梁の武帝と達磨の教え
袋麺も色々食べましたが、やはり、Sugakiyaが一番美味しい。他の、有名店の名を冠した袋麺は、名前のわりには味は似ても似つかぬものがほとんどですが、このSugakiyaは子供の頃食べていた味と一緒。素晴らしい。
あと、袋麺ではなく、最近はスープだけで売っているのもありますが、それのトンコツ味とトリガラ塩味を合わせるとすごく美味しいですね。オヌヌメw
さて。
おこんばんはです。豊臣亨です。
今宵は丸写しシリーズ。
お題は、「梁の武帝と達磨の教え」 知っている人は知っている、知らない人は一生知らなくてもなんの問題もない、梁の武帝。 しかし、仏教とか学んでおりますと禅で「公案」とかで出てくるのですが、達磨大師と会見したお人で、なかなか味わい深いお人であります。とはいえ、禅の視点から観るとしくじり皇帝なのですが、こういう人が過去にはいたのだなぁ、ということを知っておくことも決して無駄ではないでしょう。無駄というのは、無駄であった、ということを知ると無駄ではないのであります。
梁の武帝、名は蕭衍。五胡十六国時代に生を得ました。五胡十六国時代とは、かの三國志時代を過ぎて、晋の後。晋は成立からすぐに荒廃し、塞外民族の圧迫をうけ、南朝と北朝に分かれて勃興と滅亡を繰り返す大動乱の時代を言います。武帝は南朝で梁を建国し、初めは仏教を胡散臭く思っておりましたが、次第次第に仏教に目覚め、傾倒し、やがては熱狂してゆく、そんなお人であります。
さて、今回は、安岡先生の名著、
『禅と陽明学 <上>』 プレジデント社 から伺ってみましょう。p117
「梁の武帝、蕭衍は最初は佛教に批判的でありましたが、佛教が広まってくるにつれて、だんだん佛教に傾倒していき、やがて佛教を信じ、佛教を愛好し、佛教に淫する(書に淫す、などと言いまして、度を越して熱中することを言います)ようになっていった。その頃から武帝の政治が変質してきている。特に佛教に偏向するようになってからの武帝は、熱心というか、あるいは狂信と言ってよい。
その狂信ぶりは異常でありまして、建康<南京>の都の中だけでお寺を五百以上造り、僧尼を十万人以上もつくっている。これはたいへんな力の入れ方です。そして六朝時代は封建制で、要所要所に藩を置いて、子供や重臣を封建しておる。武帝は子供が八人ばかりいましたが、それぞれ重要な所に封ぜられている。
それらがみな競うて都の、つまり朝廷の真似をするわけです。だから平安朝から特に徳川時代になって諸藩が争って菩提寺を造ったように、諸方にお寺ができて、ものすごく坊さんができた。寺を建て、坊さんをつくっていろいろ寄進する。お経を作ったり、お経の講義やお祭りやら、もろもろの佛事を盛んにやりましたが、それは皇帝の道楽の域を脱して、法衣をまとって自ら熱烈にお経を講じた。
そればかりでなく、朝廷に立つことも忘れて佛事供養に淫するようになった。武帝は皇帝大菩薩という名号を貰い、自ら佛・法・僧、三宝の奴と称した。それを日本で地で行かれたのは聖武天皇でありますが、とても聖武天皇とは比較になりません。聖武天皇はさすがにまだ天皇であった。ところがこの皇帝大菩薩はとんでもない大菩薩である。
例えば皇帝自ら捨身の行をやる。これは法華経などに端を発しているのでありますが、要するに徹底した供養、捨て身の供養です。専門の僧侶などの中には捨身の行においてずいぶん難行苦行をしている。焼臂(ひじを焼く)などというのがあるが、これは火をつけたロウソクを臂に立て、そのロウソクがだんだん燃えていって臂がじりじり焼ける。これはたいへんな荒行です。そうすることによって非常な精神統一をやって、そこから霊能を発揮するというのですが、そういうことが始終行われた。
今日でもやる人がありますよ。私の知人が尊信している法華経の尼さんがある。これは捨身の修行、今の焼臂の荒行をやった尼さんでありまして、物すごい霊能をもっている。
とにかくその当時、そういう荒行が盛んであった。梁の武帝が臂を焼いたことは聞かないが、何かそういう捨身の行を盛んにやる。その果てには天子の服を脱して、奴隷になって信者のために供養をする。炊事掛りとか掃除掛りとか、いろいろの労働に従事する。そういう捨身の行などを皇帝が始終やる。
