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『先哲が説く 指導者の条件』 で読む 熊沢蕃山 二、



 暖かくなってきたことだし蠢動ともいいますしと、いつも通っている熱帯魚屋さんではなく、超珍しく東急東横線に乗りまして、熱帯魚屋さんが軒を連ねる、というほどではありませんがまとまった地点に三軒ほどある所までちょいと遠出をしまして、この前の買い物で買えなかったものやら色々買いました。


 外出時間はなんと脅威の5時間弱! んむ。脱引きニート、みたいになってますねぇw 別にホームワークしているわけでもないのですけどね。なにせ今の住まいから仕事場までドアトゥドアで30分足らず! 仕事も日がな一日座りっぱ、なので一日の運動量など微々たるもの。住まいから駅まで約10分ほど歩いただけでぜーはー言う始末。肉体労働しておった時は一日中歩きっぱとかじゃったんじゃがのぅ。老いたもんじゃ……


 とまれ(ともあれ)、知らないところに出向くのもそれなりに楽しいもの。行ったことのないお店に並んでいるお魚さんや観葉植物、コケなどを眺めるだけでもワクワクします。


 迷惑かかるかもなので名前は伏せますが、とあるお店の店主さんはまさしくプロって感じのお方でいろいろ勉強させていただきました。知識量は当然のこと、ディスプレイもこった感じで非常におしゃれでしたね。ボトルアクア、とかに興味がある人は訪れるといいかも。ただ、中共肺炎の最中ということで店内に入れるのは一組のみということでした。まあ、解除されたし今はどうなんでしょうね?


 熱帯魚も、本気で飼い始めると勉強すべきことが結構あるので、都会などの忙しそうにしている店よりも、こういうお店でとっくりと話を聞いてもらったほうがためになると思いますよ。


 で、3キロのサンゴ砂をバッグに抱えてうろちょろしたおかげで、帰ってきた頃にはやはりヘロヘロにはなりましたがそれでも前よりはマシな感じ。やはり、完全に引きこもるのは良くないですね。いまさらですけれども。


 さて。おこんばんはです。豊臣亨です。


 したらば、続きをば。p194




善事と義理




「【今の学者、孟子に継ぎて道を任ずというものあれども、ただそのみずからたかぶる所の者は、文義を講談し、格法をいうのみなり。或いは師とし学びたる者をそしりては、己を是とし、或いは他の学者の非を揚ぐるを以てみずから賢なりとす。心に利欲たくましく、当世の名を求めて毀誉に動くことは、市井の凡俗に違うことなし。


 況んやその他は唯朱王の贔屓をするばかり。仏氏の日蓮一向に似たり。たとえば能をするがごとし。公家或いは武将の装束して、是は房崎の大臣義経などと名乗るも、その実は猿楽なるがごとし。凡心を免れずして朱陸王学などというとも、その実は凡夫なり。たとえ格法の学者、心志殊勝なる者ありて、行わんとする事善なりども、人情に(くわ)しからでは、遂げられまじく候】




 今時の学者の中には、孟子の学問を継承し、その道を会得していると自任する者がありますが、その尊大に振る舞うのは、ただ『孟子』の中に書いてある文字・文章の意味を講じたり、単なる文法や訓詁学(くんこがく)的なことを語るばかりであります。


 あるいは自分の師匠をけなしては、己の考えを正しいとしたり、あるいは他の学者の過去を指摘することによって、みずから賢明なりと誇示する。欲が深く、世間の名声を求めるに汲々として、毀誉褒貶に左右されやすいという点においては、街の俗人と同じことです。


 ましてそのほかの学者は、朱子や王陽明の贔屓をするばかりで、仏教の信者が日蓮宗がよいとか、一向宗がよいとかいうのと似ています。あたかも能を演ずるようなもので、公家や武将の装束をして、我こそは房崎の大臣(おとど)だ、義経だと名乗っても、その実は猿楽(さるがく)、戯れの演技にすぎないのと同じことです。


 俗っぽい心を脱却しないで、いくら朱子や陸象山、王陽明の学問だなどと口先だけで唱えても、その実態は凡夫、つまらん男にすぎないのです。


 たとえ文章や文法・訓詁の学者であって、しかも学問に対する志が特に勝れている者が居り、その行おうとすることが善くても、人間や世間の実情をよく呑み込んでいなければ、理想を実現することはできません。




