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信仰って?



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 信仰。


 今日、困難苦難の日々を生きる現代にこれほど求められていながら、これほど誤解されているもの、これほど理解されていないものもないと言ってよいでしょう。


 人間は、日々、自分をより良くしようと、自分を今よりもっと良いものにしようと、日々汗水たらして奮闘しているわけです。


 それは、お金のため、

 

 出世のため、


 名誉や賞賛のため、


 人は、今の状態よりもっと上を、もっと高みをと、さらなる改善、改良を目指して、今日も頑張っておるわけです。


 実は、信仰というものも、人が日々試みている、自己改善、生活改善と同様のものなのではあります。しかし、ならばなぜ、信仰は現代を生きる人々にこれほど縁遠いものに成り果ててしまったのでしょうか。


 今回は、こんな恐ろしくばかでかい問題にわたしらしく取り組んでみたいと思います。老荘思想家のおっさんは語りたい。




 人は、生きている限り上を目指します。


 今よりもっと良いものを、もっと上を、もっと高みを、さらなる極みを。


 テストを受け、点数が良いことを喜ぶ人はいても、悪くて喜ぶ人はそうそういないでしょう。


 生まれつき顔が眉目秀麗で喜ぶ人はいても、悪くて喜ぶ人はそうそういないでしょう。


 お金がたくさんあって喜ぶ人はいても、なくて喜ぶ人はそうそういないでしょう。


 地位や身分が高いことを喜ぶ人はいるでしょうが、低くて喜ぶ人は、相当人間ができたお人でしょう。


 周囲からちやほやされて、賞賛されて、褒め称えられて、それを嫌がるのは老荘思想家でもけっこう特殊な方だと思います。


 こうしてみますと、人は、そこに上があるのなら、もっと高みがあるのなら、極められるものなら、もっと今より良く出来るものがそこにあるのなら、必ず、最上を、最高を、最良を、最善を、目指すという生き物であると、断言できます。


 今より、より良く。


 これは、別の言い方をすると、進化ということになります。


 おぎゃーと生まれてからすぐ現状に満足する人間など、この世にただの一人として存在したことなどない、そう断言してもよさそうです。


 人間にとって、生きるということは、進化する、ということなのです。


 人は、生まれて、成長して、眼前に広がる世界、物事、事象、人物を、自分の知らないそれら一切を知ろうと、理解しようと、自分も身につけようと、自分のものにしようと、自分が憧れるものを目指して、進化してきたのであります。歴史上、常に、そうしてきたのであります。


 いうなれば、信仰も、このようなものなのです。


 人として成長し、人として進化する。


 自分が信じる、偉大なもの、偉大な存在に対してひざまずく、額づく、拝む、祈る。自分も自分が信じる偉大なものになりたいと、偉大なものたらんと、自分を進化させようとする。


 信仰とは、こういった精神の進化を指すわけです。


 しかし、相違があるのです。決定的な、絶対的な相違が。


 お金や、美貌、地位身分権力、名声名誉声望、これらを人が人を始めたときから死に物狂いで求めるようになりましたが、これらは言うなれば、物質的な世界、表層的な世界なのであります。


 それらをもう少し理解するために、世界の始まりをみてみましょう。


 ビッグバンが起こり、どうやら宇宙というものが起こったらしい。そこから、恒星が生まれ惑星が生まれ、そこから悠久の時が流れ流れて、原始の遺伝子が生まれさらに気の遠くなる時間が流れ、原始の生命が生まれ、そこからさらに果ての無い時間をかけて、数多の生命が生まれ、爆発的な進化を繰り返し膨大な成功と失敗の積層の上に、生命はようやく人類にまで至りました。


 永い永い進化の流れが、ついに人間という、知的生命体、万物の霊長を作り出すまでに至った。


 天地創造、という宇宙規模での進化が、やがて人間という進化に結実したわけです。


 では、進化はそれで終わりなのでしょうか。


 人間にまで進化が至った。ではそれで進化は極致に達したと言えるのでしょうか。


 古来、人類はそうは考えなかったのであります。


 生命としてはある極点には達しても、人の、さらにその先があるはず。さらなる進化が必ずあるはず。では、その先とは何か。


 物質的進化のひとつの頂点に至って、そのことに満足しえなかった人類は、さらなる進化があることを知ったのであります。それこそが精神の進化。万物の霊長、霊とは精神的なということ、まさしく精神的生物の長、ということです。物質の進化のひとつの頂点に至って、そこを起点として、精神の進化という新たな局面を切り開いたのであります。そして、精神の進化の頂点を夢見たのです。