ある時は朝廷の百官吏僚が贖罪、つまり贖い金を集めて――一億万銭と書いてある――奴隷になって労働に従事している皇帝を贖って宮中に連れて帰って、また天子の服を着せたなんて、そういうところまで徹底していた。当時の文献を読むと、「皇帝天下を忘れ、天下また皇帝を忘る」というところまで徹底していた。
そのくらい狂信的だったばかりでなく、彼は個人の私生活においても感心なもので、単なる道徳ではない。本当に修行に徹して、齢五十を過ぎるとピタリと女色を断った。そして肉食を一切排して徹底した菜食をやった。身辺からあらゆる贅沢なものを取り去って、一修行僧のような枯淡きわまる生活をしている。そして慈悲仁愛の権化のようになりまして、家来でも一族でも責めたり罰したりするということをしない。一切の罪を許し、一切を忍ぶという、いわゆる慈悲忍辱に徹している。死刑の報告を聞くと、武帝は常に潸然として泣いたということであります。これは実に徹底している。
もっとも梁の前に斉、斉の前に宋、その宋の文帝などというのは、これは少し性格異常者、精神分裂者である。
これがまた佛教の非常な信心家であるが、一面において彼は非常に残虐で、誅戮をほしいままにした。一族の王、すなわち藩主であろうが重臣であろうが人民であろうが、お構いなしに殺戮している。しかもいよいよ死刑という断を下す時には潸然として泣いた。だから側近の臣は「おや、皇帝が泣いている。今日は誰か殺されるな」とすぐわかったという。それくらいなら殺さなくてもいいのに、泣くだけは泣いて、殺すだけは殺した。そういうのが宋の文帝でありますが、武帝は違う。武帝は泣いて殺さない。殺すに忍びない。これは精神分裂者ではない。とにかくそれは偉いものです。
(中略)
武帝の子供の中で一番有名なのは昭明太子(501~531)。この人は非常に文学の愛好者であり、教養の高い人です。この昭明太子の下において『文選』が編纂された。こういう皇太子をはじめ王族、重臣、だいたいは青年貴族、年若き二十代、三十代の人々ですが、それらの人々によって哲学、文芸の華が咲いた。諸子百家の時よりもっと近代的な、もっと繊細な思想や文学、芸術が盛んになった。
そういうわけですから、どんなに文運を高め、天下を安定し、進歩と幸福をもたらしたかというと、実にその結末は悪い。梁は非常にあっけなく亡んだ(武帝が502年に建国。四代56年で557年に陳に亡ぼされた)。それを考えなければならない。
もちろん今申し上げたのは良い場面ばかりであります。例えば都に五百以上のお寺が出来、十万を超す坊さんや尼さんが特別に優遇されて、新興宗教のムードを盛り上げたというのは、外見でありまして、それと同時に、いち早く佛教の頽廃が始まっている。佛教の頽廃は同時に国家の混乱であります。
そういうふうにたくさんのお寺を造る土木事業に要する財政的な窮迫はたいへんなもので、国家としては財政的負担を重くした。しかもお寺や僧侶たちはすべて治外法権を与えられ、国家によって特別な保護が加えられている。豊かな寺領が寄進され、あらゆる供物、寄進が集まる。だから寺院、僧尼の生活が豪奢になったということは、たちまち堕落するということであります。浮世の名聞、栄華、人間のあらゆる物欲を捨てなければならぬはずの僧侶が、世の一般大衆の想像することもできぬような贅沢ができたのですから、これは非常な矛盾であり、たちまちのうちに堕落した。つまり坊さんや尼さんの生活が目に見えて頽廃堕落して、民衆の指弾を受けるようになった。
それのみならず、政府の苛斂誅求を避け、財政負担、租税負担を逃れようとする狡猾なる人間が、巧みに寺院と結託して税金をごまかす、あるいはいろいろの勤労奉仕、つまり労務を忌避する。お寺の使用人たちが寺院に隠れ、寺院を盾にとり僧侶と結託して政府をごまかす、法律の裏をかくという、はなはだしき国家秩序の紊乱を招いた。これは日本の南都(平城京)も北嶺(比叡山延暦寺)も、奈良も京都も同じことでありまして、僧尼の間にあらゆる嫉視排擠が始まる。これが社会の重大問題になった。
