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杞梓連抱にして数尺の朽有るも良工は棄てず



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 唐突ではございますが、昨今のヤホーニュースを伺っておりまして吉○興業の記事を読んでおりますと、自然とこの故事が頭に浮かんだので、ちょいと戯言デー。


 昨今、吉○では契約終了となるお人が続出しておるようで。


 会社が芸人を雇用するという関係ではなく、エージェント契約、ということのようで一種の派遣契約のようなものでしょうか。まあもともと、芸能界というのは普通の会社ではないので一般的な雇用形態ではなく、事務所とタレントとの個々での契約が主なので特段大騒ぎするようなことではないのかもです。しかし、こと今回に関しては、発端が発端であっただけに、会社の命令には絶対服従、反抗的な人間はその存続すら許さぬ、という面が見えてきますと、やはり違和感が拭えません。


 そもそも、見識ある人は言うように、社会の枠組みに収まらないから芸人をやっておるのであって、社会の枠組みに、はいそうですかと収まるような社畜風情なら、そもそも芸人なんぞ目指すはずがない。


 そういう意味では、反社人間と、芸人というのは本質的な意味でそこまで大きな乖離はない、と指摘する見識ある人もおわします。


 しかしそういう、犯罪に手を染めていささかも恥じないような反社人間と違って、芸人というのはあくまでも芸事の世界で、己の価値を見出す、己の存在を誇示するという点において相違があるはず。落ちこぼれても、人としての枠組みまで落ちこぼれてはいけない、という矜持があるはず。


 芸の中で己の価値を見出す。それがどんな茨の道でも、笑顔の裏に血反吐を吐く毎日があろうと、人様の前で芸を披露する、ということに芸人さんは己の人生を賭していたはず。それを矜持としていたはず。そしてそういった、一癖も二癖もあるような芸人さんを束ねる組織こそが、吉○だったはず。


 いかにも、大阪発祥らしい、紙っぺら一枚の血も涙もない契約関係ではなく、義理と人情を大事にする会社である、という認識でありましたが、もはや今の吉○はそういう旧態依然としたものではないようです。



 だいたい、いまでこそうるさいが、ちょいと前は「女遊びは芸の肥やし」と普通に言われました。


 いまこんなことを言えば、それこそ女性蔑視だ、非常識だ、と炎上まったなしでしょうが、しかし、それが芸人というものであったし、かつての日本人は、それらをひっくるめて、芸人という存在を認めていたはずです。もっと言うなら、それこそ昭和の芸能人なんてのはスキャンダルの塊。非常識極まりないのが、芸能人という存在だった。そして、だからこそ、そのスキャンダルの淵源こそが芸能人という憧れのひとつでもあった。


 袋ごと立つほどの札束が貰えたし、


 夜の店で豪遊し、数千万使い切った、


 数多の美女とそういう関係になった、


 凡人ごときでは、目指そうとしても決して到達できない、美貌に美形、名声と羨望、有り余る富を手にする、はるかな高みにあったからこそ、芸能人という憧れがあったわけです。たくさんの美点があったが、ある意味だからこそ、欠点も同時につきまとった。


 物事というのは、長所だけでは終わらないし、欠点だけでも終わらない。一長一短、何かが秀でると、何かが劣る。これが人間というものです。何もかも完璧な完璧超人はそうそういやしない。


 戦国時代でもそうですね。


 かの太閤殿下も、無類の才覚で一介の農民から天下人に上り詰めた。しかし、漁色が甚だしく、それは日本にやってきた宣教師にも知られるほどであった。でも、その長所と欠点が一緒くたになったところが、太閤殿下の魅力でもあったわけです。そういう意味で、欠点が少なめな権現様に比べますと、魅力という点ではやはり太閤殿下に軍配が上がります。