 いまの学者は『孟子』を読んで、文字の意義、文章の意義をお喋りして、その文章の中の格、文章のどこがいいとか、どこがどうできているといった単なる文法や訓詁学的なことを言うばかりである。


「或いは師とし学びたる者をそしりては、己を是とし、或いは他の学者の非を揚ぐるを以てみずから賢なりとす。心に利欲たくましく、当世の名を求めて毀誉に動く」ことは、いまで言うなら、ジャーナリズムにもてはやされることを狙って動くということ、これは市井の凡俗に違うことはない。「況んやその他は唯朱王の贔屓をするばかり」、朱子が偉いとか王陽明が凄いとか言っている者ばかりである。仏者の日蓮宗がいいとか一向宗がよいとかいうのと似ている。


「凡心を免れずして朱陸王学などというとも、その実は凡夫なり。たとえ格法の学者、心志殊勝なる者ありて、行わんとする事善なりども、人情に(くわ)しからでは、遂げられまじく候」、たとえそういう学問の格、学問の法をよく志し健気だというものであっても、世間や人間の実情をよくのみこんでおらんと、形式的・抽象的で志が遂げられないのであります。




【また今の人情にしたがうというものはしからず。義のまさになすべき道理をも、人情あししとて行わざるものあり。これは人の利欲をそだてて義をそこなう者にて候。善事と義理とまた分別あり。事は善なりとも、人情に(もと)りなば遠慮あるべし。義の大なる事には、人情をはばかるべきにあらず候】




 ところが、当世の人情にしたがうというものは、そうではありません。


 たとえ義であっても、世俗にもてはやされないから、といって行わない者があります。それは人々の利欲を野放図に増長し、善をそこなうものであります。ただ善いということと、いかにすれば正しい義であり理であるかということ、つまり本質と実践とはおのずから区別があります。


 本質的には善いことではあっても、人情という現実の問題に違反するときは、性急に考えないで、長期的な見地から手加減しなければなりません。しかしながら、義の大なること、つまり国や民族の運命を左右するような大問題に対しては、人情にとらわれないで、断乎として決行しなければなりません。




 これは良いことだが、どうもいまの為政者には受けそうにもないから、と行わない。


 これは人の利欲を育てて義を損なうものである。「善事と義理とまた分別あり」、善ということと、どうすることが義か理かということ、つまり本質と実践とは、また自ずから区別がある。事は善であっても、この問題、このことが本質的にいいことであっても、人情という現実の問題に戻ると、遠慮、つまり性急に考えないで、長い目で見て手加減しなければいけない。このあたりが蕃山先生の本領が見えるところであります。


 しかし「義の大なる事」になれば、われわれの至上命令の大きな問題になってくると、「人情の憚るべきにあらず候」、断々乎として、たとえ一時の表面的なそれこそ前頭葉的な議論やあるいは抹消的な感情、そういうものと矛盾しても断々乎としてやらなければならん。


 要するに、この道と法、実在と現象、これをはっきり把握するとともに分別しなければならない。この議論はまことに今日でも身に沁みる。限りなく示唆されることであります。


 国連でも中国加盟問題(昭和四十一年)が大変苦しいことになっておる。


 日本がいつでも国連で軽蔑されるのは、絶えず右顧左眄うこさべんというか、中国を国連に迎えようという賛成派と反対派の票読みをするような態度だからである。つまり、義の大小がはっきりしない。義の大なることであれば、人情・世情を離れて断々乎としてやらなければならんという見識がない。


 単なる知識に、少し道徳的な、内外に通じる深い教養が加わって、こうなければならぬと判断を下すのが見識である。この見識に実効性、いかなる矛盾・衝突をも排して、断固としてやる勇気が加わると、これを「胆識」と言うのであります。


 これは政治ばかりでない。われわれの日常の行事でもそうだ。こうしなければならんとわかっておっても、これは知識にすぎない。判断を下すのが見識だが、しかしそこまでで、いろいろの矛盾や抵抗に遭うて、決意がつかんというのは見識が宙に浮いているわけである。


 実効性がない。それに対して、いかなる矛盾・抵抗があっても、義の大なるものという見識の前にこの決断をする、断行するという勇気をもった見識、これを胆識という。ことに矛盾の多い政治家などにはこの胆識が必要であります。