そういうことを皇帝は、一向ご承知ないが、さすがにあまりにはなはだしい矛盾頽廃は武帝の耳に入るようになり、黙視できなくなった武帝は、ある時白衣をまとって、自ら佛教の篤心者として仏教界の粛清を行おうとしたことがある。仏法は自ら王法、国法と違うのであるから、王者として国法に照らして処断するということはやるに忍びない。今日流にいうならば、新興宗教に対する国家の迫害、干渉だ。宗教は自由である。
慧遠(東晋の高僧)の言った言葉に「袈裟は朝宗の服に非ず。鉢盂も廟廊の器に非ず。沙門は塵外の人なり。敬を王者に致すべからず」というのがある。つまり宗教は自由だ、いや限度があるという、いつの時代でも大して変わらないが、そういう議論がなかなかある。
今でも残っている『弘明集』という当時の文献を集録したものがありますが、これは実に面白い。どちらかというと、武帝は「宗教は自由である、法律をもって干渉することはよくない」という考えを持っていた。今日でいうならば知識的文化人の代表みたいな人であったから、国王としてではなく、いわゆる皇帝大菩薩として法徒として自ら粛清を行おうとしたけれども、それも側近の信者から抑えられてとうとう成し得ず、腐るがままに腐ってしまった。
そういう身を以て佛教の狂信に入っていかない人は、佛教哲学および佛教文芸に耽溺してしまうか、あるいはそれに伴う老荘、あるいは儒教の哲学、詩歌、文芸といったようなものに青年知識階級が血道を上げた。皇帝天下を忘れ、天下また皇帝を忘るというくらいのことでありますから、一般知識階級、進歩的文化人というものは、本当に政治から遊離してしまった。それでもなおかつ一世代、三十年以上も平和を維持し得たということは、これは奇蹟です。これこそ佛教の功徳かも知れぬ。とにかく南朝の歴史を通じて珍しい平和と幸福の時代が続いたのであります。
このように梁では武帝の治下で小康を保ち、苟安の夢を貪っていた頃、河南一帯に蔚然たる勢力を培い、十万の兵を擁していったのが侯景(503~552)という人物。彼は北方の出身で親父の名前はわかるけれども、お祖父さんの名前も本人自身が知らなかったという、どこの馬の骨だかわからないような者だけれども、機略に富んだ男で、これが北魏の朝廷に仕えて河南一帯の重鎮になった。この頃の北魏は東魏と西魏に分かれていた。
侯景はその東魏の王になった高観の信用を得て、河南の重鎮となっていたのですが、高観が亡くなったあとを継いだ息子の高澄が侯景の人物を疑ってこれを排しようとし、河南の領地を召し上げました。そこで侯景はいち早くこれを察知して、ひそかに梁の朝廷に款(よしみ)を通じてこれと結託しようとした。
その時の梁の総理大臣が朱异であります。武帝の朝廷は侯景を受け入れるかどうかについてえらい議論になりました。侯景というのは何やらわからない奴だから、「あんな奴と友好同盟を結ばないほうがいい」という意見がずいぶんあったけれども、何分にも十万の兵を擁し、河南一帯に勢力を持っている侯景という者は、実は内々北支からの進攻を憂えていた梁の朝廷にしてみれば、それが魅力でありました。
その侯景が款を通じてきた。梁にとってこんなうまい話はありません。そこで梁は侯景を河南十三州の王に封じました。ところが東魏としては、みすみすこれを放置することはできない。直ちに討伐軍を繰り出して猛烈な攻撃を侯景に加えました。
そこで梁もこれに対抗して、武帝の甥の蕭淵明を司令官として侯景救援の軍隊を送りましたが、半世紀近くも偸安の夢を貪ってきた梁軍が、戦闘攻伐に明け暮れていた北方民族の東魏軍に敵うはずはない。梁軍はひとたまりもなく惨敗し、侯景は命からがら僅かの手兵を率いて梁に救いを求めた。
そうすると梁の朝廷は、それ見たことかと素っ気なく突っぱね、逆に東魏と妥協をしてしまった。それで侯景は梁の情ない仕打ちを怒りかつ恨んだ。その辺の梁の政策がいかにも場当たり的で不見識です。情報も正確でなく、まことにだらしのないものであった。