 それこそが、神や仏、デウスという創造主、造物主の存在であります。


 人は、万物は、世界は、こうした創造主、造物主によって作られた。そう考え、その創造主造物主になること、自分もそうなること、自分も傍近くにあること、が人類にとっての最上の進化である、と人類は思い描いたのであります。


 つまり、人として生きるということ、その最終目標、最終目的こそ、神や仏になる、デウスの傍近くにゆくこと、それこそが人間の生きる意味、目的、誠の進化なのであります。


 人が生まれ、成長し、進化する、ということは、創造主造物主が世界を生み出したことと同じことなのです。同じ進化、造化の流れなのです。だから、物質的進化と精神的進化は、同様ではありえても同質では決してありえない、ということなのです。


 何故なら、物質と精神では、創造主が違うのです。


 お金も、美貌も、地位身分権力、名声名誉声望も、人が作りだしたものです。


 お金というものを作り出し、そこに価値を与え、認知し、それを欲するのは、すべて人が作り出したもの。言うなればお金の創造主は人です。今時は、美でさえも人の手で作れます。


 信仰は、そうではなく、お金も、美貌も、地位や身分、権力も、名声も名誉も声望もまったく関係のない、はっきり言ってそんな物質的、表層的な世界をはるかに超越した、精神の世界なのです。


 人も万物も世界も、人が作れるわけがありません。


 それこそ、偉大なる創造主、造物主が存在しなければありえなかった、起こりえなかった素晴らしき世界。そこに価値を見出すことが、精神の進化なのであります。


 人が創造したものには価値をおかず、人や万物、世界を創造した、はるかな存在、はるかな高みに想いをはせ、そのはるかな存在に己を進化させんとする。もっと上へ、もっと高みへ、さらなる極みへ。


 これこそ、信仰、というものの本質なのであります。


 多くの人がそれを目指せる、本質的素質、根幹的性質がありながら、目指すことが無いという理由がそこにあるのです。


 人が造りだしたものなら、人にも理解できます。当たり前です。理解できないものを人が作り出せるわけがありません。


 しかし、創造主、造物主など、そうそう簡単に理解できるものではありません。


 物質的世界を理解し、それに没入するのはものすごく簡単ですが、さらなる高みを目指すには、あまりにも世界が高遠にすぎた。神や仏になるデウスの傍近くにある、それこそが人間の本当の目的、本当の生きる意味であるとは簡単には言いえても、それを本当に理解し、己をそれに目指させるのは至難の業です。


 本当の信仰、人として生まれて本当に目指すべき目標。そうは言っても、そこにメリットはあるのか、それを目指すことがどれほど良いことだと言い切れるのか、


 その事を、歴史的にも、どんな宗教といえど最適の答えを表現した、とは言えないかも知れません。


 神や仏と成った、偉大なる方々、デウスの傍近くにある聖人、そういった人々はどうなったのか、今何をされているのか、物質世界に生きている我々にはよくわかりません。


 極楽とか天国とか天上界とか、そういう概念的思索はあっても、実際にどうなっているのか、という確固たる事実、歴史的出来事は、何もないのです。


 まったく不明なまま、それを目指せ、ということなのです。


 少なくとも2000年経っていながらも、今もって不明なる人類の最終目標。


 それを目指せ、と言われても素直に従う人間が歴史的にも少ないのは、ある意味当然といえるでしょう。


 ではとりあえず、神や仏になること、デウスに傍近くにあることの真実は実際は、実際に神や仏になってから考えた方がよさそうです。死後のことを今考えても益体のないことであります。孔子様もこうおっしゃっておいでですね。




「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんや」




 いま、生きるということすら不十分でよく理解も出来ていないのに、どうして死後がわかろうか。




 わたしは愚か者ですが、先生のおっしゃる通りにいたします。と言うしかありません。


 では、ともかく、神や仏になったらどうなるのか、進化の相当先の話、創造主造物主のことは、死んでから考えるといたしまして、いま生きること、生きてすること、に注視して信仰というものは何なのか、を見てみたいと思います。