 その点において、今度の国連の総会で日本がアメリカと提携して、断固として中国の国連加入に反対をしたことは、世界の識者、反対者も含めて佐藤内閣は偉いぞという呼び声があった。ところが、今度の改造で三木武夫さんを外務大臣にした。これでまたいまや識者は戸惑うておる。三木外相は中国を国連に加入させるべきであるという意見です。総理大臣は加入させるべからず、外務大臣はすべきだとなれば、内閣の統一性というものがない。


 やはり見識・胆識が足りないと言われても仕方がない。


 というよりも、あんまり枝葉末節に忙しすぎて、主義とか信念とかいう心が亡んでしまう、忙殺されているからである。何とか現代の日本人はもう少し心の余裕を与えるだけのひまを作らないと大事なことほど抜けてしまう。とりわけ、総理初め要路におる者に少し閑をやって、ものを考えさせ、せめて蕃山先生のような優れた人の書物なども読ませたいものであります」




金と銀




「そこで今度は、そういう根本問題の反対の、極めて現象的な金銀の議論に入りたい。




【朋友問うていわく、黄金白銀は乾坤けんこんの至精なりと申し侍れば、多くほり出して異国へ渡し侍る事は、いかがと申す人あり。また有を以て無にかゆるは常の理なり。人道は文章ある事なれば、からのおり物を来たして、衣服の美をなすことも礼なりと申す人あり。いずれか是にて侍らん】




 ある友人の質問。金や銀は天地の精粋せいすい、天地の一番本質的なものであると申します。それほど大事なものをどしどし発掘して外国へ輸出するのはどうしたものか、と申す人があります。


 また物が豊かなところから物のないところに移し変えるのは、当然のことわりであります。人の道はさまざまな文(模様)や(かざり)(装飾)に表現されているものでありますから、シナの織物を輸入して、われわれの衣服を美しくすることも礼であると申す人もあります。どちらが良いのでしょうか。




「黄金白銀は乾坤けんこんの至精なり」、天地の一番本質的なものである。多くを掘り出して異国へ渡すのはどうかと思う。「また有を以て無にかゆるは常の理なる。人道は文章ある事」、人の道は現れていろいろのあやかざりとなるが、「からのおり物を来たして、衣服の美をなすことも礼なりと申す人あり」、いずれが是でありましょう。蕃山先生が答えて言う。




【日本の四海にすぐれたるという事は、国土霊にして人心通明なるゆえなり。近世は国土の霊もうすく人もおとりゆく事は、山択の至精をたくわえ、かくさずして、金銀銅鉄多くほり出し、異国へまで渡し、山あれ、川浅く成りたるゆえにてもあらんか。また有無をかうるといえる事は、かえずして叶わざる物なり。薬種などのたぐいなるべし。糸類の物は、唐物を来たさずとも、政道のありようにて日本の中にて事たるべし。昔から物すくなく日本のきぬのみ用いたる時は、かえりて人道も風流に侍りき。近代唐物多くきてけっこうなれども、人道いやしくなり侍り。人も才知あらわれ過ぎたるよりは内にたくわえて徳を養い、時に用うるこそよく侍れば、金銀も世の中に多すぎたるよりは、国土の精と成りて、山中にふくみたるやよく侍らん】




 回答。我が国が世界に優れているということは、国土が霊気に富んでいて、住む人々の心が通明――道理に通じて国民性が明るいからであります。近世になって国土の霊気が希薄になり、人々が劣悪になりつつあるのは、山や沢に大切な精粋を蓄えないで、金銀銅鉄をどんどん発掘して外国へ渡し、山が荒れ、川が浅くなったせいでしょうか。


 また有無相通じ、外国と交易するということは、生命本来の作用であって、交易をしないわけにはいかないことです。


 したがって薬の材料などはどんどん輸入するがよろしい。しかし織物などは唐の国から輸入しなくても、政治のやり方次第では国産でも十分です。むかし物が乏しくて、国産の絹だけ着ていた時代は、かえって人々は雅やかさで趣きがありました。