こうして敗北を喫した侯景のその時の手兵はたった千人といわれ、見る影もなく落ちぶれたのですけれども、彼は平生から梁の朝廷に厚く賄賂を贈って人心収攬をやっていた。その中に武帝の末弟の子、つまり甥に当たる臨賀王(蕭正徳)というのがいる。これがすっかり侯景に買収されていた。侯景はこれを盛んに煽動した。「あんな武帝など長持ちしない。坊主に凝ってしまって、あれは皇帝でも何でもない。あなたこそ皇帝になるべき人だ」と盛んに焚き付けられた。すっかりいい気持ちになった臨賀王は虎視眈々として謀叛の機会を狙っていた。
こうした場合の雛形は必ず決まっている。
だいたいひっくり返そうと考えるなら、必ず野心家で少し頭の足りない、しかし虚栄心の強い、そして柄にない一種の力を持っている奴を探すに限る。どうして馬鹿者を使うんだろうと思うが、馬鹿者だから使えるのであって、頭のいい奴は使い物にならないわけです。
臨賀王は完全にこれに浮かされた。そして情報の欠如のため、侯景の実力を知らないで、密約に従い信頼しきって、ひそかに侯景と一千の手兵を舟を出して揚子江から迎え入れた。そうして巧妙なる奇襲作戦で侯景の軍は江を渡ってたちまち十万くらいの軍隊に膨れ上がり、その大軍を進めて建康<南京>に奇襲をかけた。
都はもう上を下への大騒ぎになってしまった。建康には内城と外城があるが、いきなり外城へ取り付いた。その時に外城を守っていた司令官は庾信である。『庾子山全集』という全集が残っている。これは当時第一流の詩人であり文章家であった。これが総司令官としておったが、敵が攻めてくるのを見ると慄え上がってしまった。敵の射た矢が櫓の柱に当たっただけでびっくり仰天、一目散に逃げてしまった。
都の一番大事な門を守っていた総司令官が一番先に逃げてしまったのだから、侯景の大軍は雪崩を打って城門を突破して侵入してきた。人民は慌てふためいて大騒動になり内城へ逃げ込んだ。さすがにここには守備軍もおる。百官・政府も所在しておりますから割合にしっかりしている。人民も必死になって防戦これ努めて、外城は苦もなく取ったけれども内城にはなかなか入れない。そこで侯景は本性を現した。
これまではとにかく奇襲作戦に成功したら、一挙に自分が皇帝になるつもりですから、ここで民心を鎮撫して抵抗を少なくしなければならない。そのために彼はこれまで厳重な軍規軍律を軍隊に徹底させ、略奪・暴行・放火など一切禁止していた。ところが内城の突破容易ならないと見るや、構わないからやれということになった。そこで略奪・暴行・虐殺至らざるなし、非常な破壊惨劇を演じた。
そのうちに各地に封ぜられている藩王の軍隊が急報を聞いて陸続として集まってきた。ところが、ここに不思議な現象が起こる。援軍が一気に後方から攻撃を開始したら、侯景の軍隊なんてひとたまりもないはずである。ところが救援に駆けつけた藩王たちは城を包囲したまま攻撃を開始しない。
なぜかということが非常に議論になっております。
一番の理由は集まった援軍のそれぞれの大将は各地の藩王、武帝の王子たちである。これがみな仲が悪い。そこに盛んな流言蜚語が放たれて、出動している中に根拠地を衝かれるかも知れないというので、みな後方の領地ばかり気にしている。それと救援軍相互の間でもみな警戒し合っている。寝首をかかれはしないか、後を衝かれはしないかと鳴りをひそめて攻撃しない。そういう不思議な状態に陥ってしまった。
その時の援軍は百万といわれている。そのうちについに侯景の軍隊は宮廷の親衛軍を撃破して、百万の援軍の監視の下に首尾よく宮廷を乗っ取ったという不思議な光景を演出した。
その時のことは正史に名文で記録されているが、実に戦慄を覚えさせられるような光景が描写されております。
この当時、都の住人たちは約三、四十年にわたって戦争というものを知らない。贅沢に狎れ、佛事供養の派手な集会や行事、そうでなければ文学・芸術の催し、そういうことばかりですから、完全に頽廃的享楽生活を送っており、建康には食料の備蓄がなかった。ですからたちまちのうちに飢餓に襲われる。兵士も乱入してきて略奪暴行をほしいままにしたから、建康の都はたちまち修羅場になってしまった。「百里煙を絶ち、伏屍丘をなす」と正史に書いてあるが、文字通り屍山血河の惨事を演じた。