 例えば、世界四大聖人と呼ばれる、イエス・キリスト、ソクラテス、お釈迦様、孔子様。


 これらの方々はまさしく、人類の明るい手本です。


 物質的進化のひとつの頂点である人間、さらに、その人間の精神的進化のひとつの頂点。


 四大聖人の方々を、こう表現しても的外れではないはずです。


 同じ人間であるのなら、その事績を真似することも理解することも不可能ではありません。同じ人間のなされたことなら、できるはず。精神的進化の頂点は極められずとも、ある程度はゆける。これも、正しい信仰のありようなのであります。


 儒教に関してはぼちぼち取り上げておりますね。


 儒教は宗教とはいえませんが、その精神的進化のありようとは、信仰と同様なのであります。

 

 儒家はこう考えた。天や地が、こうして万物を育み、万物がきちんとあるがまま化育していくのなら、人間のあるがままとは何か。


 それはつまり、明るく、清潔で、正直で、礼儀正しい人間こそがあるべき姿。


 天帝、天の意思、天意のおわすところ、人がやがて至るであろうところも、そうであるはず。


 儒家はそう考えるのであります。


 そうであるのなら、目指す先がそうであると思えるのなら、今の自分がまったく別物であってよいであろうか。自分をこそ始まり、大事の始まりとみる儒教は、まずもって己でもって立証しないと気がすみません。


 恕、思いやりをもち、仁、真心があって、義、間違ったことはしないこと、礼、礼儀正しいこそ、智、正しいことをきちんと知ること、信、誠実に生きること。


 偉大なる意思の存在を認知し、偉大なる意思に自分もそうならんとそうさせんと、己を律し、己を進化させる。


 儒教という道徳を、人の世に敷衍すること、鼓吹することは、東洋におけるひとつの信仰なわけですね。


 しかし、ここで疑問に思うのが江戸時代には確かにいた儒家、孔孟思想家が現代にはまったく存在しないのは何故か。それは、やはり儒教が信仰ではあっても、宗教ではない、という点にあります。


 つまり、信仰という人間の進化を目指す、人々に進化を促すという効果はあっても、宗教に必須のものが存在しないのです。


 それが、救済、です。


 初期仏教も、その本願は仏に成ること、であって積極的に民衆の救済を行うものではなかった。それが、時代の要請と人々の懇願と仏教側の慈悲と利が合致し、救済を行うようになった。


 苦難の日々を生きる人々の心のよりどころとなり、最後には葬式を執り行うことによって魂まで救済を行うこととなった。これが、統一宗教が人々とともにあった一番の理由であり、儒教が現代においては廃れた理由でもあります。もちろん、儒教が廃れた理由は他にもありますが。




『禅と陽明学<下>』 プレジデント社 p50で安岡先生はこうおっしゃっておいでです。




宗教の本質



「宗教というものは、要するに、ささやかな自我が大我に向かって参じてゆき、仰慕し、それに参入するものである。


 そこには礼賛、鑽仰(さんぎょう)がある。理想像を仰ぎ慕いそれに自己を没入してゆく。


 自己をこれにすべて投げ込んでゆく。これが宗教の本質である。


 そうすると、宗教からいえば、これを摂受し包容する、あるいは救済するということになる。こちらからはそこに没入し、飛び込んで行く。向こうはこれを包容する。


 こういうことで自己を解脱することができる。自己を投げ出すものである。自己を与えるものであり、自己を向こうに受け取ってもらうことであり、包容接受してもらうことである。これが宗教の本質である」



浄土門と聖道門



「そこで宗教の最も宗教的なものは他力信仰である。即ち浄土門である。


 これは阿弥陀仏にすべてを捧げて、難しい理屈も難しい行もいらない。そういうものをみな捨てて、専念に南無阿弥陀仏と祈願に自分の一切を投じる。阿弥陀さんはこれを摂取不捨(せっしゅふしゃ)(仏が一切の衆生を捨てずに拾い上げること)ですべてを救い上げてくださる。


「善人なおもて往生す。況や悪人をや(善人は自分で極楽にいける。しかし、この阿弥陀仏の大慈悲心からすれば悪人をこそ救い上げたいわけであり、悪人こそ救われるべきという思想)」という『歎異抄たんにしょう』の中の名言があるが、これが本当の宗教の面目であります。


 そこへゆくと聖道門の方は、道徳、哲学の理論と実践が喧しい。理想を大観して己に返ってここに近づいてゆく。参じてゆく。難行苦行をやらなければならない。そういう聖道門は末法の衆生には向かない」