 太閤立志伝はありえても、権現立志伝は絶対にありえないのです。


 さらに言うなら、昭和の有名人を伺うとこういう一長一短がうじゃうじゃありますね。有名所を伺いましても、


 例えば赤塚不二夫さん。


 編集者さんに対するイタズラは、時にドン引きするくらいだったとか。今どきそんなことすれば大炎上まったなしというどぎついイタズラをやったとか。また、


 例えば本田宗一郎さん。


「頭とチ○ポは生きているうちに使え」


 と言ったというのが有名ですね。まあ、それで社長の座を引きずり降ろされた、と聞きますが。


 一面、こういった天才というのは、枠に収まりきらないところがあります。そういう、人間として大きく飛び出たところが天才の天才たるゆえんであり、同時に欠点でもあるわけです。


 そうしてみますと、芸人さんが枠をはみ出るのは仕方がない部分として肯定する他はないでしょう。もっと言うなら、笑いというものが、四角四面に収まった枠内で生み出されるものならば、最高のお笑い芸人は高級官僚たちであると言ってよい。部屋の中で閉じこもって、六法全書開いてうんうんうなりながら必死こいてネタ考えて、人々を笑いの渦に巻き込めると思えるのならやってみろ、と言いたいですね。


 芸とは、破天荒、型破りの中から生み出されるのであって、常識の中から生み出されるものではない。非常識の中から、笑いとは生み出されるのです。


 だって、ケンミンショーで大阪の人は巧みにボケますけど、そのボケだって、非常識を演出するから面白いのであって、常識的なこと言って面白いわけがない。それを生業とする芸人さんが、平々凡々たる常識人に成り果てた時に、笑いは死ぬでしょうね。


 そういえば、吉○が監修したとかいう「まえせつ!」ちょびっと見ましたけど、くっそつまんなかったっすw あれを見て思えることは、今の吉○が目指すのはあそこである、というわかりやすい証明なわけです。


 どだい、そんじょそこらの平々凡々たるオナゴ衆が、平々凡々たる人生生きてそれでオツムを必死こいてひねっくったって、そこから抱腹絶倒のお笑いが生み出されるわけがないことは、そんなことはわたしでも分かる。それが自分たちの目指す未来だと思っているのなら、誰も止めはしないのでどうぞ突き進んで逝けばいいでしょう。


 だいたい、ダウンタウンという、致命的なスキャンダルも醜聞もない、破綻した性格でもなく常識的な人間でありつつも、それでいながら最高峰の笑いを生み出せる、という天才は類まれな存在なのであって、それをすべての人間に要求するのはそれこそ無謀というもの。


 ほんの一握りの天才は、生まれながらに卓越した美的センスや絶妙なる勘所を知っていますが、そうではないその他大勢は、泥水すすって自分の人生を消耗しつつ少しづつ少しづつ己の体に刻み込む他はない。


 わたしだってそうですね。わたしも、生まれ付き安岡先生のようなハイパーな天才に生まれてれば、と思います。でも、そうではないと諦めるからこそ、なんとかして偉大なる目標に少しでも近づきたいと思って日々、学問するわけです。


 ある意味、この諦める、というのが大事でして。


 諦めて諦めて、諦めきったからこそ、諦めきれないものを己の中に発見するわけです。


 その、諦めきれない、己の中の本当に大切にすべきものを磨き上げることこそが、悟りの一歩なわけです。諦めとは、悟りに通ずるわけです。


 己の中に、笑いへの衝動が、諦めきれない渇望があるからこそ、芸人という人生が生きられるのでしょうし。


 だからこそ、題名に戻りますが、




杞梓連抱(きしれんぽう)にして数尺(すうせき)(きゅう)有るも良工は棄てず】




 一抱えも二抱えもある大きな杞(柳)や( )(あずさ)は、どうしてもそこに何十センチもの朽ちたるもの、腐ったものや曲がったものが出てきてしまう。


 しかし、名工は適材を適所に使い所を見極め、迂闊には捨てない。




 これなわけです。


 あの、


 雨上がり決死隊の宮迫博之さんやロンドンブーツ1号2号の田村亮さんがメディアに吊し上げを食らった時、極楽とんぼの加藤浩次さんが怒り心頭に発したのも、そこにこそあると思う。