かくして武帝は侯景に捕まった。ところがただの皇帝と違って、佛教に凝って修行した、厳格な戒律の下に人間離れのした生活を送っていた皇帝でありますから、さすが蛮族上がりの侯景も、捕らえたけれども慄えてしまって、ろくろく対応もできない。そのうちにだんだん横着になって、皇帝を建康に幽閉しました。その時皇帝すでに八十六歳でありましたが、やせ衰えて、水を飲みたいといっても、水を持ってくる者もないというような餓死状態になって亡くなった。こうして侯景は武帝に代わって帝と称した。
彼は直ちに諸藩の要所を攻撃して、武帝に所属する主だった所は皆やられた。その中に一人、当時図書だけでも十余万巻を蔵していた藩王がありますが、彼は書物を全部焼いて死んだ。「なぜそんな貴重な物をお焼きになるか。せめてこういう国宝的な典籍を残されたら……」と言ったら、「読書万巻尚今日あり、ここを以て之を焼く」と答えている。万巻の書を読んでもこんなことになる。だからこんな本は要らぬと焼いてしまった。これは面白い。
その後まもなく、武帝の一族の派遣した将軍によって侯景は敗れた。それから陳という国になる。六朝最後の陳王朝になって、これがまた脆くも亡んでいる。最後の陳叔宝(陳の最後の皇帝。553~604)という人、これも哲学、文学に耽溺して亡んだ人であります」
武帝というのはこんなお人であります。
仏教を大真面目に信仰し、自身も非常な修行をたくさんやった、けれども晩年に侵攻を受け、最後は幽閉されてなくなってしまった。なかなか考えさせられます。
これは他人事ではありませんね。
米軍は、尖閣諸島にも基地を作っているのだそうですが、これは何も日本を守ろうという意味ではないでしょうね。中共が攻めこんで日本が赤化すれば自国の脅威になるから日本を守っているのであって、自国を守るという手段のために日本を使っているに過ぎない。日本がかつて、防共の防衛線として満州を重視したように、米国が防共の防衛線として日本を見ているのと同じことです。
満州に関東軍がいたように、日本に米軍がいるだけ。自分の国を自力で守れないヘタレな国などこうなるということですね。
では次に、インドから飄然としてやってきた達磨大師と武帝の謁見の様子でも伺ってみましょう。p137
「達磨というのは文献的に見ると、どうもはっきりした学的根拠がないんです。確実ともいえない、しかし否定もできないいろいろの伝説や文献によって考えるほかはないのでありますけれども、とにかく達磨が武帝の晩年にやって来た。どの経路をとったかはっきりしないが、とにかく広東に行って、そこからやって来た。そして流行仏教の状態を見てがっかりした。もちろん武帝には謁見したという。そして武帝はインドの高僧が来たというので非常な期待をもって達磨に会った。
『景徳傳燈録』という書物を見ると、達磨大師に会った武帝は先述のように、「実はこういうふうに寺を造り、僧尼をつくり、経典を訳出し、佛教のためにあらゆる努力をしている。どういう功徳があるだろうか」と問うた。
よほど「それは偉いことをしてくださる。まことに諸佛、諸菩薩感応ましまして、皇帝陛下にはこういうありがたいご利益があります、こういうありがたいご功徳があるでしょう」とありがたいお説教をしてくれるかと、非常な期待をして問いかけた。
すると達磨は冷然として「無功徳」<そんなものはない>と言った。
それでびっくりして武帝は訳がわからないものだから、「いったい佛教の第一義は奈辺にありや」<佛教の第一義如何>と問うた。すると達磨は「不識」<そんなものは知りませんよ>と答えた。それで武帝はますます訳がわからなくなり、「いったいお前さんは誰だ」<朕に対するは誰ぞ>と聞いたら「不識」また<知らない>と言った。
そういうことが『碧巌録』の冒頭に書いてある。無功徳とか何とかいうことは書いていない。これは『景徳傳燈録』に書いてある。「如何なるかこれ聖諦の第一義<佛教の第一義はどこにあるか>の質問から『碧巌録』には書いてある。そして達磨は「この皇帝は大菩薩ではない、大馬鹿で話にならない」と愛想を尽かして、江を渡り北魏に行って少林寺に入ったというんです。