 これが、日本において儒教が廃れて、仏教が生き残っている一番分かりやすい理由ですね。


 儒教=聖道門であります。


 聖道門は末法の衆生には向かない。まさしくその通りで、儒教の、己に苦難を一身に引き受けて、自覚覚多をやるような偉人は、江戸時代には確かにおわしたが現代にはもはや消えてなくなってしまった。頽廃堕落した現代人に、そんな偉大なことを先頭きってやるようなことは不可能であります。


 しかし、仏教には救済があります。


 南無阿弥陀仏、と唱えれば一切の衆生が救われる、わけですからこんなにありがたいことはありません。ですが、だからといってそれで万事うまくいく、というわけでもありません。p53




「阿弥陀仏を信じてこれにすべてを捧げる。難しい理屈も行も一切いらないというのは、何もしないということではなく、すべてを投げ出すということであって、これは簡単にできることではないんです。


 南無阿弥陀仏を唱える人の中には、「何もしないんだ、何も考えないんだ。一心不乱に阿弥陀さんの懐に飛び込んでゆくんだ」と言う人がいるが、それではいけない。


 また「阿弥陀さんがござるから我々は何もしなくていいんだ。何かしても都合が悪かったら南無阿弥陀仏と言えばいいんだ」と言うのは、これは「薬あり、毒を好めり」というのと等しい。


「薬というものがあるから毒になったって構いやせん」というのと同じことだということを、『歎異抄たんにしょう』の中にも説いている」




 己をすべて捧げる、ということは、つまり、己のすべてを理解し、把握するということです。


 凡夫感、罪業感に徹し己というものを深く知る。それはつまり、そこで己を救済しておるわけです。己で己を救うことができたからこそ、阿弥陀様もその人を救い上げることができるのであって、己を見捨てておるようなものを、己で己を地獄に叩きとしておるようなそんな阿呆をどうしたって救えるわけがない。


 摂取不捨(せっしゅふしゃ)とはそういうことを言っているのであります。


 誰でも彼でも救われる、そんなのはラノベ的ご都合主義でしか起こり得ないことであって、現実にはそんな都合の良いことなどあるわけがない。それを、親鸞聖人ですらつくづく覚ったわけです。


 これをもう少し大げさにみてみましょう。


 個々が進化し、その他大勢の中から魂を抜きん立たせる、そうして初めて、神や仏に目に留まるのです。


 漫画などで、こういうセリフがありますね。


「お前は、地べたを這い蹲るアリと会話を試みようとしたことがあるのか?」


 これは、物語上の超越的存在が人間をぞんざいに扱うときに言うセリフですが、しかし、これは一面真実だと思います。


 多くの、大した信仰もない、大した学問も無い、大した人生も生きてもいない、凡百の魂の中から輝くように、己を誇示するように抜きん出た魂が現れれば、神や仏も、喜んでその魂に注視することでありましょう。


 おお、我らの後を追う子らが現れたか、と。


 孔子様もこうおっしゃっておいでですね。




「後世おそるべし。(いずく)んぞ来者の今を()かざるを知らんや」




 後々の子らを、あなどっておってよいものか。どうして、今の我々より劣っていると決め付けられよう。もしかするとすごい偉人が現れるかも知れないではないか。




 慈悲のかたまり、慈悲の権化である神や仏は、まさしくこの思いで、人々を待ち望んでいるのです。人々の進化を、待ち望んでいるのです。


 人々を、世を、世界を救済しないからと言って、神や仏を非難するのはお門違いもいいところです。


 神や仏は、人が、進化してくることを待っているのです。


 酷な言い方をすれば、進化しない人など、救うに値しないのです。何故なら、魂など、後から後から沸いて出てくるのですから。別に、今の人類が滅んだとしたって、悠久の時の流れからすれば、人間以外の知的生命、精神や魂を神や仏のレベルに高められる生命が現れないとも限らないのです。


 大体、この地球が現れて、どれほどの生命体が進化繁栄しそして滅亡していったのでしょう。化石となって残りもしなかった生物だってきっと一杯あるはずです。生命は、そうやって進化と滅亡を繰り返してきたわけです。人類だって、人類がここまで繁栄するまでに、同様の猿人や旧人類が滅亡していった。さらに、様々な国が勃興し、民族が繁栄し、そして廃れていったわけです。