 凡百の芸能事務所なら、血も涙もない紙切れ一枚の契約関係だから、トカゲの尻尾切りも仕方ないかも知れないが、吉○は違うだろ!? と、思われたのでは。


 大阪発祥の、義理と人情でやってきた吉○のやることかよ!? と、怒髪天を衝いたのでは。


 炎上炎上と、何でもかんでも吊し上げりゃあそれでいいという、現代社会の風潮に迎合してどうするよ!? と、言いたかったのでは。


 こういう言葉もありますね。「身捨つるほどの祖国はありや」と。吉○が平気で人を捨てるようになった時、誰が吉○のために働けるのか、と。紙切れ一枚の契約関係でしかないのなら、皆が皆、よその事務所で契約したらどうなるのか、と。


 ここであの二人を見殺しにしてはいけなかった。見捨ててはいけなかった。


 むしろ、社長が前に立って、こう言うべきであった。



「この度は、反社と関係をもってしまって申し訳ございません。


 ですが、ご理解いただきたい。こいつらはしょせん、反社と同類なんです。反社と目くそ鼻くそなんです。だから、反社と一緒に酒が飲めるのも、そこにあるのです。皆様には理解できかねるかもしれませんが、そういうボンクラが、芸人という生き物なんです。でもそういう、コラッと叱ってやらんといかんような出来事を通して、それを笑いに変えるという芸当ができるのが、まさしく芸人という生き物なんです。


 でもだからこそ、こいつらボンクラをすくってやる受け皿が必要なんです。ボンクラを放っておいたら、これこの通りに簡単に落ちぶれてしまうんです。


 最後のセーフティネットが必要なんです。


 もし、こいつらボンクラを救う受け皿がなくなってしまえば、こいつらボンクラは、本当のボンクラに成り果ててしまうんです。だからこそ、わたしらがこいつらをすくって、守ってやらねばならないんです。そういう社会の仕組みすらなくなってしまったら、生きる望みすら無くしてしまうのが、こいつらなんです。


 そして、それができるのが、わたしらであると、自負しておるのです。


 だからこそ、わたしはこいつらを愛しているんです。


 どうしようもないけど、そのどうしようもないやり場のない憤りとか阿呆を、歯を食いしばって笑いに変えてしまうこいつらを、わたしは心底愛しているんです。


 だから皆さん、こうして悪さもしてしまうどうしようもない奴らですが、ここはひとつ、わたしに免じて許していただきたい。


 わたしのように、皆さんも、このどうしようもないボンクラを愛してやってほしい。


 そうすれば、いっかなこいつらでも恩義に感じます。


 本当に、ありがたく思います。


 そうすれば、必ず、それを笑いに変えるでしょう。お茶の間に、笑いを届けてくれます。


 どうしようもないボンクラですが、ひとつだけ、人様に自慢できる芸で、皆様にお返しします。


 我々吉本は、皆さんに受けた御恩を必ずお返します!」


 

 そう言い切った時、すべての問題など吹き飛んだでしょうね。


 さすが吉○と日本中の人々が拍手喝采を送ったでしょうし、若者も、ここならアホできる! と吉○を目指したでしょうし、加藤さんも随喜の涙を流して元気に働けたでしょうに。


 そう言えない所に、現代日本の致命的な欠陥がある。何も吉○だけの問題ではありません、至る処、日本全土で、人が人を愛するということを、日本人はしなくなってしまった。


 だから、紙っぺら一枚の契約でよしとするようになってしまった。


 東京砂漠どころか、寂寞たる日本砂漠で、マシーンに成り果てて今日も角逐し合って命と心の削り合いをやっている。


 モッタイナイ。



 では、最近見たCMのセリフをほざきながら、今宵はこれまでとします。



「あんた、そこに愛は、あるんか?」



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