その頃傅大師<傅翕>という人が、一休禅師のような人ですが、この話を聞いてのこのこ皇帝の所へやってきて、「菩提達磨にお会いになったそうで」「うん、会うたけれども、こういうわけでどこかへ行ってしまった」すると傅翕は皮肉に「それは惜しいことをしましたな。あれは観音菩薩が佛の本当の心を伝えるために派遣されたありがたい坊さんなのに逃したとは……」と言うので、それはたいへんだからと直ちに命令を出して探させたけれども、もう帰って来なかったという面白いことが書いてある」
「不識」と答えた達磨大師ですが、この「不識」や達磨大師の教えを伺いますと、p141
「武帝との問答と伝えられるものに、「佛教の第一義とは何か」という質問に対して、「不識」と答えた。
これは単なる"I don't know"というような簡単な答えではないことは言うまでもありません。「不識」というのは「識らず」と訳してもいい。あるいは「識ならず」と訳してもいい。「そういう識の問題ではない。体で把握するのだ」ということでありますが、武帝ほどの人でもそれがよくわからなかった。
その点は二入四行の文献に出ている「これすなわち理と冥符し、分別有る無し」という一句によく現れている。
真理と冥符、つまり冥々の間に、すなわち超意識的、あるいは無意識的に符節を合するようにぴったり一つになる。そこに分かちがない。自分と真理がぴったり一つになってゆく。そこに主観とか客観とか、自己と真理といったような分別がない。そういうふうに行くのが本当の宗教である。道である。したがってそれは実践である。観念の遊戯あるいは欲望の満足などというものではなくて、着実な実践である。
その実践の第一は「報寃行」というものである。寃という字は「恨みつらみ」という文字、兎に網をかぶせる、生命の躍動を抑えるという文字です。報という字は十如是にある如是因、如是果、如是報の報で、一つの作用に対する反作用あるいは循環である。したがって報寃とは、いろいろの恨みつらみの起こってくる本に返ってやり直すという意味である。我々は枝葉末節に走れば走るほど、いろいろの問題が起こる、恨みつらみが盛んになる。そういうつまらない枝葉末節に走らないで、根本に立ち返って、つまり出直して、くだらない生活の屑のような問題、こせこせした他愛もない人間の煩悩、そういうものを追わないで、そういうものに捉われないで、思い切ってそういうものを振り捨てて、人間としての根本問題に立ち返る、これが第一。これができなければ道に進むことはできない。これが報寃行である。
その次に「随縁行」縁に随って行ずる。人間はいくら理想をもって実践に励もうと思っても、手がかりがなければ観念の遊戯、煩悩になってしまう。手がかりと言うものがすなわち縁である。いかなる因も、因からそのまま果にはならない。因果というけれども、因から一足飛びに果にはならない。因には何かそこに手がかりがあって、そこから果が生まれてくる。これを縁という。すなわち縁から起こる、縁起である。因果は言い換えれば縁起である。だから十如是も如是因、如是果の間に、如是縁というものをおいてある。それが如是報というものになる。
因果は限りないけれども、すべてこれから縁は起こってくる。そこでどういう縁を持つかということが一番大事である。そこで縁という字を日本語に訳す時には「縁る」と読む。いろいろの問題が起こってくるのは、限りない要素であるところの因が、何かを手がかりにして、そこから起こってきて限りない果を生む。それがまたいろいろの反動を生んでくる。すなわち報となってくる。これは面白いですね。
(中略)
禅の修行、禅の問答などというものは、何か普通の人間が思いも及ばぬような飛び離れた奇矯なことのように考える傾向があるが、これは後世の禅が生んだ一つの余弊である。そんなものではなくて、達磨禅、禅の本来は非常に着実なものである。
まず第一に、つべこべ泣き言、繰り言を言わない。そういうことは綺麗さっぱりと捨てて、人間の大事な根本問題、本質の問題に立ち返る。そうして自分の縁から始め、手がかりをつかんで、そこからやってゆく。跳び越えたことはやらない。気分や観念に浮かされたことはいけない。すなわち随縁行である。