 いま生きている人類は、ある意味ただの幸運、まぐれで生き残っているだけかもしれません。


 そう考えますと、本当に救うに値するほどの価値が、魅力が、惜しいと思わせる何かが、今の人類にあるのでしょうか。天、神や仏が人を積極的に、自ら手を下して、世界を直接的に救済しないのも当然であります。


 俺を助けてくれ。


 俺を救ってくれ。


 本当にそう思うのであったのなら、まず、己を救わねばなりません。己を進化させ、己を神や仏の後を追う存在にしなければなりません。


 こちらから救って欲しい、と手を伸ばして、初めて、天からその手が見えるのです。


 そうしてようやく、神や仏も、その手をとってあげようという気になるのです。


 別の言い方をすれば、蜘蛛の糸は常に垂れているのです。頭上に。御仏の慈悲は、すでにそこにあるのです。


 人が、それに気づかないだけ。手を伸ばさないだけ。それだけです。


 これこそが、真の信仰なのであります。摂取不捨(せっしゅふしゃ)なのであります。


 そうすると、ここにおいて、こう、疑問がわいてくるのであります。


 ならば何故、人類はこうも信仰が衰えてしまったのであろうか、と。


 数千年も時をつむいで、様々な事実、歴史、技術、伝統や文化をつむいで、どうして、発展しているものと、衰退しているものとが現れたのかそこに差異が起こり得るのか。


 次はこれをみてみましょう。


 ある意味、ここからがわたしの言いたい本番かも知れません。



 小なりといえど、わたしなりに信仰の生活を生きておりますと、様々な疑問やら不思議やらがあるわけですが、その中でもとりわけばかでっかい疑問があります。


 それがキリスト教。


 ラノベでも扱うこともあって歴史などをちょいちょい調べたりするのですが、知れば知るほど疑問がわいてくるのであります。


 わたしがキリスト教に対して疑問を抱くのが、まあそれこそ山のようにあるわけですが、見てみますと聖書でも登場しますが、ノアの箱舟で、増えすぎた人類を神の言うことを聞かないからといっていったんすべてを白紙に戻す、と世界を水浸しにしてほとんどの人類を抹殺する、という描写。


 また、ヨハネの黙示録では、これは未来に起こり得ることなのだそうですが、天使の軍団が現れ、悪い人類をことごとく駆逐するという。


 高い塔をつくれば傲慢だと天罰を下し、堕落したと言ってはソドム・ゴモラを滅ぼす。デウスから知恵を授けられたソロモン王はやがてデウスの言いつけを破ってせっかくの繁栄を失う。デウスから最高の英知を授けられて進退を間違えるって………。それって(以下略。


 こういうのを観ますと、どうにもキリスト教の正気を疑わざるを得ないし、そんな宗教をありがたがって奉戴している人間にも疑問がわいてくる。もっと言いますと、これらキリスト教徒たちは、本当に、本気で、デウスを信じているのかものすごく疑問に思うし、そもそも、こういった正気を疑わざるを得ない聖書などのせいで、彼らは本当はキリスト教なんて何にも信じていないのではないか、デウスだの何だのをまったく信じていないのではないか、という疑問がわたしにはある。


 そりゃそうです。


 悪い人類は駆逐するという伝承が堂々と登場する神話をもつ宗教を、本当に信じられるものなのでしょうか。


 人を作っておきながら、これは失敗作だと思えばあっさり捨て去る。さらに言えば、悪い人間、良い人間、それを判断するのはデウスの視点でしょ?


 それ、どうやって人間の側からみて、わたしは絶対大丈夫という安心を得るような信仰生活を送ればいいんですかね。


 この、デウスの側から、という恐ろしく上から目線の判断基準のせいで、わたしは絶対大丈夫、という安心を得るために、西洋では修道士というまったく人間を止めている、人間を諦めているとしか言い様のないものが登場するに至った、と考えられるんですよね。とはいえ、それにしたって、デウスが本当に、よし、お前は合格、と言うかどうかなんてデウス次第なわけですけれども。こう考えますと、イエス・キリストただ一人に、人類の罪を押し付けたくなるのも、人情として理解したくはなります。


 わたしから見ますと、キリスト教の決定的な欠陥、欠点は、まさしく、神が人間を裁く、という聖書を作り出してしまったところにある。人間を裁くといえばアニメでも有名な閻魔大王がいますが、閻魔様はあくまで地獄の主であって、世界の創造主でも造物主でもありません。キリスト教にいける、唯一絶対、創造主であり造物主であるデウスが、人間を裁く。


