち充ちた日々を送っておりますが、これがどのような事態を招くかは、ある程度は腹をくくっておいたほうがよいでしょうね。p119




「第十六章 気前の良さと吝嗇(けち)について


 そこで、先に列挙した資質の第一のものから始めるとして、言っておくが、惜しみなく与えるという評判が立つことはいかにも好ましいように思われる。だがしかし、気前の良さも、そういう評判が立つことを求めてあなたが使いだせば、あなたに害をもたらしてくる。


 なぜならば、目立たぬようにそれを使えば、そしてそれこそは正しい使い方なのだが、人々には気前が良いと認められないであろうから。そしてその逆の悪評を、あなたは免れられなくなるであろうから。それゆえ、惜しみなく与えるという評判を人々のあいだで保つためには、派手な資質をまったく拭い去らないことが必要になる。その結果、このような資質の君主は同じような事業のうちに自分の全財産を注ぎ込んでしまい、挙句の果てに、それでもなお気前が良いという名前を保ちたければ、民衆をことさら抑圧し、重税を課し、金銭を得るためならば、ありとあらゆる手立てを講ずるようになるであろう」




 お金の使い方として、耳を傾けるべきですね。p137




「第十九章 どのようにして軽蔑と憎悪を逃れるべきか


 ところで、先に挙げた諸資質のなかでも、とくに重要なものについては語り終えたから、その他の資質については、この章題の下にまとめて、簡略に述べておこう。すなわち、君主たるものは、先にも部分的に言及したごとく、憎悪や軽蔑を招くような事態は逃れるように心しなければならない。そしてこの点さえ逃れるならば、おのれの役割は果たせるであろうし、たとえ他の悪評のなかへ入り込んでも何の危険にも遭わないであろう。


 とりわけて憎悪を招くのは、先にも述べたように、強欲になって臣民の財産や婦女子を奪う行為である。これは必ず慎まねばならない。大多数の人々から名誉や財産を奪い取らないかぎり、人々は満足して生活する。そしてただ少数の者たちの野望だけ闘いさえすればよい。彼らの野望を制するには多くの方法があり、かつそれは容易である。軽蔑を招くのは、一貫しない態度、軽薄で、女々しく、意気地なしで、優柔不断な態度である。


 これを君主は、暗礁のごとくに、警戒しなければならない。そして自分の行動が偉大なものであり、勇気に溢れ、重厚で、断固たるものであると認められるように務めねばならない。


 また臣民のあいだの私的な事件に関しては、自分の裁定が撤回不能であることを知らしめ、そのような評判を堅持するなかで、何者にも自分を騙したり自分を欺くような考えを抱かせてはならない」




 なにゆえ、北が日本海に弾道ミサイルを打ち込むのか。


 なにゆえ、南がそれでも日本を侮るのか。


 マキャベリの言う通りです。p165




「君主が真の味方であり真の敵になるとき、すなわち、何の憚りもなく、一方に味方し他方に敵対する態度を明確に示すとき、その場合にも君主は尊敬される。このように旗幟を鮮明にする態度は、中立を守ることなどよりも、つねに、はるかに有用である。


 なぜならば、あなたの近隣の有力者二人が殴り合いになって、その一方が勝ったとき、勝利者に対してあなたが恐れを抱く必要があるか、ないか、が問題になるから。二つの場合のいずれであっても、あなたは旗幟を鮮明にして、戦う態度を明らかにしておいたほうが、つねに、はるかに有利である。


 なぜならば、第一の場合においては、もしもあなたが態度を明らかにしなければ、あなたは必ず勝った方の餌食になり、負けた方はこれを喜んで溜飲をさげるだけであるから。


 そしてあなたには身を守る理由も、身を寄せる場所もなく、あなたを受け容れてくれる人もいなくなるから。なぜならば、勝った方には逆境のなかで助けてくれなかった疑わしい味方など、要らないし、負けた方には、武器を執って自分と運命を共にしたがらなかった、あなたのことなど、受け容れられるはずもないから」



 これも実に重要な、剴切(がいせつ)な内容ですね。


 米国対中共という、新しい対立構造が世界の常識となるなかで、どちらかにつくかはさすがにこれで迷うものはほとんどいないでしょうが、もし、最悪の最悪、もっとも悲惨な戦争へと流れていった時に、共に苦難を戦ったもの同士は強固な結びつきを作れるでしょうから。


 そして、また、この状況下にあって、中共まんせー! などと言っている連中を座視しておってよいものか。


 決断のときはもうすぐそこまで迫っているのかも知れません。



 と、こうしてみますと『君主論』の中にある内容は、確かに古臭いものもあるものの、しかして政治の内容で言いますと、いつまでも色褪せぬ、普遍的な価値を少しも失わないものもあることに気がつくはず。


『君主論』の魅力とは、そういうところにあって今なお人をひきつけてやまないのだと、読めば分かるはずです。もしまた、なろうの場で小説を書きたい、為政者の思考を想像したい、と考えるのならば、本書は実に有益な情報を伝達してくれると気がつくでしょうね。



 といったところで、今宵はこれまで。



「ヴォルキリードライブ」のEDを聴きながら。


 こういう脳みそところてんになるような曲が時々聞きたくなるw



あ、あと、すいません。昔、わたしは「直截」の字をちょくさい、と読みましたが、正しくはちょくせつ、と読むそうです。………だったら「直接」でいいような?w

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