第三に、人間には欲というものがあり、欲に望むという字がついて欲望、すなわち欲というものからいろいろのものを望む、欲しがる、それが欲のためにだんだん貪る、貪欲になる。そこで求という字は、欲から生ずる「求む」という意味と同時に、「むさぼる」という意味を持つ。
我々は報寃、随縁と同時に、我々の抜き難い欲から起こるところのむさぼり、貪欲、それをなくして道に随い、真理に随って行ずるのでありますから、我々の個人的な欲望、感情から生ずるところのいろいろな貪欲、そういうものを捨てて、ひたすら根本に立ち返って報寃、道に随って真理に随って無心になって行じてゆく。これが「無所求行」である。
これをだんだん修練していけば次第に理と冥符し、道と合致する。すなわち真理、道そのものになる。これを法という。法のまにまにという意味でこれを「称法行」という。この四つに帰着させることができる。
その「理」から入るのと「行」から入るのと、どっちから入っても同じになる。
理から入っていっても体で普及して道と冥符する。真理と合体する。実践から、日常の行から入っていって称法行に入る。理と行とそこで一つになる。だから二入四行というけれども、それは差別観に即しているのであって、どっちから入っていっても結局は同じこと、一に帰する。これが達磨の本当の教えであります。
それは達磨は本当に行じたのであります。つべこべと理屈を並べたり、派手な行事、お祭り騒ぎをやってありがたがらせるというような、そういう当時の宗教的な行き方からいうと、静寂そのものである、沈黙である。この達磨の沈黙と静寂の道風が次第に民間に通じるとともに伝説の達磨、その中に玩具の達磨までできたわけです。達磨大師は足がないなどと言うが、足がないのではない。始終座禅をして、やたらにほっつき歩かなかったのであります」
そう伺いますと、達磨というのはいまだに普及するものでありますから、ここまで民間に広まった坊さんというのは達磨さんが最高でしょうか。これにはさすがの一休さんも及ばないかもです。なにせ、宮本武蔵も達磨画を書いているくらいですからね。
でも、梁の武帝も困ったことでしょうね。
若い頃に達磨大師に出会っておれば全然話は違ったでしょうに、晩年で正しい道はこれじゃ~、なんていわれても、普通の人間にはそうそうそれをやめる、直すということは難しいものがあります。
なので、若い頃にできるだけ正しい教えを伺い、正しい生き方を志すことが大切でしょうね。そうすれば、方向性はあっておれば微調整はそこまで至難ではない。全部間違ってますよ? と言われるよりははるかによい。
そういえば、わたしは最近、ゲームしながら(失礼なことですがw)ようつべで斎藤一人さんのありがたい教えを聞いておるのですが、ところどころ違う点はあるものの、大筋はその通りだと思いますね。わたしは正しい生き方をしておるのだと、太鼓判をいただいた気持ちでおりますw
その中で、便器というのは、なんでも霊界に通じておるのだそうで、なのでフタは閉じておくほうが良いのだそうです。
これが本当かどうか、わたしにはさっぱりわかりかねますが、やって損しないのならば、また、いやいややらなくてすむものならやるべきだと思いますので、お話を伺ってから基本、便器のフタは閉じておりますw
こうやって一歩一歩、着実に正しい道をあるけるのならば、今までの無駄も決して無駄ではありません。これからは無駄を省くぞ、という決意の一助になるのなら無駄もまた有意義なものなのであります。
といったところで梁の武帝と達磨大師の教えを学んだところで、本日はこんなところで。
したらばな~。
「ドロヘドロ」のOP・ED集をSpotifyで聴きながら。
ドロヘドロは面白かったなぁw ああいう、線の太いアニメや物語を見たいものであります。今期もアニメの数だけはやたらとありますが、次回が楽しみはアニメはほとんどないなぁ。
何とはいいませんが、300年人間やったら、普通とっくの昔に悟ってそうですけどね~。不老不死を何かいいものだと思っていそうですが、ずっと同じ状況を300年もやるって、それって地獄と同義なんですけどね~。