 無慈悲なんです。


 絶望的なレベルで、天罰の意味を理解していない。


 真の天罰とは、やむにやまれぬ慈悲の発露なんです。


 これはわたしの人生経験に基づいているからよく分かります。わたしも子供の頃から悪事を重ねてきた阿呆ですので。


 天罰とは、


 人を救いたい、人を導きたい、という神や仏の慈悲の心なんです。


 いまこの人物が悪事をなしている。悪事を重ねている。


 もしかすると、この人物は悪事に対して免疫が出来るかもしれない。悪事に対して何の抵抗も感じないかもしれない。もっと進むと快感をすら覚えるかも知れない。


 そんな、悲しむべき、(かな)しむべき、惜しむべき人物を救いたい、正したい、教導したい。


 そんな慈悲の心が、天罰となるのです。


 そして、天罰を受けたものは判然として覚る。


 いま、自分は悪事をなして天罰を受けた、そうか、天がこれ以上はいかんとの思し召しなのだ、と。こうして天罰を理解した人物は、自分は神や仏に見守られている、自分はまだ、見捨てられてはいないのだ、と覚る。そうして本当の信仰を知る。信仰の道に生きる。


 これが、真の天罰です。


 愛おしい、自分たちの子らである人々を、導きたい、教えたい、救いたい、正したい、この慈悲の心が天罰となって「気づき」となるのです。気づけよ、と。それは間違っているから、今の自分に気づけよ、と。気づいたからには、自分たちのようになれよ、と。


 本当の天罰は、決して、


 あいつが間違ってるから殺す、こいつが言うこと聞かないから滅ぼす、そいつもまだまだ未熟だから捨てる、というものでは決してないんです。


 蜘蛛の糸すら垂らさない、そんな唯一神などあってはならないんです。


 そこには慈悲が必ずあるんです。


 宗教の本質は慈悲なんです。慈しみ、悲しまねば嘘なんです。


 羊を盗んだな、悪事を働いたお前は死ね!! じゃあないんですよ。情によって、真心によって、家族たるもの(なお)す、なんです。隠したいんです。かばいたいんです。罪をも分け合いたいんです。


 喪黒福造的因果応報論で善悪を裁くと、人の世は地獄と化すんですよ。


 何故なら、人は常に間違うから。


 間違えて間違えて、寄り道して回り道して遠回りして、初めて正しい道を見つけてゆくものなのです。


 それを、一切導きもせず、教えもせず、分からせてあげもせず、悪即斬、サーチアンドデストロイ、やられたら生きてゆける人間なんているわけないんです。デウスから直々に知恵を授かったソロモン王ですら己の人生を間違ったわけですから。


 唯一無二の絶対の神、とするのはともかく、それを裁く神にしてしまったことが決定的な痛恨事であります。


 人間だって子供を育てるときには両親があるわけです。


 厳父慈母。


 父が子供を厳しく躾け、社会や世間の仕組みを教え、立派な人格者として育てる。


 母は、そんな父の指導に打ちのめされた子の避難場所なんです。安心できる救いの場なんです。子は、母に頭をなでてもらって暖めてもらって慰めてもらって、そうして落ち込んだ心を、痛めつけられた心を癒されてまた立ち上がるわけです。厳格なる父に再度立ち向かってゆく気力を回復させるのです。


 聖書を作った人々は、唯一の絶対の神を想定したのなら、そこに慈母の設定も作っておくべきでした。厳父しか設定せず常に悪即斬しか設定しなかったのが、キリスト教、聖書の根幹的な失策と思います。


 こう断言できます。キリスト教は、実は発生した瞬間から、西洋人の進化をせき止める、進化を阻害する存在でしかなかった。


 東洋で考える信仰とは、創造主の造化、化育、進化とは、世界をつくり、万物をつくり、人間をつくり、そして、その果てに、人間がその創造主となることを目指すことを企図しているのですが、キリスト教ではデウスは唯一にして絶対、人間は決してデウスになることなどありえません。最良の人間は、デウスの傍近くにあることが出来る、程度。


 東洋ではついに、即身成仏、と言えるまでに人類は進化しえた、しかし、西洋ではついぞ、そんな思想は現れなかった。そんなことを中途半端に言い出したら間違いなくキリスト教から処刑されたことでしょう。