 近代は唐の製品が輸入されて結構なことですが、かえって人々の風俗が卑しくなりました。人間も才智がふんだんに表面に露出している状態よりも、むしろ内面に含蓄して人徳を培養し、時たま才智をはたらかせるほうがよろしい。そのように金や銀も、あまり世上に出しすぎるよりも、国土の精粋エキスとなり潜在エネルギーとして山中に蓄えたほうがよいかと思います。




「日本の四海にすぐれたるという事は、国土霊にして人心通明なるゆえなり」、これはいろいろな面から昨今もだいぶ自覚され説明されておりますが、例えば、物理学者の中には、放射能のいろいろな研究から、日本の土地は非常に若くて、放射能が非常に強いという。


 これはいわゆる霊である。


 奈良県の大神おおみわ神社へ参ると、何となく霊気を感ずるのもそのためである。あそこの水を使うと茶も旨い、酒も旨い。というのはこの「乾坤の至精」、天地の至精である。あの山には稀元素があるに相違ないというので、ご神体になっている山に大いに食指を動かしている者もずいぶんあるのであります。


 また、ある種の科学者は太陽の色をスペクトルで分けると、赤・だいだい・黄・緑・青・藍・紫と七色に分かれるが、中国では帝王の色を黄色としており、日本でも黄櫨袍こうろほう黄櫨染こうろぜんのように、天皇陛下の衣服に黄色を使う。ところが、植物学者たちの共同研究の報告によると、種子とか芽に黄色光線を当てると、一番成長が見事であるという。


「易」に黄中というけれども、黄色は中色であり、延びる、進歩発展するという意味で、黄色が七色の中では一番豊かな創造力をもっておる。そうすると今度は民俗学者が、「そこで黄色人種というやつが一番偉いんだ」と言うが、黄というのは最も乾坤の精なるもののようである。これを総合統一すると無色、すなわち白くなるので白も重んぜられる。そこで昔から黄金白銀は乾坤の至精というが、日本はその乾坤の至精に恵まれておる。


 したがって「人心通明」である。


 昔から明・清・静((ひつ))ということが古新道の三根本精神になっておるが、人間の幼児・児童を調べてみると、明るい、清いということに最も敏感である。そして、あらゆる活動の調和は静の感覚になる。たしかに日本の古神道が表すように日本民族は本来通明であります。


 ところが「近世は国土の霊もうすく人もおとりゆく事は、山択の至精をたくわえ、かくさずして、金銀銅鉄多くほり出し」、含蓄、潜在的能力化されるのがいいわけである。そうしないで、かくさないで、金銀銅鉄を多く掘り出して、外国へまで渡し、その結果「山あれ、川浅く成りたるゆえにてもあらんか」と叱る。


「有無をかうる」とは交易することである。交易するということは、生命の本来の作用であるから、いろいろに交流しないわけにはいかない。したがって、薬種などは外国から輸入して、どんどん交流するのがよいのであります。


「糸類の物は、唐物を来たさずとも、政道のありようにて日本の中にて事たるべし」糸類のものは、唐物を輸入しなくても、政道のありようでは、日本のもので事足りる。「日本のきぬのみ用いたる時は、かえりて人道も風流に」なるのであります。


 この間、聞いた話に目をみはらされたことがある。ごく最近、石油からパルプをとることに成功した。


 これは偉いことで、特に山林を乱伐して、山が赤く荒らされ川底があかくなっておる。自然を荒らしすぎておる日本に、石油からパルプができるようになったとは、実に瞠目に値する。そうなると、例えば紙にしても建築にしても、ますます木造なんてなくなり、また反面において風流になる。変化の妙で、「近代唐物多くきてけっこうなれども、人道いやしくなり侍り」である。


「人も才知あらわれ過ぎたるよりは内にたくわえて徳を養い、時に用うるこそよく侍れば」、何にしても人間のいろいろの能力はできるだけ潜在的に豊かにして、少しずつ表すのがいい。だから、「金銀も世の中に多すぎたるよりは」、通貨と同じことで、インフレーションになるよりは、少し締まったほうがいい。「国土の精と成りて、山中にふくみたるやよく侍らん」、その国の自然が、人工よりも少し多くなければ、つまり人工的表現が、自然的素養の少し外に現れているような具合が一番いいのであります。


 このごろのようにせっかくの美田やら沃野をつぶして、工場にしたりゴルフ場にしてしまう。


 日本はやりすぎる。ゴルフ場なんてけしからん。あんなものはいくつかあればいいのに、どこの府県に言ってもメチャクチャ作っている。ひどいのになると、県当局が営利会社と結託して、国有林や県有林をゴルフ場にしている。