 東洋は本当の慈悲があったわけです。創造主、造物主は、本当に、人類の成長を喜び、自分と同じになるようになれることを祈っていた。


 しかし、西洋では違う。


 無慈悲なデウスを戴いた宗教だった。


 しかし、そんな西洋にもついに変化が起こります。科学や哲学の発達と共に、世界の様々な物事、様々な事象、それらかつて確かめようも無かった物事が徐々に明らかとなっていった。いままでの迷信だの妄信だのを一挙に脱し、キリスト教だの何だのを一気に疑いだし、それが左翼思考だのに結晶したのではないか、とわたしは思うのです。今までは何もかもが分からなかったし、出来なかったし、だから、キリスト教の弾圧を恐れて何もしなかったし、出来なかった。


 しかし、世界は、人類にとって未知のものでも、不明のものでもなくなった。


 西洋は近代に至って様々な革命を起こしました。科学技術の勃興たる産業革命、理不尽な王権に対するフランス革命、しかし、実は西洋においてはもっとも巨大でいままで鬱屈していた分、恐ろしいまでの爆発となった革命があった。


 それこそまさしく、


 信仰に対する革命。


 世界史的にみても、キリスト教のなした事が色々ありますが、実はキリスト教に対して最も嫌悪し拒否反応を示していたのは他でもない、西洋人だった。そういえるのであります。その流れをざっとみてみましょう。


「ルネサンス」というものを始めて知った時は、それは何か新しい文化・思想の勃興であると思いました。しかし、真逆でした。ルネサンスの意味とは復興・回帰であって新しいものを生み出すのではなく、古き良き時代に帰ろう、という思想であったのです。これは実に面白い事態であります。何故なら、いかに西洋が近代に至って現状をどう捉えていたかをこれ以上分かりやすく説明するものはないからです。


 そのルネサンスの運動は芸術や音楽など様々に飛び火するのですがそこから生み出されたのが「人文思想」であります。人文思想とは人間の本質を尋ねる考え方で、人間を人間たらしめる本質を見極め、それを束縛するものとは何ぞや、という研究に特徴を見出すことができ、そして西洋における人類を束縛する最大勢力であるキリスト教、そしてその原典である聖書の研究が起こります。


 続いて起こるのが、その当時のいわゆる免罪符、キリスト教の頽廃堕落に強い不満を持っていた宗教改革派によるプロテスタントの発生であります。宗教改革を強力に推進したルターも当初は新教を立ち上げることなど考えもしなかったようですが、しかしカソリック側の頑迷固陋な思考、強圧的な迫害によってついに両者は決定的に対立します。しかし、カソリックとプロテスタントの抗争が激化するにつれて、人文主義派と宗教改革派は袂を分かつことになるのですが、わたしはその理由をこう推測いたします。つまり、人文主義派はとうにキリスト教に対して一定の距離をとっていた。しかし宗教改革派はますますキリスト教にのめり込むこととなった。両者の足並みが乱れるのは当然であろうとわたしは思います。つまり、すでに西洋のある種の人々はキリスト教に対してすでに見切りをつけていた、うんざりしていた、キリスト教から離れたがっていた、と思うからです。そしてこの人文思想・宗教改革は「啓蒙思想」につながります。


 迷信や宗教的抑圧・弾圧やカソリックとプロテスタントの愚かで不毛な争いに対して失望、絶望した西洋人は、科学的事実に基づいて社会を理性によって治める、ことを目指し(もう)(ひら)く、無知蒙昧なる状態から脱し、目を(ひら)いて真実を知る、真実を理解するという啓蒙思想に至ります。啓蒙思想とは、まさしくキリスト教からの脱却を謳うものであった、と言ってよいと思います。


 また、啓蒙思想が始まる以前からすでに起こっていた考え方が、無神論であり、理神論であります。無神論は言うまでもないですが、理神論とはデウスという創造主、造物主はあるのであろうが、それはあくまで宇宙や恒星、惑星を作り出した純粋なるエネルギーであってそこに超越的、超常的意思の存在、天の意思、天意も何もあるはずがない。という考え方です。


 こういった考え方はさらに「社会契約論」になり革命思考につながり、王権も打倒され、人間の普遍的、恒久的価値が開放された。あるがままでよいのだ、あるがままがよいのだ、と考えた。今のいままで抑圧されてきたものが、パンドラの箱ではないですが、ありとあらゆるものが一斉に開放されることとなった。となりますと現れるのが「唯物論」であります。