 わざわざ国有林や県有林との等価交換をやらせて、タダ同様に払い下げ、県庁の天下り職員を重役に迎え、そして残った膨大な余分の土地を別の会社に数十倍の価格で売却している。こうして、大事な山野を厭わしい営利の対象に弄び、どんどん自然をつぶしてしまうのだ。


 海も埋めてしまう。日本人はもう少し自然を温存しなければならない。人間個人においてもそうだ。あまりに才とか智とかに走りすぎる。山や野や海を荒らすと同じように、日本人は才智というものを表面に出しすぎている。本来、人間は氷山と同じように、三十センチの才智が表面に出ておれば、その奥には一・五メートルくらいの徳というものがあるはずなのである。あらゆる意味で、生命力というポテンシャルが体の中に八割ぐらい蓄積されて、二割が出ておるのがよいのであります。


 個人の社会活動・地位というようなものも、中国の袁了凡えんりょうぼんの「功過格こうかかく」といった思想の一つの原則になっているが、「あれだけの人が、あれぐらいの地位にいるのはお気の毒だ」というぐらいのところにいるのがちょうど良いのであります。


 また、子孫のことを考えても、非常な徳や才能がありながら、何代もの親たちがむしろ野にあった、埋もれていた、そういう人の子孫から偉人がでる。「将門・将を出ださず」「金持ち三代なし」というように、貧乏はいくらつらくても七代我慢したらもう子孫は貧乏でなくなる。


 蓄積するほどいい。だから親父は「俺はもっと出世して当然なんだけれども、それをしなかった」というのは、子孫のためになると思えば、どんなに不運でも、もって慰むに足る。「国土の精と成りて、山中にふくみたるやよく侍らん」で、皆さんも安心して、ジタバタしないで勉強なさると、子孫に偉いやつが出ると思うのであります」




 ここらでよかろうかい。


 改めて贅言するまでもないほど分かりやすい解説で本当に勉強になります。


 ちなみに、日本人が大好きな海藻である昆布やわかめにはカリウムが含まれているのですが、これは放射線を出す物質カリウム40も含まれているそうな。でその、放射性物質であるカリウム40を多く含むのが、環境省のホームページによると、牛肉や魚で100デシベルなのに対して、お茶で600、干しシイタケで700、干し昆布でなんと2000デシベルも含まれているのだとか。


 わざわざ凝縮した放射性物質と違って、昆布とかシイタケは自然界に昔からあるものなので、人体にそこまで有害ではないのでしょうし、もっと言うのならこういう、自然界に多く含まれる放射性物質を取り込むことで、実は日本人の優秀性が発揮されていたのではないか、という考え方もできるわけですね。


 また、日本列島に頻発する地震というのは、ある意味、国土が若いから地震が多発するとも言えるでしょう。なんせ、四箇所も大陸プレートがあるところですし、新しく国土が生み出されるということでもあるのでしょう。


 その新鮮な、霊気に満ちた島々によって育まれた食物を食べて生きる。ありがたいことであります。


 そんな神々によって守られし島国に、永久に大和の民族が幸せに暮らせればよいのですが。


 といったところで、その二はこれにて。


 したらば。



『精霊の守り人』のOP EDを聴きながら。


 珍しく精霊の守り人は原作小説読みましたけど、でも、アニメみた人ならきっとアニメの方がすごいと思ったと思いますね。一冊の小説の内容をあそこまで世界を緻密に、かつ躍動感ド満載で広げられたら、原作者さんはちょっと圧倒されたのでは?w


『攻殻機動隊』といい、あの頃のProduction I.Gはすごかったなぁ。いえ、昨今の「風が強く吹いている」とかも好きですけど、でもバルサの戦闘シーンは圧巻でしたね。世界観の表現といい、すべてのキャラも生き生きとしていましたし、市井のモブにすら生命感があふれていた。わたしにとって最高峰のアニメは『精霊の守り人』ですね。あれ以上はそうそうない。


 そこにタイナカサチさんの歌声がまたバエルんだw


 ん? 実写版はどうかって? 


 ……ちょっと見てやめますた。


 -人-。


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