 唯物論は、簡単に言えば、体があるから心がある。という考え方。その逆が「観念論」心があるから体があるというもの。


 この唯物論、ざっくりと言ってしまえば、精神だの心だの、物質的に科学的に証明できない、明らかではないものに対して何らの意味も意義も認めない、というもの。よって物質的世界を全面的に肯定し、当然、欲望だの利得だのも全面的に肯定する。


 現代社会を蔓延する資本主義はまさしくこの唯物論社会であると断言して間違いではありません。


 しかし、これらの流れを、哀れで愚かで度し難い西洋の歴史の流れをみてみるとこういった恐ろしい反動が発生するのも、むべなるかな、と思うのであります。


 これら、ルネサンスからの一連の流れをこう見ることもできます。


 古代に回帰することによって、キリスト教発生以前の原点に立ち返ることによって初めて、西洋を覆っていたこれまでの迷妄・迷惑を洗い出し、突き止め、キリストの弾圧・迫害を何とかかんとか逃れつつ悪影響からの脱出を図るという、ものすごい気の長い、だからこそその悪影響の恐ろしく、根深さ、度し難さを見ることが出来る、と思うのであります。この、ルネサンスからキリスト教によって弾圧された事態の推移をみておると、まさしくキリスト教の支配からの脱出の過程をみるようであります。どんどんキリスト教の弾圧がなくなってゆくのです。とある歌のセリフを借りますと、「この支配からの卒業」といえるでしょう。


 そう考えますと、西洋人がキリスト教から解放され、自由を獲得し、物質世界に泥み、快楽主義を謳歌するのも、まあほどほどにな。と生暖かい目でみることもできますが、しかし、生暖かい目で見ることができない事態があります。


 東洋です。


 西洋は、こういった不幸に次ぐ不幸の歴史の連続のせいで反動が発生するのはやむを得ません。しかし、少なくとも東洋、とりわけ日本にはそこまでひどい歴史などたどってはいない。


 絶望的に強圧的で差別的で利己的な王権も、抑圧的で暴力的で迷妄な教権も、度し難い宗教的対立そこに発生する内乱も全然経験してない。


 にも関わらず、明治維新から発生する尊欧卑亜、東洋は劣った、まともな思想も哲学も何ももたない劣等民族であるという気でも狂ったかのような自己卑下、自己否定。


 白人に媚びへつらったこれら東洋人の気持ち悪いすりよりは一体何なのでしょう。


 いわゆる、




「自家の宝蔵を閑却し門前の貧児にならわん」




 とする精神的倒錯。


 東洋における輝かしい歴史、思想、宗教、哲学をことごとく放り投げ、西洋のこういった愚かで哀れで度し難い歴史を、何の仔細な検討もなく鵜呑みにし、礼賛する姿勢。


 始まりに帰ります。


 今の時代、物質世界に泥み、それのみに囚われているのは、こういった西洋近代思考の影響であって、ある意味それも2000年に及ぶ西洋の倒錯の反動であるのであるから仕方ないとするにしても、何ゆえ東洋がそれに倣う必要があるのか。


 精神的進化を放却し、世界四大聖人を見習って自分もそれに類する精神の高みを目指すこともなく、ただ眼前の、眼下の物質世界に拘泥し、快楽主義に堕落する。


 これが、あの東洋なのでしょうか。


 素晴らしい儒教や仏教の心の新天地を開拓し、西洋ではついぞ至れなかった即身成仏の真理を獲得するに至った東洋人の姿なのでしょうか。本当にその子孫なのでしょうか。


 また、こういう事実も知っておくのも良いでしょうね。


 世界四大聖人。イエス・キリスト、ソクラテス、お釈迦様や孔子様。


 西洋の聖人は二人とも処刑されている、という事実を知っておくべきでしょう。東洋の聖人は二人とも、少なくとも天寿を全うされているのに。


 西洋の不幸な歴史はこのときから続く、ある意味宿命的な運命的な遺伝子的な、土地に、文化に、伝統に染み込んだもの、いつ癒えるのかいつ消えるのかさっぱりわからぬ末恐ろしいもの、と見ることもできるのです。


 そんな西洋を、どうして東洋人はここまでありがたがることができるのでしょう。


 本来持っていた、崇高なる精神的進化をかなぐり捨てて。


 自身の血に流れる、誇りや尊厳をどぶに捨てて。


 信仰について、少しは語りえたと思いますのでこれにて終了といたします。



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